石の牢
「こちらです」と言って側近の男が足を止めたのは、豪奢な宮殿の裏手にある、堅牢な門の前だった。
周囲は非常に高い石造りの塀となっており、外から中の建物は見えない。
まるで牢獄だ、と思った。
それ程までに、この門や塀からは、中にいる者を絶対に逃がさないという強い意志が感じられた。
男が一本の黒い鍵を、門の鍵穴に差し込んだ。
そしてそれを殊更にゆっくりと引き抜くと、こちらを振り向く。銀縁の眼鏡の奥の鋭い目が、僕を値踏みするように見ている気がする。
「……どうぞ」
彼が門を押すと、キィ、と高く鳴きながらそれが開く。
うっすらと開かれたそこにまず男が滑り込み、僕もそれに倣う。
僕がしっかりと入って来たのを確認して、男は、今度は門の内側にある鍵穴に鍵を差し込んで、抜いた。
「参りましょう」
懐に鍵を仕舞った彼が、また僕の前に立って歩き出す。土を踏むザリザリという音だけが、奇妙に大きく響いている気がした。
塀の中の建物は、予想していたよりもずっと簡素だった。
石造りの平屋で、装飾が一切ない所か色すらも塗られていない。
よく見れば、建物を構成している石の端々が小さく欠けていて、この建物がかなりの年数、此処にあることが伺えた。
「コウ様、こちらに」
キョロキョロ、ふらふらとしながら歩いていると、側近の男が見かねたように声を上げた。まるで咎めるような声音だった。
「……すみません」
建物の扉の前で立ち止まると、側近の男は一度立ち止まり、その木製の扉に再び鍵を差し込んだ。するり、とそれを回して抜くと、先と同じように懐に入れる。
「此処は、彼女の家なのでは?」
「そうですよ」
「では何故、貴方が此処の鍵を」
「王から、貴方様を案内するように、とお預かりしましたから」
扉を開いた男が、「さぁ、どうぞ」と僕を中に促した。
それに納得のいかないものを感じながらも、小さく「失礼します」と言って、僕は建物に足を踏み入れた。
扉の先は廊下だった。
石造りの、無機質な廊下だ。
燭台が申し訳程度に置かれているが、火はついておらず、暗闇を照らすものは何もない。
男はポケットからライターを取り出すと、その燭台に火をつけた。
此処だけ季節に取り残されたように凍えていた空気の中に、一点の温もりが灯る。
「足元、気を付けてください」
そう言って歩き出した男の背を追って、僕もその廊下の先に踏み出した。
廊下を歩くコツリコツリという音だけが、いやに大きく響く。
「……それにしても、静かですね」
「ええ。いつもこんな感じですよ。この建物には彼女しか住んでおりませんし、彼女は基本、部屋に籠って本を読んでいますから」
「踊りの練習なんかは、何処で?」
「庭でやっているようですよ。踊っているか、本を読んでいるかですね。あの人は」
「そうなんですか」
男の言葉にそれだけ答えて、僕は先程見た彼女の姿を思い出す。
この冬を閉じ込めたような建物の中で暮らしているから、あのような冷たい目をしているのだろうか。
例えるなら、透き通って美しい、湖面に張った薄い氷のような。
人を寄せ付けぬ鋭さの中に、儚さと危うさが同居する、そんな瞳。
強く鋭い光の中に見えた一条のか弱い光は、きっと見間違いではない。
僕は男の背を追いながら、そっと耳を澄ましてみる。どんな小さな音も聞き逃すまい、と神経を張り詰めてはみたものの、自分たちの靴が石畳を叩く音以外は、何一つ聞こえなかった。
人の話し声も、物が動く音も、動物の声も。
本当に何一つも聞こえない。
此処だけが生き物の住む世界と隔絶されたような。そんな空間に、僕の背筋が一瞬冷たくなる。
そのくらい、この空間は異常だったのだ。
生の息遣いが全く感じられず、かといって死のような圧倒的な圧力もない。
いうなれば、「無」。
澄み切った空気と、耳を塞いでしまいたい程の静寂。
それが建物全体を支配していて、生が入り込む隙間が無い。
この上なく息苦しい、洗練され過ぎた空間。
長く居座れば気が狂いそうだ、そう、思った。
男が足を止めたのに続いて、僕も止まる。
いつの間にか僕たちは長く、暗い廊下の最奥にいて、目の前には木製の簡素な扉があった。
コンコンコン、というノック音が石の廊下に反響して、消える。
「テン様、お客様でございます」
そう言って、返事を待つことも無く男がドアを開ける。
瞬間、空気が色づいた。
白檀の甘やかな香りが廊下に優しく漏れ出して、「無」の空間に世界を作る。
パチリ、と小さく薪の音がして、温かな空気がふわりと僕たちを手招いた。
「……お客様? 珍しいですね。いつもはそちらで追い返してらっしゃるのに」
部屋の奥から、艶のある少々低い声がした。
空間に溶け込むような、透き通った声。
穏やかなそれは静かに流れる清流のようで、空気に自然に馴染む。
声の方に振り向くと、水を満たしたグラスを手にした一人の女性が立っていた。
華美な衣装から一転、白の襦袢に紺の打掛を纏った彼女は、何処か浮世離れした雰囲気を漂わせている。
湯を使ったのだろう。上げられていた髪はゆったりと下ろされ、水分を含んで艶めいている。
匂い立つ石鹸の香りが白檀の香と混ざっては、神聖さすら感じさせる香りを生んだ。
宴では紗で隠されていた目より下の造形には、表情と呼べるようなものはなく、ただただ白すぎる頬に高い鼻、その下に薄く小さな唇が、きっちりと一番美しく見える位置に並べられている。
そして、その上の瞳。
僕は、その圧倒的な存在感に息を飲んだ。
踊りの最中に見せた刃のような鋭さや剣呑さは無いものの、その眼光の鋭さは衰えることを知らぬようだった。
室内をくまなく照らすように置かれた、いくつかの燭台。
その光に照らされて浮かび上がる双眸は、やはり冷たく、何処か寂しい。
キラリキラリと反射された光は、淡い色を持って儚く溶けた。
呼吸すら忘れて僕が彼女の瞳に見入っていると、僅かに彼女の柳眉が寄る。
小さな小さな、しかも不快を表す表情であるが、それを見られたことにすら胸の内が騒めき、歓喜する。
「無」を体現しているような彼女の表情に、色が乗った、そんな気がしたのだ。
「この方は、カラ国の王の側近、コウ様にございます。今宵の宴にてテン様の舞をご覧になられ、是非とも貴女様と直接お話をしたいという事で、此処にご案内いたしました」
恭しく頭を下げて述べる側近に一度目を向けた後、彼女の瞳が再度此方を見た。
それに口角を小さく上げ、僕も側近の男に倣って頭を下げる。
「お初にお目にかかります、テン様。紹介に預かりましたように、私はこの国の隣国であるカラ国から参りました、コウという者にございます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
僕がゆっくりと顔を上げると、徐に彼女は部屋の隅に置いてあるテーブルに寄って行き、持っていたグラスを置く。そして僕たちの前に戻ってくると、襦袢と打掛の裾を払い、その場に膝を着いた。
「……ご丁寧に有難うございます。私は、テンと申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
板敷の、僕たちが立つ石畳よりも一段高くなった場所で。
彼女、テンはゆるりと頭を下げた。
きっちりと、手本のように揃えられた指先が、蝋燭の火で温かく光る。
「頭を上げてください」と僕が言う前に、側近の男が口を開いた。
「テン様、この方は我が国の外交においてとても大切なお方です。くれぐれも粗相のないようにお願いいたします」
「承知しております」
テンが、そう言ってより一層頭を下げた。
僕はあまり人に頭を下げさせるのは好きではない。
できるなら、敬語すらも取っ払って、対等に楽しく話がしたいのだ。
こんな風に下げられた頭を上から眺めていたいわけではない。
しかしそれをこのタイミングで言う訳にもいかないことは、僕にもわかっている。
僕が眉を寄せて、側近の男の退室を今か今かと待っていると、彼が今度は此方に向き直った。
「コウ様。先程陛下からお聞きになったかと思いますが、テン様は他の踊り子とは違い、夜伽は一切致しません。それを、お忘れなきようお願いいたします」
「はい。承知しております」
僕の返事に、側近の男は一瞬だけ疑わしげな眼を向けた。しかし彼も、自分の立場をしっかりとわかっているのだろう。次の瞬間にはもう、感情の読めない黒い目に戻っていた。
「お酒か何か、お持ちいたしましょうか」
男が言った。
「いえ、結構です」
僕が答えると、彼は「かしこまりました。では、ごゆっくり」と言って開けっ放しだった扉から出て行く。
すると、いつの間にか顔を上げていたテンが、ゆっくりと立ち上がりながら、「お腹が空きました」と側近の男を見据えて言った。「腹が減ったから、飯を持って来い」という事だ、というのはすぐに分かった。腹痛を起こしても困るため、踊る前にはさしたるものは食べられなかったのだろう。微妙な苛立ちのようなものがその声に含まれていると感じたのは、恐らく僕の気のせいではない。
「分かりました。後で夕食を持って来させます」
「それに、グラスを一つ付けてください。この部屋にはあのグラスしか常備がありませんから」
「分かりました。他には?」
「結構です」
彼女がそう答えると、側近の男は「では、失礼いたします」ともう一度恭しく頭を下げ、ゆっくりと扉を閉めた。
祈りの季節 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori
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