夜のすき間

フカイ

掌編(読み切り)







 寄る辺ない、夜のすき間に


 去ったひとを想うのは、


 雨の降る、終電車の窓辺


 春先の、ぬかるんだ砂利道


 弱っているこころのあかし





 ひとりで立ってられなくて


 あなたのぬくもりを探すけれど


 そのかすりの袖の


 その襟足のおくれ毛も


 今では遠い記憶


 色あせてゆく思いで




 甘いにおいと、やわらかな声音こわね


 時に厳しく、時にしずかに


 かき抱いて、突き放し


 頬よせて、受けとめる





 ねんねこねんね


 ねんねこねんね


 ゆりかごのうたを


 カナリヤが歌うよ





 耳をすませば今でも


 その声が聞こえる


 背中をとはたく、


 その拍がよみがえる



 かあさま、と


 彼女は言葉にして


 夜のすき間に、気持ちをすべらかす


 夜のすき間に


 言葉にならない胸のわだかまりを


 そっと、はなつ



 言葉は尾ひれを持った魚のように


 暗闇のなかに泳いで消えて


 午前三時の静寂


 柱時計が時をきざみ


 銀の月は今夜の運行をとめない



 母にはもう、過去がない


 母が思い起こせるのは、


 遠い少女時代の、


 りんご畑の思い出と


 満州から引き上げてくる


 貨物船の船底の景色だけ


 娘である彼女のことも忘れて


 失禁と


 猜疑心だけが


 母の生を証明する





 ねんねこねんね


 ねんねこねんね


 ゆりかごのうたを


 カナリヤが歌うよ





 彼女の唇は、


 音をともなわない言葉を吐き出す


 かあさま、と





 寄る辺なき、夜のすき間に






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夜のすき間 フカイ @fukai

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