風情を楽しむ屋上机

水城たんぽぽ

風情を楽しむ屋上机

 そんなところに打ち捨てられた生徒用の机があるのは、実を言うと一年前から知っていた。

 決して立ち入りを禁じられているわけでもないのに生徒の出入りが少ない屋上は、この高校に入学して三カ月もしたころには昼休みの俺の指定席になっていた。


 一応言っておくと別に、クラスの連中と上手くいっていないわけではない。と、思う。話す相手はそれなりにいるし、これは虐めだと思えるような仕打ちにあった事もないし昼飯だってそこそこ仲のいい友達と適当な会話をしながら片付けてある。昼休みに足しげく通うのは腹が膨れてからだ。

 高校の屋上っていうと青春のお約束舞台みたいなもんだけど、何故そんな場所に人の出入りが少ないかと言えば理由はただ一つ。とにかく殺風景なのだ。


 景色がいいわけでもない。

 心地よい風が吹いているわけでもない。

 すぐ南側に大きな高速道路が通っているせいで空気の綺麗さ加減もお察しだ。


 じゃあなんで俺はそこに毎日、一年半も通い続けているのかと言えばそれは「人がいないから」である。友達と話すのも嫌いじゃないけど、読書に丁度いいんだよこの人気のなさ。そんなわけで今日も俺の手には文庫本が一冊あった。昔から書店に並んでたんだけど、ごく最近映画化されたとかで急に話題の一冊扱いになったらしい。

 もう景色の一つになっていた古い机に視線が行ったのは、丁度持っているその本の終盤のシーンを思い出したからだ。


 物語冒頭で出会ったヒロインとの別れを決意した主人公が、廃校舎の校庭にぽつんと置かれた机の天板にカッターナイフで薄く、本当に小さく別れを惜しむ言葉を刻み込んで去っていくというシーン。本の表紙にもなっている場面で、青空の真ん中に寂しく佇む机はとても印象深い。

 ふと思い出してしまうともうあとは脚が勝手に動いた。屋上の隅っこ、給水タンクとかの影に隠れるように放置されたその机は思いのほか風雨の影響を受けていないらしく、近づくと案外綺麗だった。

 あれはお話の世界のものであって、別にこの机にその別れの言葉が刻まれているわけはないのだけれども。それでも手元の文庫本のあのシーンに浸りたくて、すぐ横まで近づいてから机の天板を覗き込むと。


「いや、でけぇよ」


 思わず一人でそう呟くほど大々的に、マリアナ海溝のごとく深々と、情緒など鼻息で吹き飛ばしそうなほどに力強く原作と同じ言葉が刻み込まれていた。本来なら机の隅に小さく残されるだけのメッセージが机の約半分を埋めているのだからそりゃ突っ込みたくもなる。

 定規でも当てて削ったのかと言いたくなるほど几帳面に角ばった文字は原作主人公がまさにそんな筆跡をしていると描写されているので、筆跡の再現度そのものは決して悪くない。


 それにしたってもう少し風情というやつを覚えろと言いたくなる主張の強さだった。ヒロインをこれ以上振り回したくないからと身を引いた控えめな主人公も、これくらい押しが強ければもう少し違う結末になっただろうに。


 ふと思いついたのは完全な気まぐれだった。手元の小説に挟み込んでいる長方形の栞はちょっとお洒落な金属製で、誕生日祝いにと祖父がくれたのはいいがうっかりすると角で指を引っ掻きそうになる。けどこの場に限って言えばおあつらえ向きだった。


『もう少し風情とか慎みを持て、ばーか』


 元々そんな用途に使うものじゃないから薄く掘るのに時間がかかって、その日は結局読書なんてできなかったけど気分のいい昼下がりだった。誰かが気まぐれで来たことがあるとしても、そいつは俺のように毎日屋上まで通うわけじゃないだろう。返事が返ってくることは期待していなかった。

 期待していなかったの、だが。


『この字、なんて読むの!?』


 次の日の昼休みにはもう「返事」が来ていた事に俺は少なからず度肝を抜かれた。俺の突っ込みを真摯に受け止めてくれたのか、文字のサイズは横に書き足した俺とそう大差ない。この字、という部分のすぐ隣から伸びた矢印は真っすぐに「風情」の二文字を指していた。そんなに難しい言葉ではないはずだが。

 普段本とかあまり読まないタイプなんだろうか、なんて考察と同時に、胸の奥で小さく何かが疼くような感覚があった。自然と口元が緩んで、また昨日と同じ栞を手に取った。


『ふぜい。はかない物や質素なものの中にある美しさとか雰囲気の良さを楽しむこと』


 次も返事が来ると考えるなら、今度からは筆箱でも持ち込もうか。昨日ほど時間はかからなかったけど、やっぱり苦労した掘り込みの後でそんなことを考えながら本を開く俺は、次の返事は完全に期待していた。


『すっげー! 頭いいんだな!』

『本読んでたら当たり前に出てくるよ、こんなの。これ書くくらいだし読むんじゃないのか』

『マジか、普段読まないんだよ! 我が生涯唯一の不覚なり! 先週映画で見たんだよ!』

『小難しい事書けるんじゃねーか。さては頭悪いフリだな?』

『マンガで覚えただけだよ! 普段どんな本読んでんの?』

『マンガ派だったかー。もう俺はミステリーからファンタジーまで基本なんでも。そっちはどんなマンガ読むの?』


 最初は一言ずつ、それがちょっとずつ質問や突っ込みの量も増えて行って、一カ月が経つ頃にはお互いの間にちょっとしたルールができていた。

 俺が昼休みに書いて、向こうはそれに放課後返事を書く。相手から返事がなかったり、雨が降っていたりしたらその日は一時中断。その次の日は前日に返事を書けなかった方が書くのを待ってから、またメッセージのやり取りを再会する。

 古びた机は半分が最初に埋められていたこともあって長続きせず、二週間目くらいで机の隅に「引き出しを見て!」と書かれていたのでもしやと覗き込んだらノートが入っていた。花柄に薄い桃色の可愛らしいノートで思わず心臓が変な具合に跳ねた。開いたら並んでいた文字がテーブルの掘り込みと違って可愛らしい丸文字だったことにもう一回跳ねた。


 ともあれ文字数にも書く手間にも制限がなくなった俺たちのやり取りはそこからも滞りなく続き、俺は今まで以上に昼休みが楽しみになりつつあった。

 昼飯を食べ終えたら一秒でも惜しいとばかりに屋上への階段を駆け上がり、メッセージを書き込んで、それからゆったりと読書を楽しむ。日課が新しく一つ増えただけで、驚くほど毎日が楽しくなったのは我ながら単純だなあと思う。

 一カ月以上もそんなやり取りを続けていながら、不思議とお互い「直接会おう」とか「メールアドレス教えて」とか「ラ〇ンやってる?」なんて言葉は出てこなかったのは多分、このやり取りの雰囲気を楽しんでいたからなんだと思う。

 最初に突っ込んだのと同じ「風情」ってやつだ。多分。まあ、風情と呼ぶには向こうの返事はいつも元気過ぎたが。結構な回数のやり取りを経て、相手の言葉に「!」が一回もつかなかった日は無かった。


 だから。


『なあ。今日の放課後、来れない?』


 その言葉を見た時俺の胸の内に浮かんだのは、ときめきでも戸惑いでもなく、ちょっとした怒りだった。

 なあおい、なんでそんなこと言うんだよ。

 俺たちこの風情を楽しんでるんじゃないのかよ。

 はっきり言葉にはしてないけど、お互い絶対言わない不文律ってやつじゃなかったのか。

 ちょっと普通じゃないこのやり取りを楽しんでたのって俺だけなのかよ。

 つーか「!」はどうした。文字だけでも伝わるくらい今まで元気全開だったのに、らしくねーよ。


 少しだけ無言でただその一行を睨みつけてから、俺は静かに、ノートの隅っこをわざわざ選んで、薄く、本当に小さく、あの文庫本の主人公のように返事を書いた。

 そしてその日の放課後は誰よりも早く教室を出て、誰よりも早く家に帰った。


 次の日の昼休みは、友達の誘いを断った。昼飯はもう簡単なもの食っちまったって嘘をついて、いつもより三十分早く屋上に出た。屋上隅っこの机を覗き込むと、そこにノートは無かった。

 胸の内にちょっと穴の開いたような感覚は思っていた以上に居心地が悪く、それを振り切るために俺は持ち込んだ手提げ袋から文庫本を取り出して、


 ばあん、と凄まじい音がして屋上の扉が開いた。

 蝶番が外れるんじゃないかって心配になるような勢いと轟音で思わず本から顔を上げると、そこには背の低い女の子が恨みがましい目をして俺を睨む姿があった。学年ごとに色の違う胸元のリボンを見ると、どうやら一つ下の学年らしい。多分怒りを込めて睨んでいるんだろうけど、童顔とふわふわカールした髪のせいで全然怖くない。

 右手にはさんざん見慣れて、見当たらないと逆に居心地が悪くなるほど目に馴染んだ桃色のノートが握られている。それだけでそいつが誰なのかは十分すぎるくらいわかった。


 ふわふわカールの後輩女子は小さな体で精一杯に足音荒く俺の前までやってくると、手に持ったノートをこちらへ差し出した。開かれたのは昨日俺が返事を書いたページだ。

 小さく、薄く、隅っこに「お前が来い」とだけ。どこかの主人公のような控えめな別れ文句とはまるで違う言葉を俺は書き込んでいた。それを見せつけてからその女子は口を開く。


「……どうも。ハジメマシテ」


 ロボットかよ、と言いたくなるほどの棒読みだった。


「放課後に返事か、本人の姿どっちがあるだろうってちょっとドキドキしながら来て、相手がいなくて、ノート開いても文字薄いわ小さいわ隅っこだわで全然気づかなくて、こりゃ踏み込み過ぎたかって濡らしたあたしの枕と涙を返してください」

「風情のない事言うからだ、ばーか」

「こんな気付きにくい書き方する奴だって風情なんかないですよ、ばーか! っていうか人の事遠慮なしに馬鹿呼ばわりとか――」


 きーきーと大声を出すその女子を遮るようにして、俺はその鼻先に手提げ袋を突きつけた。俺がそんな反応をするとは想定していなかったんだろう。彼女は「へぁ?」と間の抜けた声を最後に口を閉じて、目の前の袋を不思議そうに見つめた。中には文庫本が数冊。中古品なのはまあ、経済的な都合だ。


「今までにノートと机でやり取りして、読んでるマンガとかの傾向からこういうのなら好きじゃねーかなっていうの集めてみた。別に俺は風情なんかなくていいから、まあとりあえず受け取ってくれ」


 別に文字を読むのが嫌いなタイプじゃないことは分かっていたので、好みさえ押さえれば好きな本の話でもっとお喋りできるかななんて思って昨日必死に買い集めたのだ。受け取ってもらえなきゃ困る。というより、こういうものも無しに直接会って話が途切れたり気まずくなったら俺が嫌だった。

 顔を真っ赤にしながらおずおずと受け取ったそいつは小さな声で。


「ええと、改めてその、お名前とか伺ってもいいですか……?」


 しおらしい口調と上目遣いに、なるほどこっちが素かと理解した。この子なりに精一杯の「余所行きモード」があのハイテンションなんだろう。

 そうしてぎこちない自己紹介を済ませたその日から、屋上の常連が一人増えた。

 毎日菓子パンを食ってから屋上に来る俺を見て彼女が弁当を作るようになったり、もうちょっと距離が近くなったりもするんだけど、それはまた、もっと先のお話。

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