梟は、黄昏に飛び立つ

やらずの

梟は、黄昏に飛び立つ

 夕暮れのオレンジに染まっていく空に一羽の梟が翔んでいく。

 大きく広げた翼をはためかせて加速する。淡褐色の羽毛が散って宙を舞い、夕陽に照らされてほのかに煌めく。

 重力を跳ねのけるように高く浮上した梟が、小さくなった街をちらと一瞥する。暗褐色の円らな瞳には闇より深い虚無が湛えられ、ただ無機的に夜の入り口に立った街を映す。

 まるで別れを告げるような視線を最後に、梟は前を向く。もう一度、今度は何かを断ち切るに鋭く翼を震わせて、梟は加速して翔んでいく。

 どこまでも遠く。

 目の前に広がる濃紫の闇にここではないどこかを求めて。

 あるいはまた、赫々かくかくと燃ゆる、背にした太陽の眩しさから逃げ出すように。


   †


 金属の軋む音が寂しく響く。

 それはまるで悲鳴のように切実で、今にも壊れてしまいそうなものを必死に繋ぎ止めようとしているようだった。

 遊具や砂場で遊んでいた子供たちの声はいつしか疲れの色を帯び、傍らで見守っていた母親たちの温かさとともに遠ざかっていく。

 天羽智あもうともはブランコに腰かけながら、忘れられたように啜り泣く、軋みの音に耳を澄ませていた。

 影が長く伸びている。

 ぼんやりと虚ろな表情でいた智は、目の前をはらはらと舞う羽に気づく。そっと手を伸ばし、風が吹けば掻き消えてしまいそうに儚いそれを丁寧に掴む。落とし主を探そうとして空を見上げる。 

 そしてふと我に返る。

 空はもう半分近くが夜を迎えていた。どうやらぼんやりし過ぎていて、思いの外時間が経っていたことに気がつかなかったらしい。智は掴んだ淡い褐色の羽を大事にスカートのポケットに仕舞い、追い立てられるように立ち上がる。


「帰らなきゃ」


 掠れた声で呟く。

 それは先延ばしにしようとして叶わなかった罰であり、智の心を焦がし続ける否応なしの義務だった。

 砂の上に倒れた鞄を手に取って、無理矢理に脚を動かした。まだ揺れているブランコが名残惜しそうに軋んでいたが、振り返るわけにはいかなかった。

 智は後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、公園を後にする。

 家へと向かうまでの道程は驚くほどにあっという間に過ぎ去っていく。

 気がつけば智はマンションのエントランスに立っていて、インターホンを鳴らそうとして震える指先は強張っている。

 大丈夫。

 言い聞かせて、智はインターホンを鳴らす。

 部屋の人間にはインターホンのカメラが来訪者の素性を伝えてくれるので、いつも通り無言で解錠。ガラスの扉が静かに開く。

 エレベーターに乗り、真っ直ぐ伸びる通路の突き当たりを右に曲がれば、玄関バルコニーが見えてくる。

 智は扉に手を掛けて開く。来訪を検知して玄関に照明が灯った。


「どこ行ってたの」


 靴を脱ぐ間もなく、投げつけられた鋭い声に智は肩を強張らせる。伏せていた顔を上げれば、白い壁に寄り掛かる母が缶ビール片手に赤らんだ顔で、智を睨みつけていた。


「…………あ、あの、ともだちと、寄りみち」

「あっそう」


 母は智の言葉を最後まで待たず、不機嫌そうに鼻を鳴らしてリビングへと戻っていく。智は乱暴に扉が閉められるのを待って、廊下の途中にある自分の部屋へと逃げ込んだ。



 智の部屋はがらんどうだ。

 友達の部屋に上がったことなどないが、それでも年相応の女の子の部屋にあるようなものがほとんどないことは分かる。

 あるのは小学校の入学と同時に買ってもらった机と、小さい頃に読んでもらった絵本、そして薄汚れたぬいぐるみ。どれもこれも十年以上昔に買ってもらったものばかり。

 智の部屋は、あの日から時間が止まっているのだ。

 いや智の部屋だけではない。母も、そして智自身も、きっとあの日から一歩も前には進めていない。

 智は制服姿のまま、電気もつけずにベッドの上で膝を抱える。校則を遵守した丈のスカートが僅かにめくれ、細くて白い太腿に刻まれた痣が覗く。

 太腿だけではない。腕や首、長い前髪を掻き分ければ額にも、痛々しい傷痕があった。

 その傷は新しいものもあれば、幾年も前につけたような古いものも多くあった。どの傷がいつどうやってついたものか、智はもう覚えてなどいない。

 深い呼吸を繰り返しているうちに、微睡んでくる。

 だが智を逃がさないと言わんばかりの鋭い破砕音が智の耳朶を打った。


「何なのよぉっ!」


 金切り声。そしてまた破砕音。続くのは何か重いものが壁を突いたような低い音。


「あぁ、あぁ、ああああ、あああああああああああああっ!」

 母の絶叫とともにそれら全ての音が重なり、暴力と破壊の輪唱を始めた。

 智は薄暗闇のなかで膝を抱える。小さくなればこの嵐から逃れられると信じるように。

 だが床を踏み鳴らす足音は、荒々しく近づいてくる。


「ともぉっ? ねえ、ともっ!」

 名前を呼ばれるたびに震えた。歯の根が冗談みたいにがちがちと音を立てた。四肢には力が入らず、まるで自分のものではないみたいに動かなくなった。


「開けなさいよっ! なに、お前も私に反抗する気かっ!」


 母の怒声が扉越しに響く。扉が激しく打ち鳴らされ、その度に智は強烈な吐き気を催した。

 やがて扉が蹴破られ、蝶番が吹き飛ぶ。

 廊下の光が部屋へと射し込み、影が差した母の顔が怒りに歪んでいるのが浮かび上がる。


「どういうつもりなのよっ!」


 母は部屋へ踏み込んでくるや、手加減なしの強烈な平手を智の顔面へと見舞った。智は吹き飛び、ベッドの上に倒れ込む。間髪入れずに髪を掴まれ、強引にベッドの上から引きずり下ろされる。顔を床へと打ちつけ、口のなかが切れた。


「このグズがっ! 呼んだらすぐに返事もできないのっ!」


 倒れ込む智の腹に蹴りがめり込む。息が止まり、催していた嘔吐感も相まって、智は床に吐瀉物を撒き散らす。


「いやぁぁっ! なんでこういう汚いことするのぉっ!」


 母は絶叫し、智の肩を踏みつけた。何度も何度も踏みつけ、何度も何度も足蹴にした。

 吐瀉物が喉に詰まって咽た。それでも母の暴力は止まらなかった。

 殴られ、嬲られ、蹴飛ばされ。やがて気が済んだ母は「汚れちゃったじゃない」と舌打って、智の部屋から出て行った。

 喉の奥で押し殺すような啜り泣く声が、薄暗い部屋に響いて消えた。



 智は次の日、学校を休んだ。

 傷や痛みが酷い日は学校に行ってはいけないのだと知っている。それは母の暴力が学校の先生やクラスメイトたちにバレるからであり、適当な言い訳で誤魔化したあと、怒り狂った母親はさらに暴力を振るう。

 だから学校へは行ってはならないのだ。

 母は朝早くに仕事へ出掛けていった。出掛ける前に、昨日吐いた吐瀉物の片づけがまだ終わっていないことを理由に顔を殴られた。噴き出した鼻血で壁が汚れ、今度は腹を蹴飛ばされた。息が出来なくなって喘ぐ智を冷たく見下ろし、母は仕事へと向かった。

 智はゆっくりと落ち着くのを待ってから片付けをした。ついでだったのでリビングに出向き、割れた皿や投げ捨てられた空き缶も片付けた。

 母は褒めてくれるだろうか。

 その後はシャワーを浴びた。何度か腹の虫が鳴ったが、母が稼いだ金で買った食べ物を勝手に食べることはできないので我慢した。着るものは全て小さいので、仕方なく制服を着直した。

 そして母が帰ってきた。


「ともぉ、ただいまぁ」

「お、おかえりなさい……」


 今日は既に酔っているようだった。智はそのまま寝てくれる幸運を祈った。


「ねえ、ちょっとこれ」

「は、はいっ」


 差し出された荷物を受け取ろうとして、母の手が止まる。


「……え?」

「ねえ、あんたさぁ、似てきたわね」


 母が不愉快そうに目を眇めて智の顔を眺めた。本能的に危険を感じ取ったが、肝心の身体は強張って全く動かなかった。

 刹那、目の前が赤く染まった。脳味噌が沸騰するように痛み、視界は歪み、聞こえる音が遠退いた。


「その目元ぉ、あの男にそっくりじゃないのぉっ!」


 靴べらで殴られたのだと気づいたときには次の一撃が振り下ろされていた。白い壁に赤い血が飛ぶ。

 智は四つん這いになって母から逃げた。母はヒールを履いたまま智の尻を蹴飛ばす。つんのめった智は廊下に顔を打ちつけ、折れた歯が転がった。

 必死だった。

 リビングへ逃げ込むと、投げ飛ばされた椅子が迫ってくる。椅子は智の背中で跳ね、そのまま窓を破ってベランダへ。外から冷たい風が吹き込んでくる。

 とうとう智は首根っこを掴まれ、床に叩きつけられた。母は握りしめたままの靴べらを鞭のように撓らせて智を叩いた。


「あっ、が、……っ」


 倒れ伏す智の前には血だまりが広がる。その真ん中に、昨日拾った鳥の羽が濡れていた。

 やがて母親は深呼吸を繰り返し、靴べらを床に捨てた。疲れ切った表情で智を見下ろし吐き捨てる。


「ほんと、あんたなんて生まなきゃよかった」


 母は汚れた床にスーツを脱ぎ捨てて、下着とブラウス姿になって脱衣所へと向かっていく。

 激痛に苛まれる智の脳裏に、母の言葉がこだまする。

 赤く濡れたその羽が、不気味に光った気がした。

 智はふらりと立ち上がる。落ちていた靴べらを拾い、母の抜け殻を辿るように脱衣所へ。

 曇り硝子の向こうに、シャワーを浴びる母の影が見えた。

 智は扉を開けた。


「……ねぇ、お母さん。私がいるよ。お父さんがいなくても、私がいるよ? 昔、みたいにさ、一緒にご飯食べようよ? 学校の話、聞いてよ? 絵本、読んでよ?」

「あ? あんた何言って」


 言葉を待たず、智は握った靴べらを振り抜く。

 湯の煙を、血飛沫が切り裂いた。



 気がつくと母は死んでいた。血だらけの顔を浴槽に浮かべ、裸のまま。

 智は泣いていた。そして啼いていた。取り戻したいと願った日常は、もうどこにもないのだと知って。

 智の傷だらけの背中には、夕陽のように淡い褐色の、一対の翼が生えていた。


   †


 夕暮れのオレンジに染まっていく空に一羽の梟が翔んでいく。

 どこまでも遠く。

 目の前に広がる濃紫の闇にここではないどこかを求めて。

 あるいはまた、赫々かくかくと燃ゆる、背にした太陽の眩しさから逃げ出すように。

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梟は、黄昏に飛び立つ やらずの @amaneasohgi

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