ガフの部屋

@ka_i_me_n_u

 物置の下に産まれた子猫が死んだ。

 一週間近く続く雨の音で、酷く耳が痛む。前の日は昼の一時から焼酎を飲み始めて、夕方の六時以降の記憶がない。頭をぎちぎちと締め付ける痛みが、漸く抜け始めたのが今。テーブルの上にある置時計は午後二時を告げている。

 そんな、いつも通りの日に、猫は死んだ。

 床に転がったペットボトルの水を拾い上げて、喉の奥へと無理やり流し込む。アルコールのせいで、身体は渇いているはずなのに、何故か喉が水を受け付けてくれない。二口飲んだだけで、息苦しさが勝ってしまう。喉は渇いている、それは分かっている。けれど、肝心の体が水を受け付けない。スポーツドリンクの方が良いのか、けれど。立ち上がろうとしても、関節が軋んでいる。ただの飲み過ぎ。ただの二日酔い。なのに、骨の奥まで錆びついてしまっている。うまく動かない。這いずるように、テーブルへと手をついて、上半身だけ起こす。散らばったスナック菓子やコンビニのつまみの空き袋の合間に転がっていた煙草の箱を掴む。二本だけしか入っていない。揺すりながら一本を抜き出すと、口に咥える。乾いた唾液がべたついて、フィルターへと貼りついてるのが分かる。歯で噛みながら、安いライターで火を灯すと、ニコチンの匂いが鼻の奥に滞り、ぐらると視界が揺れる。煙さえも身体は拒んでいる。分かっている。けれど。吸わざるを得ないのは、義務のように思えるのは。コーヒーの空き缶を片手に、窓際へと這いずる。雨。一面の雨。背中を壁に預けながら、二つ煙を吸う。視界の隅、アパートの一階にある、庭。その一角に物置がある。近くで見れば、丁度胸のところまであるそれ。雨に濡れて、青い扉がより濃く見える。その下に、子猫がいた。近くにいる野良猫が、勝手に孕んで、勝手に産んでいった。物置の真下には、丁度木の根が張っていて、丁度猫が数匹隠れるには丁度いい具合に洞になっている。そこに、住み着いたのらしい。一階に住んでいるおばさんが言っていた。紫煙が、窓枠に沿って、部屋に拡散していく。

 ごたごたが、あったらしいのは察している。

 けど、何も細かい事は、聞いていない。

 あのおばさんが猫に餌をこっそりやっていた事、このアパートはペット禁止である事、飼うなら去勢しろと言われていた事。漏れ聞こえる会話で分かったのはそれだけ。今思い返せば、十分事情を知っているともいえるが、けれど、本当の内情を本人たちから聞いたわけでもない。だから、外殻しか知らない。長く伸びた灰を、空き缶へと落とす。入口まで吸い殻が詰まっている。この一本、入るか入らないか。新しい、缶を持ってこないと。

 猫が、いつも鳴いていた。

 こんな雨の日は、いつもそうだった。

 隣に住んでいる子供の泣き声につられて、いつも鳴いていたんだ。じりと紙が焼けていく音がする。少し体が慣れてきた。喉が渇く。けれど、転がしていた水までは少し遠く、そこまでして飲みたくもないと、ただ無為に煙だけを吐き続けた。そう。猫はいつも鳴いていたんだ。昼間、丁度こんなぐらいの時間に。子供が泣くのと同じに。いつも泣いている。あの子供は。家に入れてと、泣いていて。けれど、誰もそれをどうしようとも思わなかった。ただ、今日みたいに飲み過ぎた次の日は、耳に錐を立てられているような痛みを伴う。だから、ずっと。じりと喉が軋んでいる。

 子供は泣いている。

 ただ、猫はもう鳴いていない。

 煙草はもう根元まで焼き切れている。

 空き缶に捻じ込み、火を握りつぶすと、緩慢に立ち上がる。まだ、酔いが覚めていない。体が重い。喉が痛む。ふらつきながら、テーブルの上に投げ出したままの長財布と携帯電話を手に取ると、もう一週間近く履いたままのジーンズへと捻じ込む。ライターは手に持ったまま。皺が寄って、くしゃくしゃになったコートを羽織る。煙と汗が染みついた匂いが、鼻を行き過ぎる。一度、クリーニングに出さないと。そう初めに思ってから、何日経っただろうか。覚えてはいないが、きっと昨日ではないだろう。

 重心が狂っている。視界が覚束ない。けれど、ないんだ。煙草がもうないんだ。だから、買いに行かなきゃ。寄りかかるように扉を開くと、湿った風がむぅと首筋に纏わりつく。雨が降っているのに、なんで暑いんだろう。まぁ、いいか。そのまま、サンダルを履いて、外に出る。

 アパートの外は、思っているよりもずっと激しく雨が降っていた。

 灰色に煙って、何も見えないほどに。あるのは、嫌に黒く滲んだアスファルト。錆び切った手すり。今にも朽ち落ちそうな階段。ドアの横に引っ掛けておいたビニール傘を取ると、階段を降りる。バラックで出来た屋根は役に立たない。横から殴りこむ雨水で、今にも滑りそうで。ゆっくりと踏みしめるように、降りていく。

 子供が泣いている。背中越しに聞こえる。極力目を合わさないように、極力知らないように。逃げるように。避けながら。階段を下りていく。

 猫がいる物置。

 階段を下りて、細い路地を通ると、そこに物置がある。その下に、猫はいた。確かにいた。母猫はいないみたいだ。雨音。アスファルトと傘を叩く音。子供が泣いている。おばさんはいない。物置へと近づき、中を覗き込むと、猫はいた。いたんだ、五匹。だが、皆、目を開けていなかった。息をしているようにも見えない。手を物置の下へと伸ばして、触ると、体温は感じなかった。偶然触れた物置と同じぐらいに冷たい。ああ、死んでいる。そう思った。おばさんが、どうして餌をあげなくなったのかは分からない。でも、彼らはここから出ることはなかった。母親も、何処かへ行ってしまったらしい。

 そこで、僕は吐いていた。

 昨日から残った酒が胸を焼いている。かがんだ瞬間に、きっとぶり返したのだろう。けれど、ろくなものを食べていないから、胃の中には何もない。だらだらと溢れるのは唾液ばかり。胃液が逆流して、舌の上を滑り落ちていく。こめかみが切れてしまいそうだった。背中が発狂している。指先が震えて、いう事を聞かない。でも、何も吐くものがない。あるのは、搾り出された数滴の水と緑に染まった胃液に赤黒い血が混じって。どのくらい、そうしただろうか。ぜぇぜぇと荒く息をつき、両腕を自分で抱きながら、三度ほど唾を吐く。漸く、落ち着いて。僕は、その猫の死骸を一匹だけ掴むとコートのポケットへと収めた。子猫は掌に収まるほど、小さかった。

 吐いている時に落としてしまった傘を手に取ると、立ち上がって。

 ふと見られている気がした。

 振り返ると、二階の部屋、自分の隣に住んでいる女がじっとこちらを見下ろしていた。子供が泣いている声がする。多分、母親なのだろう。嫌に気まずくなって、視線を伏せると、足早にその場から逃げた。


 煙草を吸う。

 ベンチに腰掛けながら、コンビニで買ったばかりの煙草を飲んでいく。既に飲み切っていた缶コーヒーを灰皿に、ミニボトルの焼酎で適度に喉を湿らせながら、ぼうと公園を見つめる。

 雨の日、平日の午後三時近く、そんな時間に公園にいる人は誰もいなかった。知っている。ただでさえ、ここには人がいない。高架下にある、この場所は昼でも薄暗く、辿り着くには嫌に長い階段を登らないといけない。近くを通る道路も決して広いわけではなく、その割にトラックが夜中はいつも行き来している、そんな往来だから、暴走族でさえもたまり場にはせず、一日中殆ど人がいない、そんな場所だった。こんな雨の日は、特にそうだ。他の公園だと、不審者として通報されたりもした。彷徨って、辿り着いたのがここだった。少なくとも、今のところは誰にも見つかっていない。頭を打ち鳴らしていた痛みは安い焼酎のアルコールで引いていた。どうせ、このまま、午後六時にはひっくり返って寝てしまうのだろう。なら、いいじゃないか。根元まで吸い切った煙草を空き缶の中に捻じ込んで、もう一本を口に咥える。どうやら、煙草が値上がりしていた。気が付かなかった。ニュースなんか見ないから、まるで知らなかった。今日だって、カートンで買っていた煙草がたまたま切れたから出向いただけ。そうでなければ、知ることはなかっただろう。もう、どのくらい、こうしているだろう。日付の感覚が、もうよく分からない。もうずっと、ずっとこんな毎日だ。さっき、コンビニで新聞の日付を見て知ったけど、今は六月だったらしい。どうりで、コートでは暑いと思った。けれど、他に着るものはないし、仕方がないと割り切った。

 火を点けようと、コートのポケットを漁って、思い出した。

 手の中には、ライターと猫の死体が一つ。

 持ってきていたのだった。

 どうして、この一匹を持って行こうと思ったのだろうか?

 膝の上に乗せて、煙草に火を点す。焼酎のカップをベンチに置き、空いた手で肌を撫でる。痩せ切って、骨がごつと指先に当たる。肋骨、足の骨、背骨、首の骨。はっきり形が分かる。こうして見ると、猫は獣なのだと気づかされる。閉じ切った目。頭蓋骨の形が良く見て取れる。少し強く握れば、砕けてしまいそうだった。生きていた。鳴いていたのだから、生きていたのだろう。けれど、何のために?

 ぼんやりとそんな事を思った。

 じりと紙が焼ける音が聞こえる。

 墓を、作ろうかと多分思ったのかもしれない。けれど、何故この一匹だけなんだろう。他にも子猫はいた。たまたま指先に当たったのが、この猫だ。ただそれだけ。長くなった灰を地面へと落とす。匂いは分からない。まだ腐っていないのか、自分の鼻が莫迦になっているだけなのかは分からないけれど。指先で撫でる。紫煙が目に入って、少し染みたせいか、何の感情もない涙がぼろぼろと瞼を汚し始めた。痛む。酷く、目が痛む。左手で拭いながら、煙草を空き缶へと押し込む。まだ半分も吸ってはいなかったけれど。少し引くまで待とうと、そう思った。

 涙で滲んだ視界の中、一つ人影が見えた。

 こんな所に、人がいる筈がないのに。僕は咄嗟に猫をコートのポケットへと隠してしまっていた。見られたら、何を言われるか分からない。そう咄嗟に。人影は、ただぼうと公園の真ん中に立って、真っ直ぐに両手を空へと伸ばしている。空と言っても、あるのは高架下、高速道路の底だけだ。何が見えるわけじゃない。僕もつられて、上を仰いではみたけれども、何もない。馬鹿馬鹿しくなって、煙草を一つ咥えて火を点ける。もう涙は引いていた。代わりの喉の奥が厭に痛む。立て続けに五本吸っている。だからかもしれない。焼けた喉を更に焼酎で爛れさせる。ぎりぎちとアルコールで食道が焼けて、胃が燃えている感覚がする。この感覚は、嫌いだ。好きな人がいるなら教えて欲しい。

 人影。

 どうやら、白樺みたいに痩せた、自分と同じくらいの男だった。有名なスポーツブランドのジャージを上下に来て、ただ、両腕を空に掲げながら、くるらくると回り続けている。雨雲で隠された光、それでも分かる。彼の髪は、少なくとも黒くはなかった。白い。真っ白い色。抜いてるのだろう。あんなに不自然にしたら、就職も大変だろうとそんな事をぼんやりと。

 四度回って、彼は僕と向き合っていた。

 気づかなかった。

 真っ直ぐの視線が、僕を見ていた。身長、こんなに大きかったのか。夕暮れ時の電柱を思い出させるような大きさだった。それが真っ直ぐ、見下ろしてくる。紫煙がゆっくりと昇りながら、彼と僕の間で拡散して、解けて砕け、空に溶けていく。言葉はない。雨音だけが耳を塞ぎ込んで。

 何かを話そうと思ったんだ。だけど、もう何日も何か月も他人と話をしていない。だから、声の出し方を忘れてしまっていて。上擦ったまま、ひゅると空気だけが喉を行き過ぎる音しかさせられない。それを見て、彼は手を下すと、かかりと笑った。顔の半分が口になるんじゃないか、そんなぐらいまで開けて、笑っていた。くしゃりと歪んだ瞳、大きく開け放たれた口の中は、底なしに暗かった。ただ笑う声は、何処までも明朗に、かかりがかりと高架下に響き渡る。指先が震えていた。目の前にいるそれが、同じ人間には見えなかった。なんだろう、これは。僕は、ただ、煙草を吸い続け、焼酎を喉に押し込んでいる。体が動かなかった。言う事を聞いてくれない。

「こんにちは!」

 そう、挨拶をされた。明朗な声で。

「こんにちは!」

 もう一度。

「こんにちは!」

 返せと言うのだろうか。僕は必死に言葉を出そうとしたが、擦り切れた喉は使い物にならない。出し方も忘れてしまった言葉が、ぼろぼろになって紫煙と一緒に零れ落ちてしまっている。視界が左右にぶれてしまう。僕はただ頭を下げるしかなかった。

 どれくらい、そうしたろうか。

 目の前にあった気配はなく、頭をゆっくりと上げると、彼は僕の隣に座っていた。真っ直ぐに公園を見ている。何を見ている訳ではなく、ただ顔が前を向いているだけでしかないかのように。僕は、どうしていいかも。ただコンビニの袋の中にあった、未開封の焼酎を空けて、喉に流し込む。

「美味しいですか」

 彼は、こちらを一瞥もせずにそう言う。尋ねられている。僕は、どうとも答えずに、ただ首を横に振っていた。美味しいか。美味しいかだって? こんなもの、一度だって美味かった試しなんかない。その言葉は、出ない。煙草を吸う。じりと一気に人差し指の先ほどの長さが燃え尽きる。

「美味しいですか」

 彼は、こちらを一瞥もせずにそう言う。僕は、ただ首を横に振り続ける。美味いものか、こんなもの。一度だって美味かったことなんかない。酒も煙草も、美味いと感じた事なんか、一度もない。半ばまで尽きた煙草を空き缶に捻じ込み、そして、また火を点ける。舌が痺れてきて、喉が拒み始めている。何も口にしたくないと、身体が言い始めている。それでも、僕は焼酎を胃に押し込んで、煙を肺へと流し込む。

「美味しくないのに、飲むんですね」

 彼はこちらを見ない。見ないで、そう呟く。そうだよ、それの何が悪いんだ。そう言い返したかったが、言葉が出てこない。喋ることが、出来ない。

「僕と一緒ですね」

 そう呟く。

 初めて、彼は僕を見た。正確には僕の方を向いているが、視線は僕の後ろにある何かを見ているようで。透明にされているような気分だった。

「僕もそうなんです。意味のない事をしているんです」

 そう笑う。

 もう少し、人間的な笑いだった。

「胎児記憶って知ってますか?」

 初めて聞く言葉だったから、首をただ横に振る。彼は再び空を仰ぎ、両腕を真っ直ぐ上に伸ばした。暗がりに見える指先は、細く、透き通っているようで。実在を感じない、そんなものだった。白く、何処までも白くて。人形と言われても、信じてしまいそうで。

「マイナス一歳の記憶とも言うんだそうですよ。そう、子供は産まれる前は神様のところにいるんです。そしてね、神様と一緒に産まれるべきかそうではないかを相談するんだそうです。あの親はきっと自分を幸せにしてくれる、だから産まれよう。あの親にはまだ自分は早い、だから、産まれないようにしよう。あの親は、子供が必要だけど、少し苦労しなければならない、だから、産まれてくる自分は少し欠けて産まれよう。そんな風にね、神様と相談して、産まれてくる親を決めて、産まれる事を決めるんです。決してね、人は、受動態で産まれないんです。そういうのが、胎児記憶」

 流れるように。

 そう喋る。

 ニコチンが少し落ち着いた。僕は、彼の話を鼻で笑っていた。

「信じませんか?」

 今度は言葉に出来ないんじゃなくて、したくないから首を横に振った。信じる筈がないだろう、そういう意思表示として。質問の答えとしては、信じると受け取られてもいい。どっちでもいい話だ。

「そうですか」

 彼は上を向いたまま。

「僕はね、この考え方を聞いた時、ふと考えたんです。僕にはその記憶がないのだけれど、もし本当に神様と相談して、こうして産まれる事を決めたのなら、何を決めたんだろうって。どうして、産まれようとしたんだろうって、何の意味を求めて、僕はゼロ歳になったのだろうって。そうしたら、分からなくなっていた。だからね、逆の事をしようと思ったんです」

 僕は焼酎を一口、喉へと流す。

「意味のない事をしようって」

 すくりと立ち上がり、彼は僕を真っ直ぐ見下ろす。

「何の意味もない事を繰り返してみようって、そう思ったんです。そうすれば、きっと、逆説的に意味のあるものが見えてくるに違いないって。だから、僕は意味もなくこうして公園で回るし、意味もなく髪の色を抜きました」

 大仰に手を伸ばし、空を仰いでいる。

 その仕草も、多分、意味なんかないんだろう。本人がそういうんだ。きっと、そうなんだろうよ。なんか分ったかい。僕はそう言おうと思ったけれど、やはり、言葉が上手く、出てこない。本当に話し方を忘れてしまっているみたいだ。他人と会話したのが、いつだったのか、もう全く思い出せない。

「何も見えてこない。きっと、こんなものではないんでしょう。だって、神様との約束ですからね。だから、もっと、もっと無意味で世界を埋めていかないといけない」

 恍惚と。そう語る姿を、馬鹿には出来なかった。

 本気でそう思っているんだろう。だったら、僕が何かを言う事なんか出来る筈もない。

「貴方も、意味のない事してみませんか?」

 僕の目を、覗き込む。純粋な瞳だった。真っ直ぐで、白く濁った眼。青い虹彩に、白い薄膜がぺったりと貼りついている。これも意味のない行動の一つなのか、そういう病気なのかは分からない。ただ、僕は。曖昧に笑うしか出来なかった。


 部屋に戻って、テーブルの上に、猫の死骸を置いた。

 家にあった一枚きりのハンカチ、くしゃくしゃになって折り畳まれたまま固まっているそれを無理に広げ、そこに寝かせた。周りに、空いた煙草の箱を放射状に並べる。焼酎を飲みながら、ぼうとそれを見つめていた。何だか、弔いをしているようで、これは意味があるような気がしていた。もっと、無意味でなければならないのだろうか。僕は、ぼうと焼酎を呷りながら。猫の向こうにある置時計は夕方五時を告げている。そろそろ、記憶が覚束なくなる頃だろう。ああ、そうか。そうだ、もっと飲めばいい。前後不覚になれば、もっと意味がなかろう。多分。僕は、スーパーに売っていたプライベートブランドの焼酎ボトルを手に取り、直接口につけて飲み始める。安い酒は、アルコール度数が低いのか、そもそも味がないに等しいから飲んでいる実感がないからなのか、どくどくと飲み込んでしまう。酒が回っているような、回っていないような気がしている。不意に、笑いがこみ上げてくる。楽しい事は何もない。でも笑っている。これは無意味だろう。

 ぐらと視界が回っていく。雨の音が遠のいて。猫の死骸が妙に鮮明に見えてくる。ハンカチの皺、紙箱の輪郭、その周りは全てモザイクタイルの中にあるような感覚に陥るのに、猫の死骸だけは明瞭だった。ぴんと尖った薄い体毛、剥き出しになっている薄桃色の肌、骨の輪郭、閉じた瞼に伸びた睫毛に一匹虫が這っているのに気づく。何の虫だろう。小指の爪より小さい虫、足のない、白く濁った虫。蛆虫なのだろか。その実、見たことがなかったから、そうなのかもしれないとしか言いようがなくて。それを僕は摘み上げる。うずりと掌の上でのたうつそれ。匂いは特にしない。ひくりぱたりと動き回るそれが、妙に楽しくて。僕は笑いながら、それを飲み込んだ。奥歯で噛むとみちりとした確かな感触があった。舌の上に広がるのは、妙に丸ぼったい味で、甘くもなければ苦くもない。丁度、肉の脂身をそのまま噛んだような感じしかしなかった。それを焼酎で飲み干す。ふと、猫を見る。それだけが空間に浮かんでいるような錯覚がしている。虫が、もう一匹、尻尾に纏わりついている。僕はまた一匹掴むと、今度は焼酎ボトルの中へと放り込んだ。ゆっくりと沈んでいく。青白い虫は、ひらがなの『つ』の字を取ったまま、そこへと沈んでいく。僕は、ボトルへと直接口をつけて、飲む。虫は沈んだままで。猫を見る。虫が、四匹集っている。指で摘まみ上げると、口の中へと放り込んで、焼酎で流し込む。猫を見る。虫がいる。焼酎で飲み下す。猫を見る。虫がいる。焼酎で飲み下す。何度も繰り返す。時折焼酎のボトルへと虫を放り込む。その酒を飲む。猫を見る。猫を見る。その表面を撫でると、ずると皮が剥けた。どうやら、そろそろ腐り始めているのらしい。そうだろう、それは仕方がないさ。くらと揺れる。煙草を吸おうにも、何処に置いたか分からない。仕方がないので猫を吸おうと思った。ずると剥けた皮を丸めて、筒状にすると口に咥える。ライターで火を点ける。肉の焦げる匂いが鼻を突く。けれど、煙は口に入ってこない。それはそうだろう。なんだかおかしくなって、けらけたと笑っていた。猫は吸えない。一つ勉強になった。だから、僕は猫の皮を剥いては、焼酎のボトルへと詰めていった。血はもう出ないのだろう。ぶよぶよとした赤黒い肉片が中で浮かんでいるばかりで、ちっとも溶ける気配はない。仕方がないさ。猫は吸えないんだから。僕は、そのボトルを飲んだ。猫の味がした。美味しいわけがない。ただ、猫の味がしているだけだ。猫を見る。猫が見ている。反動で、瞼が開いたみたいだ。そんな事もあるのだろう。僕は、首だけを毟り取った。発育不全の痩せた動物の子供。首を毟るのに手間はかからなかった。元々腐りかけているのだから、そんなものだろう。首だけになった猫が僕を見ている。なので、転がっていた菓子の空き箱を積み上げて、その上に乗せた。

 雛人形みたいだと思った。

 残された胴体をどうしようかと思ったが。特に思いつかない。いいんだ、別に。意味がないんだ、何もかも。僕は手の中でくしゃりと胴体を転がすと、関節ごとにばらばらになった。それを、テーブルの上に投げ飛ばす。煙草の空箱に当たって、かたくたと倒れ、飛散する。その形は、何処かで見たような気がしたけれど、何なのかはよく分からない。ただ、虫がテーブルを這っている。僕は。口にする。虫と焼酎を、交互に口にする。猫の味がする。煙草が見つからない。猫の味が。


 僕は次の日も公園にいた。

 コートの中には、二匹目の猫がいる。

 昨日よりもずっと腐っているのは分かる。虫が集っていたから、ビニール袋に入れて、コートに突っ込んだ。頭が軋む。昨日よりもずっと軋んでいる。雨が降っている。もうずっと、雨が降り続いている。いつ止むのだろう。そもそも、いつから降っていたのだろう。昨日と今日の境目が分からないのに、どうして、いつからなんて知っているのだろうか。この雨さえも、本当は何の意味もないのではないだろうか。紫煙が昇る。唇の先から、真っ直ぐに昇って、途中から、乱れて崩れて消えていく。層流が乱流に代わっていく。空気の流れとはそういうものだ。空気抵抗の中で、整列していた筈の流れは、壊れて乱れ解けて砕け、空の中に溶けていく。そういうものだ。

「意味がない事ってなんでしょうね」

 気が付けば、彼は僕の隣にいた。ベンチの上に逆立ちをしている。手が震えることもなく、真っ直ぐに立っている。僕の肩より下にある顔が、僕を見上げている。視線を合わせることもなく、煙草を吸うばかり。

「意味のない事をしましたか?」

 僕は、猫の入った袋を膝の上に乗せた。虫の数が増えている。僕はその中に、口からはいた煙を詰めた。中でひくりぱたりと虫が暴れている。力なく、揺れている。その内に、一匹、一匹と動きを止めて、袋の底へと沈んでいく。猫を食べたんだ。僕はそう言おうとしたけれど、喋れなかった。だから、立ち上がり、袋を空へと投げた。ばらばらと虫が口から零れて、辺りに撒かれていく。それから、とさりと袋が地面に落ちた。自由落下の法則は、重さに依存する。だから、重たいものの方が先に落ちる筈なのに。そう習った気がしていたのに。猫の方が先に落ちた。猫の方が軽いのだろうか。

「ああ、そうか。猫か」

 彼がそう呟くのが背中越しに聞こえる。

 振り返ると、彼は既に逆立ちを止めて、座っていた。

「猫か」

 彼はこっちを見ていない。ただ。ぼうと空を眺めている。

「死んだ猫は意味がない。猫は役に立たないものだから、愛するより他にないのに」

 何処かで聞いた言葉だと思った。確か、そう、寺山修司だった気がする。猫がいないと寂しいものです。役に立たないものは愛するより他にないものだから。僕は、今日、十二本目の煙草を吸い切って、足元へと落とした。虫が見える。地面中に虫が広がっている。白い粒が、灰色の地面の上に。その中心に猫がいる。赤黒い肉を剥き出しにしている。落ちた衝動で、皮が爆ぜてしまったらしい。中が見える。細い内臓、転がった眼球、砕けた顎、四散していた肢。猫が広がっている。地面に咲いた花のようだった。花に虫が群がるのは意味がある。意味が、あってしまう。僕は、ぞわと背中に冷たい蜈蚣が這っているような感覚に襲われた。肌に爪を立てられている。吐き気が、喉までみっしりと埋まっている。意味がある。この死には、意味がある。それが、心底気持ち悪かった。

 その場で蹲って、僕はただ吐いた。

 口の中から引きずり出されたのは、虫。未消化の虫。無数の虫を僕は吐いていた。半分溶けかけたそれは、固まって、一匹の長い長い体躯を持って、その場に這いずる出ている。その上に、落ちていく、皮。肉。赤黒い、胃液で爛れた猫。猫が僕の中にいる。僕の中から猫が這い出ている。虫の上に咲いていく。意味が出来ていく。胃が痙攣している。背中が引き裂かれそうな程に、えずき続ける。喉を抱え、全部が巻き戻っていく。

 全部吐き終わった後で、彼が僕を見下ろしているのに気づいた。

「それは、意味がある」

 悲しそうに、そう言った。

 僕は、ひたすら頷くしかなかった。

「意味があっては、いけない」

 僕は、頷くしかできない。

 彼は背中を摩りながら、耳元で呟く。

「死に意味があってはいけない。産まれた事の意味を知るには、意味のある死を持ってきてはいけない」

 僕は、頷く。


 家に帰ってから、僕は酒を飲む気になれなかった。テーブルの上には、半分腐りかけた猫がいる。後、三匹死んでいる。彼らはあのままでなければならない。彼らの死には意味がないのだから。ぼうと煙草を口にする。焼けた喉にニコチンが牙を立てる。痛い。酷く痛い。胸の奥まで、痛みが伸びている。こんなもの。こんなもの。半分残した吸いさしを、空き缶へと捻じ込んだ。時刻は、午後三時。いつもなら、飲み始めている時間だ。久しぶりだと思う。酒のない、自分は。いつ以来だろう。

 子供が、泣いている声がする。

 お母さんごめんなさい。お母さんごめんなさい。それだけを繰り返して、泣いている。初めて、意味のある言葉として、泣き声を捉えた気がする。鼓膜が痛い。子供の泣き声が不愉快なのは、生存戦略なのだと昔に聞いた。子供は、泣くことでしか危険を周囲に伝えられない。不愉快であればあるほど、その声は耳に深く残り、助けなければと思うのだと。だから、その声が甲高く響き渡れば、響くほどに。

 僕は緩慢に立ち上がり、外に出た。

 雨が降っている。吹き込んで、アパートの廊下が濡れている。隣の部屋、木製の扉を子供が叩いている。座り込んで、泣きながら。随分と細い腕だと思った。猫よりも、ずっと細い気がする。何歳だろう。女の子、のような気がする。スカートを履いているだけで、そう判断している。隣で煙草を吸っている僕に気づいて、彼女は泣く声を止めた。ただ、怯えるように見上げたきりで、何も言わずに。煙が、視界を少し濁らせた。何を言えばいいのだろうか。喉が塞いだきりで、相変わらず言葉はでてこない。

 僕は、手を伸ばしていた。

 意味はない。

 彼女は、僕の指先をまじまじと見て、怯えながらも握り返している。僕は、彼女の手を握り、自分の部屋へと連れ込んでいた。

 中に入った瞬間、彼女は顔を顰めた。気が付かなかったけれど、多分、この部屋は、酷く匂うのだろう。饐えたアルコールの匂い、汗の匂い、腐敗した肉の匂い、煙草の匂い、雨の匂い、全てが綯い交ぜになっている。長い事。もう長い事、居続けたので、気づけなかったけれど。僕は後ろ手で、ドアを閉めていた。彼女の肩を押して、部屋の奥へと進ませる。

 何もない部屋だと思うだろう。

 あるのはテーブルだけ。後は、部屋の隅に積まれた着替え数枚とよれたコート、後はごみばかりだ。布団さえもない。必要ないのだ、僕には。散らばったごみの隙間へと潜るように、彼女は座る。じっと、見ている。僕をじゃない。テーブルの上にある、骨壺。そうだった、この部屋には、骨壺がある。僕が引き取った。横に卒塔婆の代わりに、名前が書かれた木の札が雑に置かれている。名前。名前なんかないさ。彼女に名前はなかったんだ。『早乙女家女児』それが彼女の名前だ。そう、つける前に死んだのだから、仕方があるまい。じっと、それを見ていた。

 胎児記憶の話を思い出す。マイナス一歳の記憶。産まれる時、子供は選択する。親を、そして、その運命さえも。それこそが、原初の意味。人は覚えている。忘れてしまうけれど、産まれた時は覚えている。まるで、ガフの部屋だと最初に聞いた時に思った。この世に授かる全ての子供は、ガフの部屋にある魂を授かり産まれてくる。雀は、魂を見ることが出来るから、子供が授かるときに囀るのだという。雀が啼かなくなるとき、それはガフの部屋ががらんどうになるとき。魂のない子供が産まれていく象徴。それは世界の破滅だという。そんな事を思った。けれど。だとすれば、彼女が産まれた意味はなんだったのだろう。彼女が産まれなかった意味はなんだったのだろう。胎児記憶の話をするとき、必ず思う事だった。産まれると望んで授かったのに、こちらの都合で殺したのなら、雀はどうするのだろうか。僕は、煙草を吸う。その姿を見て、びくりと少女は震えていた。ふと見ると、彼女の腕、細い腕の内側には無数の丸い痕があった。丁度、煙草の径と同じくらいの大きさをした。ああ、そうか。まぁ、そうだろうと思った。

 僕は、煙草を揉み消した。

 そして、彼女を手招いた。

 最初、じっと見つめるばかりだったけれど、何もしてこないと分かったからか、僕の後についてきた。扉を開けて、階段を降りる。外は薄暗いけれど、まだ足元は見える。まだ夕暮れには遠い。僕の後ろを彼女はひょこひょこと跳ねるように歩く。左足が、少し曲がって見える。何がどうなっているのか、僕は知る気がない。アパートの前、物置の前へと連れていく。指を差す。彼女は、しゃがんで、物置の下を覗き込んだ。息を、飲む気配がする。猫は今、どうしているのだろうか。もう、随分と腐っているのだろう。この雨だ。虫も湧くだろう。けれど、彼女はじっと見たまま、何も喋らない。

 煙草を吸おうにも、雨に打たれてしまっては、火が点けられない。

 僕を見上げる彼女の眼は、少し潤んでいた。

 何を思っているのかは、分からない。ただ、彼女は掘り起こすように残りの三匹の遺骸を抱えて、じっとまだ見ている。

「お墓」

 その一言を、小さく告げる。虫が集って、もう半分はこそげた肉塊。そうだねと告げるように笑うと、僕は彼女を連れて、アパートの部屋へと戻った。階段を昇り終えた時、隣の部屋の扉が開いている。母親、なのだろう。気だるげな女が、不機嫌そうにこっちを見ていた。けれど、彼女の抱えているものを見て、うっと呟きながら口を手で押さえて、また部屋へと戻ってしまった。彼女の方を見ると、少し震えながら、縋る目で僕を見ている。笑いながら、彼女の頭を撫でる。少し安心した顔をして、僅かに笑った。母親に似て、余り可愛いとは言えない顔だった。僕は彼女を部屋へと招き入れる。

 猫をテーブルの上に置かせる。もうどれくらい着ていないのか分からないシャツの上に、三匹の猫の遺骸を乗せて、包んでいく。丁寧に畳んで。彼女はそれに手を合わせていた。僕はその姿を見て、背中を撫でてやる。びくと一つ震えたが、それでも、安心したのか、熱心に祈っていた。

 それから、僕は彼女の首を絞めた。

 意味はない。

 この死に意味はない。

 きりりきりともう一つのシャツを捩じったもので、細い首を締めあげていく。びくりばたりと足を暴れさせて、手でシャツを外そうとしても、碌に成長していないその体躯では、成人の僕から逃げられるわけはない。きりきりりと締め上げる音が小さくなって、彼女はぐったりと動かなくなっていた。尿がだらだらと床を汚していく。窒息死すると、全身の筋肉が弛緩するから、排泄物が垂れ流しになるのだという。昔、本で読んだことがある。確か、自殺方法について細分化して、全ての場合において、死後どうなるのかを解説している本だ。流行ったんだ、昔に。丁度、あの子が死んだときに。名前もないあの子が。この子の胎児記憶は、どうだったんだろう。何のために、あの母親の元に産まれてきたのだろう。きっと素敵な理由があったはずなんだ。現実が笑ってしまうほど、典型的に、掃き溜めみたいな場所だっただけで。神様は分かってて、彼女を遣わしたのだと思うと、何がしたいのかさっぱり分からないなと思った。ああ、そうか。神様をして意味などないのかもしれない。

 昔、皆が神様を信じていた頃『神様は善行を積めば天国に連れて行ってくれると言うが本当だろうか』と思い始める人が出てきたらしい。神様は光あれと言い、七日間で世界を作るような存在なのに、たかが造形物である自分たちの意思なんか関係あるのだろうかと。善行を積んだところで、神様にとってそれは救うに値する人間なのだろうか。そう、考え始めた人たちがいたらしい。僕も、今ならその気持ちが少し分かるかもしれない。僕はそう、あの時思ったんだ。

 排泄物塗れの少女を裸に向くと、僕はその弛緩し始めた性器へと自分のそれを擦りつけ、中に埋めていた。意味はない。痩せぎすの身体、死んで弛緩し始めたそれは、何も気持ちよくはなく、ただ、作業じみていた。がくりかくりと首が降れている。本当に軽かった。体重は何キロほどなのだろう。裸にすると、腹や胸、太腿の内側にも無数の煙草を焼き付けた痕が残っていた。この子は、いつぐらいから、そうだったのだろうか。彼女が泣いていたのは、どれくらい前か、よく覚えていない。ばらばらと動く四肢が邪魔だった。けれども、仕方がない。人間だから、手足くらいある。猫を吸えないのと同じことだ。当たり前の道理だろう。うっすらと首筋に汗をかき始めている。ちっとも締め付けない性器。擦れて、少し痛みを覚えてきていた。痒みにも似ている。そういえば、最後に射精したのはいつだったろうか。どれ程、前だろう。自分でした覚えもない。酒で頭を濁しながら、毎日を過ごしているのだから。そんな暇もない。そもそも、僕は今勃起をしていない。中途半端に硬くなったままで、このままで、どうにかなるとは思えない。そのうちに、腰が痺れてきて、どうでも良くなってしまった。排泄物で汚れた下半身を彼女の首を絞めたシャツで拭う。そう言えば、風呂にどれ程、入っていないんだろう。段々と自分の姿がよく分からなくなっている。髭は生えている。それは知っている。そして、碌に食べていないから、殆ど肉がない。腹だけが、ぶっくりと出ているばかり。昔の絵にある餓鬼のような姿だという自覚はあるが。別に、だからと言って。僕は彼女の死体を、シャツで畳んだ猫の死骸と一緒にごみ袋へと詰めた。口を縛り、取り敢えず、寝ることにする。


 酒を飲まずに寝ると、どうにも眠りが訪れないのと気づいたのは、二時間後の事だった。今は夜の七時。夕暮れも終わって、雨さえも見えない程に空は黒い。何もない世界。音だけが聞こえる。この部屋には、実は電球がないのに今気づく。必要なかったのだから、つけていなかったのだ。だから、今どうなっているのか分からない。そう言えば、携帯電話のライトで何とかならないかと思い、手を伸ばす。ああ。そうだ。充電をしていない。必要がないから、していなかったんだ。コンセントは何処だろう。ごみだらけの部屋、暗がりに慣れてくる。コンセントがある場所には、どうやら充電器を繋げっぱなしにしていたみたいだ。充電ケーブルを差し込む。もう五年も機種変更をしていないなとぼんやり思う。そう言えば、世の中は皆スマートフォンになっているらしい。コンビニに行く度に気づいていた筈なのだけれど、今更気づいたような気分になっていた。けれど、僕の電話は折り畳み式の、ごく普通の携帯電話のまま。接続して、電源ボタンを押す。けれど反応しない。多分、ある程度、電気が溜まらないと起動しないんだろう。投げ出したままで、横になる。かさかさと何かが擦れる音がする。虫がいるんだろうか。いるんだろうなと思う。気が付かなかっただけで。それなりに餌になりそうなものはあるのだろう。ふと気づいて、煙草を探した。ライターがあれば、少しは視界も晴れるだろう。何処に置いただろう。ああ、そうだ。僕は自分のズボンに入れっぱなしなのに気づいた。じりと擦ると、ぼうと燈る。手元だけしか光らないから、部屋の奥までは分からない。でも、ないよりはましだろう。でも、どうして明かりをつけようと思ったんだろうか。ああ、意味なんかないんだろうな。多分。煙草を探そうと、ふらると歩く。にちゃりと足に何かが纏わりつく。ああ、彼女の排泄物がそのままになっているからかと、小さく呟く。掃除しないといけないな。でも、まぁ、いいか。別に。一歩踏み出して、けれど、ずると足を取られてしまった。ああ、そうか。そういう事もあるのか。床にぶつかると、そう思ったのだけれど。肩が地面に当たった感覚はなく、泥沼の中へと体を落としたような錯覚がした。沈んでいく。暗がりの中へと、落下していく。粘り気を帯びた、溶けたガラスの中へと落ちていく錯覚。息が苦しい。こぽると吐いた空気が水泡となって天井へと昇っていく。溺れている。自分は今溺れている。

 ゆっくりと、下へと落ちていく。

 雨の音だけが、だつだつと耳の奥へと響き渡る。

 ここは何処だろう。

 何処まで、落ちていくのだろうか。

 何秒、何分、何時間。時間感覚がない。

 こぽるこぽと肺に詰まった空気が徐々に抜けていく。苦しい。息が出来ないでいる。なのに、死ぬほどのものを感じない。ただ、真綿で首を絞められているだけ。苦しいばかりで、何もない。落ちていく。ただ、ゆっくりと。

 そして、地面へとたどり着いたときに。

 公園にいる彼がいた。

 暗い世界、暗い視界、足元には無数の猫の死骸が犇めいていた。半分腐っている猫、まだ腐っていない猫、骨だけになった猫、千切れた猫、砕けた猫、抉れた猫。そんなもので出来ていた。その上を、僕は歩く。頭がぎちと痛む。焼酎が抜けていないのと同じ痛み。喉が渇く。酷く、喉が渇いている。

 歩く先に、彼がただ公園のベンチに座っていた。

 空を仰ぎながら。

「ここはガフの部屋だよ」

 彼は静かにそう言った。

「ここは魂が最初に滞る場所。マイナス一歳の記憶、原初の場所。皆、ここで神様と一緒に決めるんだよ、どの親に授かろうかと、どの家庭に行こうか、どんな試練があれば、人間として成長できるのだろうか。神様と決めるんだ」

 僕は、彼の隣に座る。

「流産した子供はね、産まれるべきではないと神様と決めたから。障害を持って産まれた子供はね、その障害を乗り越えてこそ、人は成長できるのだと神様と決めたから。全ての生には意味があるんだ。僕はそれをとても素敵な考えだと思う」

 僕は足元にごみ袋があった。

 それを開く。

 中には丸まった少女の死体、腐った猫の死体。蛆が群がっている。きちきちと少女の体が蝕まれている。頬はこけて、眼球は卵のように腐っている。ぶよぶよと膨れた腹が波打っている。僕がそれを撫でると、熟れた桃の皮みたいにびちりと裂けて、中からざあざあと溢れていく。指。無数の指。指の形をした蛆虫。丸々と太った、蠅の子供が、溢れかえっていく。ちきちきと蝕んでいる。彼女の肉を、肌を、食い散らかしている。その奔流に猫の死骸が混ざっていく。少女と猫が混ざっていく。ああ、違う。彼女は猫だったんだ。足元に広がる猫の死体が蠢いている。ここにいるのは、子供の魂。一度は朽ちて、また戻り、再び産まれいずる為に。ここにいるのだ。ああ、これが、ガフの部屋。僕は、煙草に火を点けた。ゆっくりと煙が昇っていく。乱れぬままに、層流のままで。昇っていく。真っ直ぐに。

「だけどね、君が殺した子供は、意味がなくなったんだ」

 そうか、そうだね。産まれると決めたのに、僕が殺したんだ。

「ガフの部屋への入り口は、電車の扉と同じ幅だ。電車の通路と向こうとこちらで全てが変わる」

 そうだ。僕はそれを知っていた。あの日、彼女との子供を焼きに行ったときに思い知ったんだ。産まれる前に殺された子供には、名前がない。産まれる前に殺された子供は、普通の炎で焼いては骨が全て溶け朽ちてしまうのだから。だから炉が温まる前に、燃やさないといけないんだ。知っている。その、小さな骨を持って、僕は。

「だから、君の人生に意味があったらいけないんだよ」

 ああ、そうだ。

 知っている。

 僕の人生には何の意味もないんだ。

「そう、子供から人生の意味を奪ったんだからね」

 そうだった。そうだね。所で、君は誰なんだ。

「僕かい?」

 かららと彼は笑った。

 その顔に目はなかった。その口に歯はなかった。人の顔を被っただけの、黒い影がそこに座っている。笑った形に縫い留められた皮をかぶって。

「僕は、神様だよ」


「そうか、僕は神様だったんだ」

 公園の彼は、おかしそうに笑っていた。

 声が出せないのは変わらないから、携帯電話のメール画面で昨日見た何かの話をした。夢だったのか、現実だったのか。あまり意味はないだろう。そして、長文を打つのも面倒だったから、僕は彼が神様だと名乗ったとだけ告げた。

「そう、僕は神様だったんだよ」

 ぼそりと言った。遠い、目をしていた。

「僕は本当に神様が見えたんだ。十二歳までの話だ。母さんはとても喜んだし、びっくりした。僕はね、神様の世界を皆に教えたんだ。天界の神様は、良い人と悪い人をちゃんと区分して、悪い人にはちゃんと良い人になれるように試練を与えているんだよ。神様は沢山いて、僕はその中の一人ととても仲が良かった。彼は一番偉い神様だったんだ。天国はとてもいい所だよ」

 すいと煙草を吸う。

「天国には、専用のシェフがいてね、フライドチキンやハンバーグ、色んな料理を用意してくれている。ジュースだって、サイダーだって飲み放題なんだ」

 随分と安い天国だなと、そう言うと彼はかかりと笑った。

「そう、十二歳の考える天国だからね。そんなものだよ。あの頃は、でもね、本当に神様が見えたんだ。でも、中学に上がってから、何も見えなくなった。分からなくなったんだ。神様がね、何処かへ行ってしまった。声が聞こえなくなった。焦ったよ、だって母さんは本当に僕の事を信じて、僕を神様だと思っていたんだから」

 彼の話が、全部本当だとは余り思っていなかった。多分、神様なんか見えてなかったんだろうと、本音では思っていたけれど。でも。それはそれで、辛い話だなと思った。

「だからね、僕は母さんに言ったんだ。僕は今から、意味のない事をする。そうすれば、人は本当に意味のある事を、見出せる筈なんだって」

 彼は、笑って。

 僕が引き摺ってきた、彼女と猫の死体を覗き込む。

「さぁ、君も、意味のない事をしよう。僕と」


 彼の部屋は、公園からそう遠くない場所にあった。僕の住んでいる部屋よりも、僅かに広い、ワンルームの部屋。そこには、六個のクーラーボックスが置かれている。青いビニールシートが敷かれた床へと、彼は彼女の死体を転がした。手慣れた様子で台所から糸鋸を持ってきている。見て分かった。染み込んだ血液が、べったりと付着している刃を見て。彼は少女の遺体、首へと歯をあてがうと、がりぎりと切断を始める。切れ味が悪くなっているらしく、ぐずぐずと肉が解れて、皮が破けて、べたべとと固着した体液がブルーシートの上に散らばっていく。ここにあるクーラーボックスには、多分。僕はただ、彼がするのを見ているばかりだった。手際は悪い。見てそう思う。でも、確実に彼は首を刎ねて、腕をもぎ、足を切り落としていた。次に、ごついナイフを取り出して、腹を裂き始める。落ちた首。開いた瞳がじっと僕を見ている。耐えるには、少し、辛い。僕は立ち上がり、首を掴むと。ふと視界に入ったものへとそれを入れた。業務用の、大きめの圧力鍋。その中へと首を入れて、猫の死体も一緒に詰めた。水道は通っているよと彼は背中越しに言う。何をしているかは、分かるらしい。だから、僕はその半ばまで水をため込むと、ガスコンロで火にかけた。

 大き過ぎるから、中々温まらないらしい。こぽりと水が沸く前に、彼は一仕事を終えていた。それは少女の胴体、首を下に台座に固定して、裂いた腹の中へと、大量の人形を詰め込んでいた。丁寧に子宮の中へと詰めて、糸で縛って。その上で、空いた内臓の隙間に人形をみっしりと。意味は、ないんだろう。何となく、夢で見た光景に似ているような気がした。何処がと聞かれても、良くは分からない。腕と足にはあまり興味がないらしく、適当に投げ飛ばしている。出来た形が面白ければいいんだと笑っていた。意味はないんだ。彼がする事には、何も。よく分かっている。こぽごぼと鍋が湯だち始めた。僕は、圧力鍋の蓋を閉じる。後は煮込むだけ。僕は、近くのクーラーボックスの上に腰かけて、ゆっくりと煙草を吸い始めた。手が、赤く汚れている。でも、特には気にならなかった。

「さて」

 彼は一つ呟くと、奥からクーラーボックスを取り出して、その中へと少女の死体を詰め込んだ。

「これで、後五体だ」

 その数に、意味はあるのだろうか。僕の心を察したのか、彼は首を振って。

「ないよ、何も。別に七体でも。これで終わりでもいいんだ。でも、多分、後五体ぐらいが限界だと思うよ」

 限界。

 何がだろう。

「そろそろね、限界なんだ。君、別に共犯だとは思ってないから、気にしなくてもいい。これは、僕がやっている事なんだから」

 ああ。

 彼の言葉で何となく察した。限界なんだ。母親が、彼の行動を隠蔽し続けるのは。知っているんだろう。この部屋で起こっている事も、彼がしている事も。ああ、そう言えば。この部屋は同じ匂いがする。僕の部屋と、同じ。人間が腐ってく匂いがする。そう、だから、仕方がないね。多分、隠しきることは出来ない。それは、僕も同じだろう。肉が焦げる匂いがする。圧力鍋ががちがきと鳴き始めている。コンロの火を止めると、僕は蓋を開けた。茶色く焦げた骨。肉は全て溶け落ちて、鍋の底に焼き付いている。仕方がないさ。普通はこんなに圧力鍋で煮込んだりしないんだから。

「君にあげるよ、その鍋は」

 ありがとう。

 僕はそう笑った。相変わらず、声は出ない。僕は蓋を閉じると、その鍋を袋に詰めた。じゃあ、もう行くよ。そう言って、手を振ると、彼は。

「うん、楽しかった。多分、もう二度と会えないと思うけど」

 笑っていた。


 彼が逮捕されたと聞いたのは二日後の事だ。きっちり五人分、クーラーボックスが増えていたと聞いて、それもそれで凄いなと思った。彼は、神様と友達だから、きっと全部分かっていたんだろう。僕のところには、警察は来なかった。誰も僕の事を見てはいなかったのだろう。公園にいた事も。本当に彼との時間はあったのか、実のところ、曖昧ではあるのだけれど。部屋の中に溢れたごみ袋。掃除をした。そして、骨壺の横にある圧力鍋。閉じたきりであれから開けていない。

 ある朝目が覚めた時に、何かに復讐しなければと思った。

 ふと、ある哲学家の言葉を思い出す。けれど、何に復讐すればいいのか分からないと、そう言っていた。僕には、その気持ちがよく分かる。あの日から、僕が彼女との子供を殺したときからずっと思っていた事だった。公園で、テレビで、電車の中で、誰かの子供を見る度に思っていた。全て僕が悪い話ではあるのだが、けれど、何かが悪い気がしていたんだ。あの子を名前がないままに殺したのは誰なんだろう。僕だけのせいじゃない筈だ。そうだと、誰かに行って欲しかった。けれど、誰も言ってはくれない。横になる。酒は飲んでいない。雨が降っている。圧力鍋の隣にある時計は、午後一時を示している。目を閉じる。眠たくはないけれど、眠りたい。起きていたくはない。ぐると世界が回っている錯覚がする。捩じれていく。僕を中心に、世界が回転していく。そして、天井が溶け始めた。これはなんだろう、今度は。きりきちと天井が割れて、じっと僕を見ている目がある。大きな、目だった。虹彩だけが僕を見ている。青白い目。これは、そうだ、彼の眼だ。よく似ている。ぷつと何かが弾ける音。眼球の表面に無数の突起が浮かび上がっている。虫の卵によく似たそれ。ぴちりと音が鳴る。ぱきりと音が鳴る。膨れた突起が、裂けて、中からだばると何かが溢れて、床へと落ちてくる。ああ、これは、時計。キリコの絵にあったような、粘ついて溶けている時計が床中に落ちてくる。捻じ曲がった針はそれでも動いている。歯車の音。ががりきりぎぎりと鳴っている。時刻を示している。午前四時三十五分。午後六時三十七分。午前十時二十五分。午後九時五十二分。午前二時十二分。無数の時計がぎぎりと動いている。数多の時を指示している。

 これは何の意味があるのだろう。これは何を指示しているのだろう。分かるけれど、もう分からない。時計で埋もれていく。溶けた時が喉の奥へと入り込んでくる。溶けて、固まり、丸まった時計たちが、一つの繭を作っていく。音がする。何かを食む音がする。割れる。繭が割れて、一匹の蜂になる。見たことがある。あれはアオムシコマユバチだ。青虫の体に卵を産んで、羽化する前に、ぶよぶよに膨らせて、神経をなくし、痛みをなくす。どれ程食べても、青虫は満たされない。栄養は全て、蜂の子供が飲み込んでしまうのだから。そして、徐々に内側から肉を食われ続けて、最後には食い破られるばかり。そして、蜂はまた、違う青虫へと卵を産むんだ。知っている。ふと、僕は自分の腹が、思っているよりもずっと膨れ上がっているのに気づいた。にじりにきりと何かが軋む音がする。ああ、そうだ。あれは、親だ。僕の中にいる、虫の親だ。腕を見る。膨れ上がっている。ぶよぶよとした体躯。二倍に膨れる腹。痛みはない。徐々に視界が溶けていく。時計と綯い交ぜになっていく。そして。

 僕の腹が裂ける。

 腕が一本、伸びる。

 ああ、産まれる。

 もし。もしも胎児記憶なんてものがあるのなら、この子供は、何処から来たのだろう。親なんてものもなく育ったこいつは、人の体に寄生したこいつの本当の意図はなんなのだろうか。雀が死んでいる。割れ砕けた瞳から雀の死骸が落ちてくる。そうか。こいつは、ガフの部屋にはいなかったんだ。魂などないんだ。そうか、だから、どうしようもないんだ。知っている。分かっている。そうじゃない。朝起きて、僕は復讐をしたかったんだ。何かに復讐をしたかったんだ。それは、でも僕の意思じゃない。知っているかい。メダカの話だ。正確にはメダカに寄生する虫の話だ。そいつは、脳神経に住み着いて、何もかもを反転させるんだ。メダカは普通、狩られないために腹を下にして河を泳ぐ。けれど、そいつに住み着かれた魚は、腹を上にして泳ぐようになる。まるで、ここに自分がいると誇示でもするように。そして、案の定、鳥に見つかって、食われてしまう。そうしたら、虫は、今度は鳥の腹に住み着いて、そこで繁殖して、糞と一緒にまた別の河へと行きつく。そして、水草に紛れて、メダカに食われるのを待つんだ。そうやって循環していく。そう、あいつは、そうやって生きていくんだ。僕から産まれようとしているのは、そういうものだ。ああ、そうだ。意味なんかあるものか。人が産まれて死ぬのに意味なんかあるものか。そうやって、生きている状態になんか、何の意味もないのに。

 それなのに。

 お前らが。

 みきりちきりと裂けていく。僕が裂けていく。咲いていく。少女が裂いていく。君は、僕に似て、隣の女によく似て、随分と不細工だな。大変だな、そんな顔だと。苦労しそうだね。ああ、でも、今の僕には、関係がない。

 産まれる。

 彼女には魂がない。

 魂がない子供は、どんなだろうか。僕にはもう、知る由もない。


 隣の女が僕の部屋を訪ねてきた。娘を何処へとやったのかと言うので、僕は部屋の隅で寝ている彼女を指さした。随分と疲れているみたいだから、休ませていたんだと告げる。不審そうな顔をしてはいたけれど、その寝顔に安心したようだった。僕は、彼女に灰皿を勧める。右手の人差し指と中指が黄色く汚れていたので、直ぐに同類だと分かって。そもそも、彼女の肌についた傷を見れば分かる。

 疲れたんだと言っていた。

 彼女の父親はもう二年帰ってこないのだと言う。もう戻らないだろうとも。パチプロになると言ったきりだそうだ。離婚も何も、籍を入れていないから関係ない。そう笑っている横顔にくっきりと隈が見えていた。僕は、どうせ暇だから、彼女の面倒を見るの手伝ってもいいと言った。僕は勃たないから大丈夫だよと笑って、骨壺を指さした。昔、もう五年も前の話だけど、当時付き合ってた子をね、中絶させたんだ。赤子をさ、死産と言う形で、殺したんだよ。その死体を見てからね、どうにも、出来ないんだ。まぁ、もうどうでもいいとは思っていたから、いいんだけどね。そう、そうなのと彼女が緩く笑う。自分も堕ろせばよかったかも。そんな金もなかったから、産むしかなかった。駆け落ちみたいなものだし、どうにもならないんだ。漫画みたいでしょ。そう力なく。僕は、世の中、漫画みたいなもんだよと、何の慰めにもなっていない事言って、冷蔵庫から缶チューハイを取り、彼女へと差し出した。ありがとうと言って、彼女は缶に口付けた。僕も手近にあった安い焼酎をコップに注いで、小さく乾杯をした。何には知らない。この、どうしようもない人生にかもしれない。普段、彼女は夜働いているのだと言う。女一人で生活するには、そうしないとどうにもならないらしい。自分は頭が悪いから、そんな事しか出来ないんだとも言っていた。体を売れるのも、そろそろおしまい。溜め込んでいるから、後はパート勤めで何とかしようと思う。そう言っていた。僕も、部屋の隅で寝ている彼女のためなら、少しくらいお金を出してもいいよと言う。これも多分、罪滅ぼしなんだろう。そう言うと、いいの、甘えるよと悪戯っぽく彼女が笑った。いいよ、別に。隣同士、何かの縁だから。ありがとう、そう言った、彼女は少し泣いているようにも見えた。


 あのおばさんは随分溜め込んでいた。女一人でどう生活しているのか分からないが、まぁ、身寄りがないみたいだし。猫が煩い。あの物置の下で飼っているらしい。あんた、殺してよと彼女が言う。まぁ放っておけば死ぬよ、あんな子猫。煩くて仕方がないんだよ、人ひとり殺してるんだから、猫ぐらいどうってことないでしょ。早くしてよ、このぐらいしか、あんた役に立たないんだから。ぎゃあぎゃあ煩いから、仕方がなく、猫を殺すことにした。別に殺したところで、罪になんかなりゃしないさ。それより、このおばさん、どうするかね。首吊りにでも見せかけるしかないかね。


 神様が言うんだ。

 これは儀式です。

 バラバラにして、内部に蔓延る悪魔を追い出すのです。だから、僕は彼女の手足をもいで、腹を裂いた。中から黒い血が溢れてくる。これが悪魔ですか。そうですと神様が言う。神様は銀色の髪をしている。青い目をしている。神様は言うのです。人は産まれる前に、神様と一緒に産まれいずる場所を選ぶのだと。けれど、産まれる前に、悪魔が入り込んでしまう事があるのです。彼女がそうなのです。彼女がもう一度、ガフの部屋に帰らなければいけない。そして、もう一度、産まれ直す必要があるのです。だから。


 天井が回っている。

 ぼんやりと煙草を吸う。今は何月だろう。今は何日だろう。部屋の壁に背中を預けて、ゆっくりと煙草を吸いながら、焼酎を飲み続ける。雨が降っている。窓の前で、彼女が寝ている。随分とご飯は食べさせたから、初めて会った時よりは、肥えてはいるけれど、それでも痩せている事に変わりはない。太りにくい体質なのかもしれない。確か、何歳かまで栄養を与え過ぎて太らせると、その子は一生太りやすい体質になってしまうらしい。逆を言うと、その間に余り食べないと、太りにくい体質になるのかもしれない。聞いただけの話だから、本当かどうかは知らないけれど。

 でも、毎日あれだけ。いや、彼女は別に食べてはいないか。小食なんだ。胃が小さいというよりも、胃が成長していないのだ。仕方がない。食が細い分には、食費がかからなくていいかもしれない。ダイエットで苦しむこともないだろう。ほうと煙を吐く。焼酎が喉を焼く。ニコチンが喉を焼く。ねぇ。僕は彼女へと声をかける。寝ぼけながら、彼女が首を傾げている。君は、神様との記憶はあるかい。なんとなく気になったので、聞いてみた。胎児記憶は尋ねてはいけないらしいけれど。でも、なんとなく、気になったから。彼女は、首を縦に振る。そう、覚えているんだ。神様と一緒に、ここに産まれようって決めたんだ。そう言うと、首を横に振った。違うの。なら、なんで、ここに産まれてきたの。彼女は真っ直ぐに骨壺を指さして。

「それが、本当のわたし」

 そう言うと、僕を包丁で刺した。


 僕は落下している。

 ゆっくりと。

 落下している。

 ここは何処だろう。

 真っ直ぐに落ちて。

 僕は公園にいた。高架下に広がる、雨音だけが延々と聞こえ続ける場所。ベンチに座りながら、ぼうと煙草を吸うしかなくて。安い焼酎だけを飲んでいて。その隣には神様が座っていた。神様、ここは何処ですか。

「ここはね、地獄だよ」

 そう笑っている。そうですか、僕は、地獄にいるんですか。

「そう、何故かは分かるよね」

 心当たりが多過ぎて、よく分かりません。何が本当なのかも、余り分からないんです。ただ、ただ。

「ただ?」

 人を殺したから、ここにいるんだと思います。

「そうだね。君は、人を殺したんだ。ガフの部屋で僕が彼女と選んだのに、君が殺したんだ。だから、雀は死んでしまった。魂のない子供が産まれてしまった。全ては君が選択したからだ。君に、そんな権利はないのに」

 そうですね。でも、神様。僕には分からないんです。

「何がだい?」

 魂のない子供は、幸せにはなれないんですかね。選んで産まれていないのに。

「幸せとかそういう話じゃないんだ。だって、魂がないのだから」

 それは、その子供には関係ない話じゃないですか。何故、産まれる前から、運命が全部決まってないといけないんですか。テレビでは言うじゃないですか。努力すれば夢はかなうって。夢をあきらめちゃいけないって。みんな頑張ろうって。言うじゃないですか。なんで、頑張らせてもくれないんですかね。魂がないだけなのに。

「君が言う権利はないよ」

 じゃあ、誰にあるんですか。魂のある子供ですか。

「彼らにはないよ」

 じゃあ、誰ですか。産んだ母親ですか。

「彼女らは選ばれただけだ。それだけでしかないよ」

 じゃあ、誰ですか。政治ですか。国ですか。

「そんなのは、関係ない話だ」

 じゃあ、誰なんですか。誰が、僕の娘の『女児』から幸せを奪ったんですか。

「さっきも言っただろう」

 神様が笑っている。

「お前だよ」


 電車に乗っている。僕の手の中には、小さな壺がある。桐の箱に入った、小さな壺。この中には、名前もなく死んだ、僕の娘がいる。でも、戸籍上、僕の名前は何処にもない。あくまでも、彼女の娘でしかない。名前もない。戸籍上、その前に死んだのから、明確なものは何もない。記号的なそれしかない。寒い。六月も半ば、梅雨も明けようというのに、酷く寒い。冷房が効き過ぎている気がする。壺の中の彼女と初めて会った事を反芻する。病院の一室、箱の中に入った、爬虫類のような姿。それを見て、僕は素直に可愛いと思っていた。けれど、既に、死んでいるのに。人になる前に、死んでしまったのに。僕は、誰よりも彼よりも可愛いと思ってしまった。それが、親と言うものなのだろうか。もう、今の僕には何も語る権利はないのだけれど。がたりかたると電車が鳴っている。早朝の、まだ釜が温まる前でなければ、死産した胎児を焼くことは出来ない。

 みんな、燃え尽きて、骨も残らないからだそうだ。だから、僕は始発に近いこの時間に、壺を抱えて電車に乗っている。焼くのは、一瞬だった。持参した本を三ページ読む前に全ては終わってしまった。眠い。酷く眠い。無責任な話だ。何もかもが他人事にさえ思えてくる。

 駅で、止まる。

 僕が降りる駅ではない。

 この時間の私鉄に乗る人はいない。それほどの田舎にしか火葬場はないのだから。けれど、目の前に、母親と子供、二人組が座っていた。がたるかたると電車が走る。誰も乗ってこない。そうか。そうなんだ。人間の人生って、電車のドア一個分しかないんだ。そう思うと、少し楽しくなって、泣きながら笑っていた。僕は人を殺したんだ。知っている。僕はそれを知っている。


 ぎぃと暗い紐が揺れている。天井から伸びた紐が揺れている。人間は不自由なものだ。本当に自殺しようと思っても、案外死ねないのだ。昔、そんな本を読んだ。『完全自殺マニュアル』が流行った時に出た、医者が書いた自殺解説書だ。こっちは専門的に、どうやれば死ぬのか、どうなったら死に損なうのかが全部書いてあった。大体死に損なうのは、躊躇いが産まれるからだそうだ。人間、やっぱり死にたくはないんだ。そりゃそうだ、どんな人間だって、基本的には死にたくなんかない。けれど、でも、どうしても、生きるよりも死ぬ方が簡単だなと思ってしまう時がある。でも、ちゃんと死にたい。けど、生きていたいと本能が思う。だから、こうして、殺してもらうのが一番確実なんだ。僕は彼女の首を絞めて、天井の梁から吊るした。子供一人残して、随分勝手な母親だとは思うけど、でも僕が偉そうなことを言えた立場じゃない。彼女だって苦しかろう。仕方がないさ。横で、彼女の娘が僕を見ている。ちゃんと、見ていてくれないと困るんだ。いいかい、君のお母さんは、こうして僕が殺したんだ。自殺に見せかけてね。だから、ちゃんと覚えておくんだよ。

 彼女は頷いた。

 お前がお母さんを殺したんだ。

 お前がお母さんを殺したんだ。

 お前がお母さんを殺したんだ。

 お前が、殺した。

 そう、よく覚えておいてね。


 僕は電車に乗っている。

 たった一人きり、電車に乗っている。確か、死んだと思ったんだけどな。僕は、どうでも良くなって、煙草に火を点けた。煙が喉にしみていく。くらと視界が揺れる。喉が酷く渇く。でも、水は何処にもないから。仕方がないと諦めるしかない。からと吊り輪が揺れている。まるで時計の振り子のようだと思った。

「君はこのままガフの部屋へと向かうんだよ」

 目の前で、神様がそう笑っている。そうですか、僕はあそこに行くんですか。でも、僕の魂は。

「今の君の魂では駄目だろうね」

 どうすればいいんですかね。

「大丈夫さ、一度洗浄される。君についた汚れを、落としてね」

 浄化ですか。それって、どうなるんですかね。

「何、大した話じゃないよ」

 そうですか。どうなるんですかね。

「簡単だよ。本当に簡単な話だ」

 神様が笑って。

 彼女の顔になった。

「後、十五回、私に殺されてね、お父さん」


 このノートを読んでいる君へ。君が誰なのかは正直分からない。もしかしたら、何処かの週刊誌の記者かもしれない。ただ偶然拾っただけの人かもしれない。これが結局どうなっていくのか、書いている自分でもよく分からない。ただ、一つ言えるのは、これは明確に、明瞭に、遺書であるという事と告解であるという事である。突然読まされても困るだろうと思うし、随分と支離滅裂なものだろうと思う。僕自身、読み返していて、結局何を言いたいのか、さっぱり分からないのは確かだ。でも、でもだ。これは残しておかないといけないと、そう思っている。だってそうだろう。僕は人を殺したんだ。何人殺したんだろう。結局よく分からない。神様の話が本当なら、一人だし。神様が僕だとしたら、多分七人以上は殺している気がする。でも、どれが本当なのか、お医者さんにも刑事さんにも聞かれたんだけど、さっぱり分からない。事実は事実だろうし、結果は結果だけど、正直何もかもよく分からないんだ。そもそも、このノートは誰が持つことになるんだろう。とりあえず、罪を告白したいと言ったら、貰えたんだ。罪は、全面的に認めてはいるよ。それが十五人殺していようが、一人だけだろうと。僕は言ったんだ、全部僕がやりました。精神鑑定とかなんとか言ってたよ。でも、困るんだよね。僕が一番わかっていないんだ。だから、思い出そうと覚えている限りの事を断片的ではあるが、書きつけてみたんだ。でもさ、驚いたよ。何が何だか。でも、今とても清々しい気分だ。漸く、僕は理解できたんだ。何がって、決まっているじゃないか。僕はこの世で最も要らないクズだって事がだよ。自分が生きている意味を認識できるっていうのは、こんなにも晴れやかな気持ちにあんるんだね。素晴らしい。とても良い気分だ。被害者には申し訳ないけど、そもそも、被害者って誰だったんだろうね。まぁいいか。僕はね、多分死刑なんじゃないかなと思っている。弁護士の人はなんとか減刑しようと思ってるらしいけど、僕からすれば、別にこのままでいいんだ。だって、生きていきたいと思わないんだもの。人間はさ、不自由なんだ。自殺しようとしても、何度も失敗してしまう。僕は、たくさん見てきた。本当にたくさん見てきたんだよ、だからさ。僕は国に殺してもらう事にしたんだ。ああ、でもだから、人を殺したんじゃないよ。それはそれだよ。色々あったような気がしたけど、何だったろうね。もうよく分からないや。今でもさ、見えるんだよ。何ってさ、神様さ。ガフの部屋にいる神様が僕に笑ってくるんだよ。いう事が、その都度違うんだ。僕が悪いと言ったり、君に意味はないとか言ったりね。でもさ、多分、雀は死んでいるんだ。それだけは、よく分かるよ。もうね、ガフの部屋には何もないんだ。なんか、そんなアニメあったね。難しくて、あれよく分かんなかったけど。でも、まぁ、ガフの部屋が何かは、知っているよ。雀がね、もう死んでいるんだ。だから、この世界にはさ、魂のある子どもなんかいないんだよ。仕方がないよね、あそこはもうがらんどうなんだ。僕のせいだけど、僕だけのせいではないよ。そんな大それた事は、できやしないさ。所詮は、ただの貧乏人だもの。何の力も権力もないしね。出来るのは、まぁ、子供を何人か殺すくらいで。それでも、ご覧のあり様だしね。ああ、そうだ。このノートね、別に何処に公開しても構わないよ。どうせ、僕が死んだ後の話だからさ。どうなろうと、正直、知ったことじゃないんだよ。無責任だと思うだろ。でもね、そうじゃなかったら、そもそも、中絶なんかさせないんだよ。そうだろ?


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ガフの部屋 @ka_i_me_n_u

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