深夜、コインランドリーで

綿引つぐみ

深夜、コインランドリーで

 駐車スペースに灰色のワゴンが停まっていた。ここは住宅街の真ん中で、スペースは用意されているものの洗濯に車で来る人間なんてまずいない。珍しかった。通りすがりに中を覗くと男の子がマンガを読んでいる。目が合った。真夜中のコインランドリー。その駐車場。他には誰もいない。客はもちろん店の前を通る人さえなかった。車の存在が気になりながらもぼくは持ってきた汚れ物を袋から出して洗濯機にかける。コインを入れてスタートさせると待つ間に読もうと店内に置いてある雑誌を漁る。漁っていると声がした。

「ねえあなた」

 誰かが呼んでいる。

「おれですか?」

「あなたよ」

「はあ」

 声の主は三十代後半ぐらいの見た目の女だった。なんだかあまりに類型的で、あとで似顔絵を描けといわれても目の前に本人がいなければ全く描けなくなってしまうような、そんな感じの女がランドリーの入り口に立っている。

「あなた、あたしの息子を買う気ない?」

 女は感情を込めずに云う。

 ああ。あの子だ。ぼくは思う。内と外とをきっちり切り分けている、そんな眼差しをした子。自分の輪郭の内と外、所属するコミュニティの内と外。その眼差しを思い浮かべた途端、不意に何かが回転して世界のバージョンが更新される、そんな感覚に襲われた。

「いいですよ。いくらですか」

 そう言っている自分に驚いた。気がつくと自分の口が動いていた。自動人形のようだ。

 連れられて車に乗り込むと、中は荷物で一杯だった。スーパーやパチンコ店の駐車場で、時折こんな車を見かける。車上生活者の車だ。その後部座席に男の子はいた。

「幾つ?」

「……さい」

「え、中学生?」

「学校行ってない。──お兄さんはいくつ?」

「二十六」

「大人?」

「──大学生」

 車を人気のない場所に移動すると、女は車を降りた。男の子は読んでいたマンガ雑誌を傍らに置く。

「マンガ好き?」

「うん」

 ぼくは彼を抱いた。季節は秋の暮れるころだった。不思議な感じがした。こんな体験は初めてのことなのに、自分はそれをいままで何度も繰り返してきたような気がした。

 小さな体は心許ない温かさで、傍らには東京銘菓の菓子箱が転がっている。

 肩甲骨の間にできた谷をぼくは深く撫でる。

 吐息が、果てのある空に野火に焼かれる煙のようにたなびいた。


     #


 車はコインランドリーへと戻ろうとしている。

「おねえさんの相手はしなくていいの?」

 戯れに軽口を叩くと急ブレーキがかかった。

「──してくれる?」

 彼女はハザードを点けて車を停めると、シートを乗り越えた。まだ服を着ている途中のぼくをその体重で押し倒す。彼女の息子は助手席へと避難した。マンガを持って。

 車の中には怠惰の醸す匂いが満ちている。それがより一層強烈になった。ぼく自身にもある匂い。

 実際の体臭でも、人は性的に自分と違う匂いに惹かれると聞いた。ここにいる三人はたぶんみんな同じ匂いなのだと思う。血の繫がりのある、親子あるいは兄弟のように。なぜなら、二人と体を合わせてもめくるめくような陶酔の感覚は浮き上がって来なかったから。ただ互いの体を洗い合うような、静かな感情があっただけだった。


     #


「これから何処へ行くの?」

「この辺りはもう切り上げるけど。何処へ行くかは分かんない」

「行き先不明?」

「行き先不明ね」

「おれも乗せてってくれないかな」

「?」

「おれも行き先不明で」

「目的地が一緒ってことね」

 そのまま部屋には寄らず、ぼくはこのような旅に出た。乾いた洗濯物を持って。部屋には作りかけの天ぷらうどんが残された。

 車は走る。東京某区の環状線を。

 もしもいまこの島で武装決起があれば、それでもたった一台の聡い車として、この三人だけはあらゆることから無関係でいられる。そんな確信がふいに過った。

 車は南へ向かった。冬に向けて南へ下ることだけは決まっていた。


     #


 ふたりの客選びは以外に慎重だった。ぼくはあらかじめ車から降ろされていたが、近くのコンビニの店内から眺めていると何人もターゲットになりそうな男たちを見逃して、一時間以上もそうしている。もっと成り行き任せにしているのかと思っていた。それでいざ声をかければ八割方交渉が成立する。一体どうやって見極め、選んでいるのだろう。自分もその選ばれたひとりではあるのだけれど。

 背中の黒翼でも見えているといったふうに。


     #


 これがすべてだと思う。この天井のある狭い空間が。車、あるいは船のような移動する乗り物はその内側が世界のすべてであるような感覚を呼ぶ。そこに女がいる。少年がいる。


 少年は母親に「りお」と呼ばれていた。あるいは「りょう」かも知れなかった。りおはいつもマンガを読んでいた。そこが港であるように、車は定期的にコンビニへ着くが、コンビニへ着くたびに新しいマンガを買い入れる。少年マンガ、青年誌、少女向け、ホラーやファンタジイの専門コミック誌、何でも読んだ。定期的に買っているものだけでも二十冊は超えた。その中でもりおが好きだったのは少女マンガテイストの強いホラーマンガ誌だった。

 りおはまだ生まれていない。

 そんな比喩がもっとも的確に彼の現状を表していると思う。

 車の中はいつも静かだった。みんな話しかければ答える。でも最初に話を始める人間がいなかった。


 女は息子に「えみちゃん」と呼ばれていた。えみちゃんは気配そのものだった。ぼくは顔(あるいは彼女の実体)を見る、知覚するのを諦め、彼女を気配によって認識していた。纏う全体の雰囲気で。

 えみちゃんは息子の相手が見つからないとき、それで逼迫してくると時々は自分の体も売った。

 彼女に抱かれたのは最初の日の、一度だけだった。「おれには売ってくれないの?」と訊くと「家族には売らない」と彼女は云った。

 それでも夜は一枚の毛布に三人で抱き合って寝た。

 えみちゃんはいつもチェック柄のノートを持っている。何のノーとかは分からない。それを寝る時も片手にしていて無地の毛布にアクセントを加えていた。

 ぼくはその毛布に包まってよく射手のいる夢を見た。弓を携えた男。そこにいるぼくは少年で、中味はよく覚えていないが、何か少しつらい夢だったように思う。

 そんな夢を繰り返すうちに、車はかつての天皇の都を過ぎ、ぼくは随分この生活に慣れてきていた。


     #


 ある日のことだった。ぼくたちは某県某市の健康ランドにいた。「みゆの里」という名だった。六日ぶりの入浴を終えて車へ戻ろうとすると、建物を出てすぐにえみちゃんが足を止めた。

「何?」

「けいさつ」

 見ると車の周りに数人の男たちがいた。そのうちの二人が制服を着ている。警官だ。あるいは全員そうかもしれない。

「どうしたんだろう? 車がどうかしたのかな」

「だってあれあたしの車じゃないもん」

 一人の男がこちらを見た。と、途端にえみちゃんとりおが踵を返し走り出した。

「ちょっと」

 二人は止まらない。仕方なくぼくも後を追った。


 走った。警官たちが追って来るかどうかは分からなかった。

 とにかく、とりあえず、走った。

 途中、心の中で遙か遠くから声が聞こえた。

 それは東京にまだいる自分の声だった。

 あのコインランドリーに入る前の自分が、自分のどこかに保存されて、まだ消えないでいる。

 住宅街を抜け、鳥居をくぐり、小さな山を越えた。


 走って走って、走り続けた。

 そして、幹線道路沿いの無人の自販機ステーションでぼくは座り込んでいた。えみちゃんとは逸れてりおと二人だった。ぼくはとても疲れていた。走ってきたのに寒かった。ぼくはりおに話しかけた。

「そろそろこんなことは止めるべきじゃないか」

「こんなことって?」

「こんな生活」

 疲れていた。

「なんで。楽しいよ」

「車もなくなったみたいだし」

「またえみちゃんがみつけるよ」

 もともとぼくは疲れていたのだ。だからあの車に乗った。いやその前にこの子を買った。

 でも今はそんなやわな精神の疲れよりも、全身を覆う肉体の本当の疲れが勝っている。自販機の平面的で揺らぎのない、人工の灯りでさえ、とてもきよらかなものに感じるほどに。

「セックスでお金を稼ぐのが全然悪いこととは思わない。でも楽しいからというのは違うよ。楽しいからっていう理由で何かをしちゃ駄目なんだ」

 ぼくたちは楽しいことをするために生きているわけじゃない。それじゃあ、生き続けることなんて出来ない。

 りおは黙った。怒った様子ではなく黙考していた。まだ生まれてはいない彼だけど、この子はたぶんとても頭がいい。

 ぼくは自分の言葉の無根拠さに少したじろぎながらも、言ったことはそれで間違いではないのだと思った。


     #


 ぼくは部屋に戻った。りおとえみちゃんも一緒だった。八畳間が二つ。生活に係わるすべてはぼくが負担した。

 部屋に入って最初にしたことはキッチンをきれいにすることだった。新しい天ぷらうどんを三人分ぼくは作った。


     #


 火曜日にはゴミを出す。木曜日には久しぶりに大学に行った。

「なにしてたの。しばらく見なかったけど」

 まちがぼくを見つけて話しかけてきた。

「いつまで大学にいるつもり?」

「やめてまたわたしと暮らさない?」

「わたしカフェ付きの本屋がやりたいな」

 彼女は立て続けにぼくの反応を促す。

「それは家族になるってこと?」

 ぼくがそう言うと彼女は仄かに笑った。


     #


 大学から帰って来ると部屋の中でふたりは茫としている。

 あるだけの毛布が、床に広げられている。

 二人には部屋の生活で、することが何もないのだ。りおはマンガを読まなくなった。ぼくはりおの頭を撫でる。

「やめてよ。パパ」


「きっとそう。耕すことを始めた人類が後戻りできなかったように、あたしも部屋の暮しには戻れないのよ」

その部屋の中で、うどんを啜りながらえみちゃんが云う。

「りおはどう。あなたが飼うの?」

 親子に出来るのは移動すること、だけだった。

 ここにはいられない。それはもう確かだった。

 りおをここに置けるだろうか。ここにいても彼は無事生まれて来ることが出来るだろうか。だとしてぼくは何役だろう。

 ほとんどの物語は、運命なんていうものには手が届かない。


     #


 二日ほどゼミの合宿があってその帰り、まちがぼくの部屋に寄りたいといった。

「何の用?」

「用? べつに」

 家が近づき、あのコインランドリーを過ぎたあたりで、ぼくは彼女にりおとえみちゃんのことを話した。

 話をしながら、彼女とぼくはエレベーターに乗る。

「そんなこと、ほんとにあったとは思えないけど。そりゃあ、確率的に起こり得る出来事ではあるけど。でもそんな親子、日本中探してもきっと一組いるかいないかよ」

 箱が上昇を始める。あのワゴンよりさらに小さな空間が地図上の場所を変えぬまま移動している。

「だから実際に出会うことはきっとないんだよ」

 まちは昔ぼくがよくしたように、また小説のアイデアでも話しているのだろうとそう思っている。

 三日ぶりに帰る部屋に、たぶんもうふたりはいない。階に着いてドアが開いた。

「ひさしぶり。わたしきっとすごく懐かしく感じるよ」

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