アテネ
@palace
アテネ
いつのまにかおらは、砂浜で眠りこけていて、眼を覚ますと、一羽の梟がそばにいた。その梟は、自分について来いといわんばかりに、先にたって歩き出した。不審な気持ちのまま、おらは梟のあとをついていっただ。砂浜づたいにいくと、ひとの集団があり、なにごとか相談していた。どうしたことかと首を突っ込んでみると──
「世界一の美女をさらっていくなど、不届きなやつめ」
「われらのヘレネさまを」
「ゼッタイに取り戻してやる」
「何年かかってもな」
などと声がした。どうやら、ヘレネという女のファンの軍団のようだった。集団は男ばかりで、すでに鎧を身につけていた。おらが覗いていると、ひとりが気づき、
「おまえはそんな恰好で、鎧はどうした?」と聞かれた。
「おまかせ」そばの梟がそう答えたような気がした。そして羽ばたきの音がしたかと思うと、おらは、すっかり鎧かぶとに身をかためていた。
「さあ船に乗り込んだ乗り込んだ。いざ、出陣!」そう急かされて、おらは船に乗り込んだ。梟はサッと飛び上がったかと思うと、軍団の指揮を取るかのように、舳先に立っていた。偉そうに……。船にはたくさんの帆が付いていて、ちょうど風が吹き始め、菫色の海へ乗り出した。さあて、いったい、この船はどこへ行くのか? おらはいったい誰なのか? それ以上に、この梟はなにものなのか? そしてまだ見ぬヘレネとはどんな女なのか?
***
「そんなにあの女が美しいの?」女は、まるで「白雪姫」の継母が、鏡に向かって言うように、目の前の梟に向かって言った。「私だって、この国一の美女と言われたんだ。私とくらべてどう?」
「まことに申し上げにくいんですが」と、梟は人間の言葉で言った。「スパルタ国のヘレネさまは、世界一、宇宙一の美しさでございます。失礼ながら……」くすっと梟は笑ったように見えた。「どだい比較は無理です」
そう梟の言うのを聞くや、女はオリーブの実が入った鉢を梟に向かって投げつけた。
「梟の分際で偉そうに! 焼き鳥にしてくれるぞ!」女は、高い身分の女性のような口のきき方をした。この女、名前をペネロペといって、夫も赤ん坊もいたが、夫はこともあろうに、スパルタ国の、王子の妃、ヘレネを奪還するための、「ヘレネ奪還友の会」に入って、さらわれた彼女を取り戻す軍団に加わって旅に出てしまった。さあ、その期間だが、21世紀の時間感覚からいったら、結構長かった。一年、三年、五年……。軍団の人員は数百名。隊長は、スパルタ国の王、アガメムノン。……はたして、そうだったか。ちがったか。いくらおらの記憶がいいとはいえ、正確なところは思い出せんのじゃ。ペネロペの夫はオデュッセウスといってな。戦争が終わっても、そう、それは、いつしか戦争になっていたんじゃ、その帰り道、故郷へ辿り着くまで、海を十年もさまよわなければならなかったんじゃ。それは、妻、ペネロペが魔女にたのんだ呪いだったんじゃ。
***
絶世の美女、ヘレネは、さらわれたというより、トロイアの王子パリスと駆け落ちしたんじゃ。だが十年も経つとな、寄る年波で、美女はいつまでも変わらぬ美を保っているわけにはいかないのは、いつの時代も同じことじゃった。ほうれい線がな、とくに目立ったな。彫りの深い顔ほど老けるのは早いもんじゃ。CHANELのリフトアップ・クリームを使っておったがな、高いばかりであんまり効果がなかった。パリスも、最初は熱をあげていたが、そのうち、朝目覚めて、とんでもない婆さんがとなりに寝ているのを見ると、いささかうんざりしたもんじゃ。これが……戦争の原因となった、世界一の美女……パリスは、自分のしたことがまったく信じられなくなっていた。
そうこうしているうちに、ギリシアの軍団は活躍し、トロイアは陥落。王、王子、全部殺された。かろうじて生き残ったのは、アエネイアスという若者だった。彼は、アマゾネスという女族の助けを借りて、命からがらトロイアを脱出した。もちろん船で。目指すは、そののち、ローマと名づけられる国──。
「こんなもんでどうでしょう? パラスさま」おらは、アテネさまに言った。神のなかの神、ゼウスさまのご息女、アテネさまは戦いの女神で、またの名をパラスといった。おらはアテネさまに、物語を作るようにいいつけられていた。
「あまりに端折りすぎだけど、まあ、いいだろう」アテネさまの声がした。「しょせん、21世紀からは、3000年も前のハナシだもの」
おらは、春の浜辺で目覚めた。いつしか、梟は、美しい女の姿に変わっていた。
「われは美の女神ではないけれど、われは年を取らないから、美も永遠なのだ。愚かしい人間どもめ」
それは、ただの夢だったのか。ほんとうのできごとだったのか。おらにはわかんねえ。ただおらは、砂浜に、おらの名前を記すのみ。ホメロスと。
アテネ @palace
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