霧の魔道書

諏訪真

第1話

 自分の意のままに世界を構築できる書物の中では、僕は絶対の存在になると思っていた。ただし、たった一つの指摘で大きく改定しなければならない程の苦労を味わう程に、他者と意思を共有するには、困難が伴うことを、書き始めてから嫌というほど思い知らされた。

 ペン先にインクを乗せ、紙に言葉という息吹を文字として吹き込むとそれは確かに1つの世界だ。だが全能はその中でのみ完結しているのであって、人から人へ渡っていく過程では、自分が思うようにはならない。人に手渡された時点で、すでに言葉はその人のものなのだ。


 今まさに僕が行なっていることは、自らを普遍化すること、つまり知識の開示であり、また禁忌でもあった。開示する知識に関して、飽くまでもここまで、という線引きも当初はあったが、都度真摯な要望に押され、今はどれだけが公の――それでもまだごく一部だが――知るところとなっただろうか。


 ランプの油がそろそろ尽きようとしている。それまでに今日の分は書き上げてしまいたい。執刀に関するノウハウと麻酔に関する処方を書くまでは良かったが、取り扱いに関する注釈を書き忘れていたのは致命的だった。用法と調合に関して厳重に管理、適用すべし、その断りだけで本文のおよそ3分の1を占める勢いだったが、副作用の危険性を鑑みれば、まだ足りない気もする。気がつけば、既に夜半を回った。まだ不安な点もあるが、明日レオンとの協議の上で加筆、修正を行うとしよう。既に朧気な灯火を掲げるランプの火を消すと、辺り一面が夜に飲み込まれた。月は雲に隠れ、窓の外は闇一面に覆われている。

 家を出た時も、たしかこんな夜だった気がするが、不意に湧き上がる記憶を、無理やり閉じ込めようとした。ジンでもあれば良かったが、もう辺りを探ろうにも足元もおぼつかない。ベッドに横になり、そのまま目を閉じた。頭の中まで夜が降り、夢への中へと沈んでいった。極稀に悪夢が訪れるが、跳ね返す術も心得ているので恐れることはなかった。

 その悪夢とはこうだ。真白い闇の中にいる。そこに到る経緯がまるで思い出せず、あらゆるものから切り取られた感触だけが感覚で分かるのだ。まるで知らないうちにそこに放り出されたかのように。

 ここは霧の中だ。どこを見渡しても先が見えないほどに白い壁が取り囲んでいる。その中で、確かに誰かの息遣いを感じる。誰かがこちらを見ているのだ。それも1つ2つの視線じゃない。何十もの視線が値踏みするかのように。好奇に満ちた感触がざわりと全身を撫で回し、その視線に怯え身を竦めていると、目の前から突然赤い手が僕の喉を掴み上げた。息もできないほどの強さで締めあげられ、苦しさと恐怖とで心のなかで叫んだ。「その手を離せ、そしてここから消え失せろ!」と。

 唐突に霧は晴れた。まるで何もなかったかのように闇の中に投げ出された。そうだ、確かに叫んだ通りの事になった。緊張も緩みきってため息をつこうとした時に、違和感に気づいた。あ、と声をだそうとするのに、喉のところでつっかえたように言葉は喉の奥から出てこようとしない。しつこく何度も、あ、あ……と繰り返す。一向に聞こえない声に苛立ちを募らせ、腹の底から叫んだ。だが……。

「消え失せた」。それは霧も自分を掴んだ赤い手も、そして自分の言葉とともに。

 その後度々襲い来る悪夢に悩まされる日々が続いた。この赤い手の持ち主と対峙するとき、心のなかで叫ぶだけで良かった。始めは絶叫に近い金切り声も、やがてはポツリと呟くだけになった。常に闇の中で横たわる限り、あの赤い手は伸びてこない。


 翌日の校正は、特に問題がなく進められた。

「私から特に言うこともないんだが。正直、ここまで文面で説教されると読む方も気が滅入るんじゃないか。そんなに恐ろしいものかね」

 予想はしていたが、目を通すレオンも半分と読まずうんざりとした顔をする。当然、とだけ返した。

(使い方を誤れば、切り裂くより楽に殺せてしまうからね)

 切り裂く、と表すところで、首筋を人差し指と中指で横に引く様にすると、レオンも苦笑した。

 南方の神話を思い出す。人を冥府に運ぶ神は2柱いて、片方が眠らし、もう片方が命を奪う。この処方は、扱い様によっては――寧ろその黎明期に於いて――甚大な被害をもたらしてきた。

(面倒でも必ず読ませるんだ。一言一句の修正は無しでね。急ぎ送付して欲しいんだ)

「了解。先方にはやかましく言っておくよ。取り敢えず防疫に関する対処はこれで切り上げるとして、だ。次の仕事に取り掛かって欲しいんだ」

(了解。これでようやく肩の荷が下りた。で、仕事内容は?)

「少し前に話したと思うんだが、『遍在』に関する君の注釈があったじゃないか。神秘主義派の偽典の項目へのさ。その内容を体系立てて纏めておいて欲しいんだ。個人的な要望が多々含まれるけど、よろしく頼めるかな?」

(問題ないよ。いつまでに?)

「そうだね。明日から中央へ出かけるから、帰るまでには出来れば初稿を上げておいて欲しい。無理ならドラフト版でもいいよ」

(分かった。1週間くらいだっけ? 道中気をつけて)

「お心遣い、痛み入る」

 お互い、椅子に深く背を預けて1つため息をつくと、小さな笑を漏らした。部屋にはレオンの声だけが響く。僕の笑い声は、誰にも届かない。

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