永遠の三角形

フカイ

掌編(読み切り)




 17時半にセミナーが終わった。

 違う会社の、でも同じ仕事をする普段のライバルたち。抜いたり抜かれたり。取ったり取られたりを繰り返したこの二〇年。法制度の改正に伴って、我々の業務もこの四月から少しマイルドになる。これまでのグレイゾーンがはっきり黒と言われるようになって、我々自身にもコンプライアンスの波が寄せてきたということだ。

 監督官庁の担当者を招いて、法制度の解釈を拝聴した月曜の午後。会場のホテルを出ると、木立の向こうに見えるオレンジ色の東京タワーが、ゆるやかに紺色のグラデーションに沈んでゆく、美しい宵闇の時間だった。


 少しも寒くない。

 脇に抱えたトレンチコートを羽織る気にもならず。家に帰るでもなく、社に帰るでもなく。わけもなく大門の街を歩く。

 そういえば、あいつの転職したオフィスがこの辺りだと言われたことを思い出す。スマホをタップして、あいつにLINEする。

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 仕事がハケて、たぶん御社の近くにいる。

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 今日は忙しい? メシでもどう?

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 そのスマホをシャツの胸ポケットに入れて、返信のバイブがあったらすぐ気づくように。

 それからiTunesを起こして、以前よく聴いた古内東子のアルバムを選ぶ。

 見上げると、増上寺の巨大な門が、夕暮れ空をバックドロップに、シルエットになっている。左右に張り出した伽藍の向こうに、白とオレンジに染められたタワー。古内東子のか細いボーカルが、春先の柔らかな宵の口のぬるい風に、あまりによく似合う。



 ●



「転職して一年経ったっけ?」

「うん。あっという間だった」

「充実して? それとも大変で?」

「最初は不安だったけどね。でも、この会社の空気に合ってるみたい、あたし。なんだかとっても居心地がいいの」

 そう言って、菜穂子なほこは窓の外を見た。タワーの脇の坂を登って、タクシーは六本木に向かっている。

「少し痩せた?」

「どうかな? そう思う?」

「なんとなくね」

「あなたは、少し…」と言って、彼女は苦笑する「後退した?」といって、おでこをさする。

 るせぇ、とこちらも混ぜっ返して、笑いを誘う。


 ふたりとも、四八になった。

 学生時代、指導教官の方針で、一緒に卒論を書いた。言語学統語論の論文だ。外語大なので、四年になってもかなりの回数、授業がある。外国語は毎日使わないと身につかないからだ、という。そのせいで、キャンパスでも、自宅でも、菜穂子とずっと一緒だった。

 菜穂子と、芳朗よしろうと。

 指導教官は、三人での論文執筆を推奨した。二人なら喧嘩別れになることがあるけれど、三人ならバランスが取れるから、と言って。

 だからぼくらはいつも三人だった。

 図書館に行き、深夜のファミレスに行き、誰かの実家に行って。ぼくだけが一人暮らしをしていたせいで、我々の活動の基本はぼくのアパートだったけど、


 勝ち気な美人だった菜穂子は、キャンパスでも人気の的だった。

 それをいつでも連れ歩いているぼくと芳朗は、周りの男子のやっかみと嫉妬の的だった。ぼくは真面目一本の堅物で、対する芳朗は天才肌の軟派師だった。

 ぼくが童貞を卒業したのは、大学三年のときのバイト先で知り合った女性とだったけれど(そして卒業まで、ぼくの経験人数は増えなかったけど)、芳朗は既に大学の時点で二桁の経験を持っていた。なんて奴だ。

 でもぼくたちは、菜穂子にだけは手出ししないことを決めていた。芳朗とそう口にして決めたことは一度もないのだけれど、知らぬ間になっていた。

 ぼくたちははたからみたらいつでも楽しそうだった(と後日、同期会で聞いた)らしいが、ではいつも大変だった。恋愛感情は入らない代わりに、三人が三人とも、互いをライバル視し、互いの論理の矛盾点を突きあっていた。それぞれが必死で考えてきたアイディアもデータも、残りの二人によって無残にも論理の飛躍や矛盾を指摘され、ボロボロになっていた。

 我々が院生であったなら、もうすこし理性的な議論ができたろう。しかし我々は年端もゆかぬ学部生だった。議論の戦わせ方も知らないまま、ただむき出しの闘志でぶつかりあうほかに、やり方を知らなかった。

 満身創痍で提出した論文は、教官の合格点はもらえたものの、満点とは行かなかった。ただ彼女の「中身はどうあれ、ここまでのものを諦めずに最後まで仕上げたあなた方の努力に敬意を評します」という言葉で、我々は号泣した。


「今夜は小鰭こはだと鯛がおすすめです」

 六本木の裏通りにある鮨屋は、今でも菜穂子と年に一、二度顔を出す店だ。

 馴染み、というほど足繁く通うわけでもない。が、大将も常連扱いみたいなのを嫌う店だった。だから我々は、いつでもここで、落ち着いてそれまでの人生の経過報告をする。

「じゃ、あたしは小鰭からもらおうかな」

 俺もそうすると大将に伝え、我々は賀茂鶴を冷でもらった。

 互いの目の高さに盃を掲げ、唇だけを『け・ん・ぱ・い』と動かして、一杯目の大吟醸を口に含む。透明な甘みが鼻を抜ける頃、芳朗の笑顔が浮かんでくる。


 彼が死んだのは、もう一五年も前のことだ。

 山梨県の山中で、カーブを曲がりきれず、クルマごと谷間に落ちたのだという。

 その頃彼は、プロのカメラマンになっていた。大学で学んだこととは全く違う領域の仕事だが、それはこちらも菜穂子も同じこと。そしてプロカメラマンという職業こそが、あの軟派な天才にあまりによく似合うと思っていた。

 葬儀の間、ぼくと菜穂子はあまり口をきかなかった。何を話していいか、よくわからなかったからだ。奥さんと呼ばれる人は、ものすごい美人だった。きっと仕事で知り合ったモデルさんなのだろうと生前、我々は言い合ったものだ。芳朗は笑ってそれに取り合わなかったけれど。


 その葬式のあと、ぼくと菜穂子は初めて寝た。東京の郊外で行われた葬儀の後、新宿に戻った我々は、それぞれの自宅に帰る前に一杯だけという約束で、昼から開いている高層ビルのホテルのラウンジで、強い酒を飲んだ。ぼくは既婚者であり、菜穂子は未婚だった。ジンを煽って、菜穂子から口を開いたのだった。

「あたしと、寝て」と。


 ことが済んだあと、「芳朗くん、きっと自殺だったんだと思う」とシーツに包まれて彼女は言った。

「なんで?」

「そんな気がするの」

「芳朗のこと、なんでもお見通しって口ぶりだぜ」

「そんなのじゃないわ。ただ、そんな気がするだけよ」

 菜穂子はそう言って、すこし、泣いた。

 ぼくは、知り合って10年になる異性の友だちの、細い肩を抱いた。こんな華奢な身体だったんだ、と思った。

「あたしね、大学を卒業して、社会人になって少ししたあと、芳朗くんと付き合ってたの」

 涙の後に、菜穂子がそういったことに、ぼくは驚いた。

「すこしも気づいてなかったよ」

「そうだと思った。あなた、昔からそういうところ、鈍いから。あたしがずっとあなたのこと好きだったのも、全然気づかなかったでしょ?」

「マジで言ってる?」

「マジよ」

 芳朗の葬式、芳朗と菜穂子の交際、菜穂子のぼくへの恋慕。

 どれもが自分のキャパを超えていた。

「もう、訳が分からないよ」

「馬鹿ね」

 菜穂子は、もういちど、ぼくに口づけてきた。ぼくたちは長い口づけを交わした。いろいろなことが、どうでも良くなっていった。


 菜穂子を抱いたのはそれ一度きりのことだった。

 それからぼくたちは、年に何度か、こうして顔を合わせては季節の魚をいただいて、過ぎし日々を静かに語り合う。

 菜穂子は三〇代の頃に呼吸器系の大病を患った。我々が一瞬疎遠になった隙に、彼女は生死の境をさまよって、こちら側へ帰還してきた。ぼくが今の妻と知り合い、それなりの恋愛期間を経て結婚式を挙げ、子どもをこさえている頃の話だ。

 彼女はその疾患のせいで、子どもの産めない身体になった。そのことも、この鮨屋のカウンターで聞いた。

 菜穂子はあの学生の頃の、深夜のファミレスでぼくと芳朗に将来について語ったのと同じ口調で、子どもを持たない人生について、語ったものだった。


「今どこにいるか分かる?」

 何年か前、職場で残業しているぼくに菜穂子から電話があった。電話の向こうには何かのざわめきが聞こえた。

「どこだよ、外か? 酔ってるのか?」

「違うわよ。シラフよ。けど…」

 といって、菜穂子は言葉を切った。

 静かな波音が聞こえた。

 砂利浜だ、と直感的に思った。打ち寄せる波に、小さな小石が流されて、ジャラジャラと石同士が触れ合う優しい音がした。

「あの海よ」

 と言った一言で合点した。

 学生の頃、芳朗と三人で行った伊豆の海だ。ぼくのポンコツのクルマで、論文を書きあぐねて真夜中に東京を脱出し、朝までかけて伊豆半島の先端まで行き、そこで朝日を見たのだ。

 子どもの産めない身体になった菜穂子は、あの海で、涙を流し尽くしてきたのだ、と後日この店で静かに語ったものだった。


 いま、ぼくには高校生の娘と、中学生の息子がいる。妻と、そして婚外の若い恋人。東京にいる妻の両親と、大分にいる自分の母(父は死別していた)。

 身近な人たちの顔をひとつひとつ思い浮かべるとき、菜穂子はどのポジションにいるのだろう。

「大将、クルマエビ」

「俺も」

「あなた、いっつもそうやって、あたしの真似するよね」

がそうやって、俺の食べたいものを先取りするからだろ」

 女性に、お前などと呼ぶのは、娘と菜穂子だけだ。


 もう二度と、菜穂子と寝ることはないだろう。

 けれど同じようにもう二度と、菜穂子と離れることはないだろう。


 菜穂子は他の誰にも座ることの出来ない場所に、座っている。ぼくの心の中のベンチに。

 そのベンチは横に長く、いつも芳朗の席が空いている。

 あいつの葬式帰りにぼくと寝たことで、菜穂子はあいつとぼくの釣り合いを取ったのだ。

 ぼくらはそして、いつまでも変わらない関係を手にした。

 それぞれの角度が60度ずつの、正三角形だ。


 芳朗、おれはずっとそう思ってるんだよ。

 家族ができて、恋人が入れ替わっても。

 お前と菜穂子はおれのなかでずっと、変わらない椅子に座っているんだよ。

 おれと菜穂子が飲む時は決まって、お前に献杯してから飲むんだ。

 ずっと、お前の場所をあけてあるからな。


 真冬の底を打って、暦は3月になる。

 芳朗は、桜の花が咲く前に、この世に別れを告げた。

 ぬるい風がふく、軽やかな宵だ。

 菜穂子もきっと、同じことを考えている。

 ぼくたちが永遠の三角形である、という幸福についてだ。











  nへ捧ぐ



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永遠の三角形 フカイ @fukai

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