第2話

 教理省からの追求をかわしつつ、寧ろ時には自ら異端の告発を行うほどに、レオンの中央での評価は高い。だからこうして辺境とはいえ神秘主義の書物を検閲の名の下に管理することさえ出来る。僕が目にした神秘主義の教義は、中央で唱えられているものと、根源的な部分においては全くといっていいほど異なる。

 もっとも、その違いが正統派の教義に対して危機的であることに気付く司祭はまずいない。そもそも、司祭連中の殆どは書かれている文字が読めないのだ。内容を理解したところで、それが”魂をも腐らせるほどの”悪魔の言葉に匹敵すると囁き合うのは、司教達の間でのやりとりだ。因みに、『悪魔』の定義を聞いたのはレオンからだった。

「信じられているものへの疑義、あるいはもっと凶悪なものでは否定するもの、ぐらいに考えておいてくれればいい」

 当初は疑義という言葉の意味が分からなかった。否定なら寧ろいつも僕が版を重ねるたびにされているじゃないか、と抗議したら苦笑いで返されたが。


 レオンが発つ直前に鍵を渡された。地下の予備貯蔵庫の鍵だという。

「書庫の資料で足りないものがあるなら、それで地下にしまってある禁書を参考にでもすればいい」と。押収した資料のうち、特に危険度――もっとも読める人自体が限られてはいるが――の高いものを保管している、らしい。あくまでそう聞いただけで、どんな所かは知らない。ワイナリーの塔の隣なので、保存状態はいいのだろうけど。正直書物の保管に向いているかどうかは保証はしない、と。

 鍵だけ預かりつつ、資料室から以前注釈をつけた資料――神秘主義者の聖典の断章――を借りてきて、自室に戻った。この手の作業は自室が一番捗るということもあり、レオンの気の利かせによって、いつの間にか自室には、必要な筆記用具一式から果ては書棚から妙に意匠の凝らされたランプまでが集まってきた。おかげで資料編集の作業は全てここで賄えるほどに充実し、朝夕の生活リズムを脅かすほどにまでなってしまうほどであった。……その辺りはニコラの説教により、僕自身の意思で一線を引いてはいるが。

 

 今となっては、些細な疑問だが、何故レオンは『遍在』というテーマに食いついてきたか、だ。切掛は押収した神秘主義の聖典の一節を、レオンが漏らしていた時に僕がふとなんとなく挟んだ一言だったりする。

「奴等にとって、神とはそこかしこに”遍く”存在するものらしい。なあ、どう思う?」と、この時はほんの何気ない世間話の延長に過ぎなかったんじゃないかと思う。それに対して

(ありえるんじゃないかな)と。

 レオンにしてみれば当初は面白くない反応だったんだろう。柄にもなくムキになってその資料――古の聖人の名を冠してはいるが、教会は関連性を徹底的に否定している――の写を持ってきていかに破綻した教理であるかを自分の目で確認しろ、とばかりにつきつけてきた。よくよく目を通してみると、確かに一部矛盾は見られたが――断片的なものなので別記で補足されているかもしれないが――レオンの言うところの”遍く”存在そのものを否定するには根拠が弱いと感じ、その根拠を出来るだけ簡潔に、かつこれ以上の深入りを避けるように余白に記載した。昔聞きかじった伝承の一部を、教義に沿うように修正したものだったが、レオンにとっては”目から鱗が落ちるほどに”驚くべきものだったという。

 あくまで僕はそこで話を切り上げたかった。聖典の注釈さえ既に越権な上、異端の経典まで見たとあっては今度は僕が焼き殺されるハメになる。ところが、レオンはこの注釈に対し、強く興味を惹かれたように見えた。寧ろ始めて自分以外の誰かの同意を得たかのように。当初の否定の意思をはるかに上回る好奇心でこのテーマについて突き詰めようとしていた。


 渡された断章の読解とそれに対する脚注の下書きを纏め終えると既に日が沈みかけていた。唐突に作業を打ち切られたのは、ドアのノックの音によってだった。机の上に置いてあるハンドベル――ニコラから渡されかなり重宝する意思表示の道具となっている――を鳴らした。

「失礼します。夕食の時間ですけど」とニコラが顔を覗かせた。振り返って(すぐに行くよ)と伝えた。

「レオンからの例の作業ですか?」

首を縦に振って応えた。

「熱心なのはいいことですけど、たまにはこちらの作業も手伝ってくださいよ。ただでさえ人手が足りないんですから」

 まったくもって申し訳ない、という風に応えた。とは言いつつ、さすがにあれもこれもという具合には運べないけれど。ニコラもよく働いてくれて入るが、流石にこの面々では手一杯であった。

(すぐに降りる。先に行ってて)と促し、ニコラは退出した。去り際に一言言われた。

「後ですね、無造作なのも困りものですよ」と。

 さて、どうするか、と作業の途中経過を纏めてみた。確かにまともな注釈書の形にまとめ上げるには、渡された分だけでは全く足りず、原典にあたってみる必要があった。ひと通り眺めておきたい気もしたが、この時間からでは流石に無駄にランプの油を消費するだけでなく、司祭達の目につくのも気が引けた。あの塔への立ち入りは、日中でも殆ど無い。レオンの資料研究の手伝いに、という名目でも一部の――特にニコラは――あまりいい顔をしないのだ。

 取り敢えず今日の作業は目録の確認でお開きにしよう。目録の一部はレオンから渡されていた。無論、そのことが中央に知れたら、タダでは済まない一品だが。開花の食堂に降り、司祭助祭から開口一番こう言われた。

「鏡くらい確認しておいた方がいい」

 慌てて洗面所に向かうと、確かに目の下のくまやら、インク汚れやらで、人前に出られるような有様ではなかった。ニコラのあの一言はそれだったかと今更ながら気づいたが、指摘するならもうちょっと遠まわしではない表現で言って欲しかったと、夕食後に釘を差した。

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霧の魔道書 諏訪真 @mistforest

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