祈りの季節
宮守 遥綺
宴にて
ゴオ、という音を立てて、焔が大きく燃え上がる。
それはまだ冬の気配を残した夜空を染め、闇に小さな子どもを吐き出す。
周囲を囲む人々は、皆一様に赤い顔をして、陽気に歌なんぞ歌っている。
美味い料理に、美味い酒。
人々は皆、凍える季節の終わりを喜び、先の一年の平安と豊穣を願うこの宴に酔いしれた。
歌い、話し、笑い。
長く我慢を強いられた者たちが、やっと解放される季節だ。
焔の中で大きな薪が音を立て、一段と人々の熱気を煽った。
不意に、賑やかな人々の話し声や笑い声が止む。
音楽を奏でていた楽隊も演奏を止め、薪の弾ける音だけが鮮明に聞こえた。
「わぁ」と小さく、誰かが声を上げた。
続いて其処彼処から、ほぅ、と息を吐く音が聞こえる。
音もなく、するりと現れたその人影は、大きな焔の前、人々の環の中心にその身を置くと、ゆったりとその白く細い両手を合わせ、一礼した。
そして、す、と片手、片膝を地面に着くと頭を下げる。
焔が、頭を飾る細い鎖を赤く、光らせた。
シャン、と鈴が鳴る。
トントン、と太鼓が鳴る。
種々の弦楽器の音が、歌姫たちの声が、響く。
それに合わせて、人影が、動く。
中心で舞うその踊り子は、細い肢体の女だった。
しかしその動きは、男のように力強い。
柔らかな布地でできた衣装が、彼女の動きに合わせて軽やかに舞う。
街で観る踊り子たちと同じように、胸の少し下までしかないその上肢の衣装の更に下では、薄っすらと割れた腹筋がしなやかに動く、動く。こちらは見えないが、下肢を覆うあのふうわりと空気を含むズボンの下でも、きっと美しい筋肉がしなやかに、力強く動いているだろうことが、想像に難くない。
首や両の手にかけられたいくつかの装飾品は、動く度にシャラシャラと音を立て、小さな頭の高い位置で一つにされた長い黒髪は、まるでその装飾の一つのようにゆらりゆらりと揺れた。
目から下を覆っている黒の紗が、ふわりと浮いては、静かに下りる。
それはまさしく、命の舞だった。
自らの命を削り、あの踊り子は舞っている。
この地の豊穣を、この国の繁栄をただひたすらに願って。
地の神に、田の神に、水の神に、日の神に。
この地に住まう全ての神に。
この国に住まう全ての命の繁栄と安寧を、たった一人で背負い、祈っている。
それは、遠い過去に行われていたという生贄を捧げる儀式のように忌まわしく、しかしずっと美しい。
僕の目は、彼女の一挙手一投足を見逃すまいと、瞬きすらも忘れ去っていた。
それほどまでに、彼女は幻想的で、儚くて、力強かったのだ。
中でも僕をより強く惹きつけたのは、その彼女の目。
不純物のないアメジストのような両の瞳は鋭く、触れたものを切り裂き、射殺すほどの眼光を放っていた。眦を彩るのは焔と同じ赤色である筈なのに、その光はどこまでも冷たく、透き通っている。
まるで、冬だ。
凍てつき、ありとあらゆる命が刈り取られた、永久に終わることのない、冬。
雪に全てが閉ざされた季節そのままに、彼女の瞳は冷たく、寂しい。
それが僕を、この上なく惹きつけては捕らえて、離さなかった。
「コウ殿、宴はいかがでしたかな」
彼女の舞が終わり、宴もたけなわとなった頃、眦に柔らかい笑い皺を浮かべて、この国の王は言った。
右手には葡萄酒を持ち、傍らにはそれはそれは美しい、彼の正室が控えている。
「楽しませていただきましたよ。本日はお誘いいただき、感謝します」
そう言うと、彼は満足そうに笑みを深めて、「もう一杯如何です?」と近くにいた給仕の青年を呼び止めた。青年が葡萄酒を差し出すのを断って、水を頼む。彼は一つ丁寧に頭を下げて「かしこまりました」と言った後、無駄のない動きで戻って行く。
それを見送って、王が徐に口を開いた。
「ご存知の通り、我が国は昨年、洪水によりひどい凶作に見舞われました。貯えも少なく、このまま冬を迎えるのかと恐怖していた我々を、救ってくださったのは貴国だ。貴国のおかげで、我が国の民は救われました。だからこそ、我々に手を差し伸べよと進言してくださった貴殿には是非、この宴に参加していただきたかったのです」
この国は、夏と冬の寒暖差が激しい。夏には人が倒れる程の暑さに見舞われ、冬には雪が降り、他の国から隔絶される。雪により、人の往来がかなり難しくなるのだ。
冬に雪が降る分、水が豊富で、干ばつに見舞われることは少ないが、夏場に雨が降りすぎると、洪水になることも多い。洪水が一度起こってしまえば、元の土壌に水が豊富な分水はけが悪いこの地域は、凶作になる。
農耕民族として発展を遂げてきたこの国の住民たちにとって、大切なのは農作物だ。だからこそ、このような豊穣を祈る宴を、畑に種を蒔く前のこの時期に、毎年行っている。
「困った時には、お互い様ですよ。一昨年に起きた我が国の旱による凶作の際には、貴国が我が国を助けてくださいました。我が国にとっても、貴国は大切な貿易相手であり、これからも共に手を取り合いたい国ですから」
氷の入ったグラスとピッチャーを盆に乗せて戻って来た給仕の青年に頭を軽く下げ、グラスに水を注いで貰い、盆ごとピッチャーも受け取る。青年がまた頭を下げて戻って行くのを見送って、僕はグラスの中身を一気に煽った。柔らかな地下水の甘みが、酒で焼けた喉に沁みる。やはりこの国の水は格別だ。続けて、もう一杯。
冷たい水が喉を潤す瞬間、ふと、先程の踊り子の瞳が脳裏に蘇った。
「我が国としても、貴国とは末永く、手を取り合っていきたいものです。これからも、どうぞ、よろしくお願いいたします」
そう言って、王が持っていた葡萄酒を煽る。傍らにいた女性がそれを見て、「貴方、もう少しゆっくりと飲まれませんと……」と小さな声で言うのが聞こえた。
「それはそうと、国王陛下」
「ん?何ですかな」
女性に苦笑いを向けていた王が、そのままの顔でこちらに向き直る。
国王であるにも関わらず、このように繕わず、純朴なところは、好感が持てる。
「先程の、舞なのですが」
「ああ。あれですか。いかがでしたか」
「素晴らしい舞に、思わず見惚れてしまいました」
そう言った僕の言葉に、王は目をキラキラと輝かせた。余程嬉しかったようだ。
「そうでしょう、そうでしょう。私もね、彼女の踊りが大好きなのですよ。彼女は、この国一番の踊り子でしてね。街の舞台には一切上がらず、このような大切な宴や儀式の際にしか踊りませんから、我々もなかなか見ることができないんですよ」
「そうだったんですか。そのような貴重な機会に恵まれた事、とても嬉しく思います。……それで、あの、一つお願いが」
「何でしょう」
「……彼女をこの後、僕の部屋に呼ぶことはできませんか」
この言葉を聞いた王の顔が、急に厳しいものとなる。普段は柔らかく笑んでいるこの人も、こんな顔ができるのだと初めて知った。
彼はすかさず首を振り、先程とは違う固い声で言った。
「それはできません。彼女は、他の踊り子とは違い、夜伽を一切致しません。故に、あのように顔を隠し、声を隠し、素性を漏らさぬようにしているのでございます。素性が割れて、身に危険があっても困りますから」
「……誤解があったのならば、謝ります。夜伽を所望している訳ではないのです。ただ、彼女と話がしたいのです。別に僕の部屋でなくとも構いません。彼女に無体は致しませんし、彼女の素性も一切漏らしません。約束します」
姿勢を正し、王を見つめる。
小さく「お願いします」と言うと、僕の意思を確かめるように王は僕の目を見つめ、やがてふ、と一つ息を吐いた。
「わかりました。貴殿の気分を損なうのは怖い。貴国との外交関係が拗れるのは、我が国にとっては最大の痛手ですからな。貴殿のその言葉、信じましょう。場所は、彼女の部屋でも構いませんかな」
緩く眉を寄せた国王の表情は、子を心配する親のようだった。
「はい。勿論です」
「では、案内させましょう」
そうして呼ばれてきたのは、国王の側近の男。
王が彼に何事かを耳打ちすると、「わかりました」と言って小さく頷いた。
「では、コウ様。こちらへ」
そう言って、男が裾の長い黒の上着を翻す。
国王に向かって一礼し、僕は慌てて側近の男の背中を追った。
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