虫食い

玉山 遼

虫が巣食うように、彼は心に入り込もうとした

「きみは悪いことを悪いことだと思わせないのが上手いね」

 感嘆のような、溜息のような、そんな声がつい出た。

「どういうこと」

「きみといると、悪いことが悪くないことのように思えてくる、ってこと」

 分かったような、分かっていないような、そんな顔が目に浮かぶ。

「じゃあ、切るね。さっきの話は、また今度しよう」

 通話を終えて、スマートフォンの画面を見つめる。話していた間にメッセージが数件来ているようだ。仕事が終わった、と報告するそれは、恋人からのものだった。

 きっと彼は、疑いもしていないのだろう。じくりと心が疼いたが、痛みはすぐに癒え、メッセージを返そうと指は軽やかに動いた。

 他愛もないやりとりを数回し、本を読もうとスマートフォンを置く。

 その本の中では、夫婦がお互いに浮気をしていた。浮気をしているのに、悪いことのように見えなかった。浮気だから、秘されてはいるが、どこか伸びやかだった。

 彼女たちも、悪いことを悪いことと思っていないのだろうか。一緒にいると、悪いことが悪くないことのように思えてくるのだろうか。

 甘くささやかな嘘。どろりとした質感のはずなのに、軽い砂糖菓子のようにほどけて消える。

 そんなことを巡らせ、本を閉じた。現実はそう甘やかなものではないと、分かっている。


 ユズルと出会ったのは、大学生の頃だった。一瞬付き合ってすぐに振られたが、それからもなぜか関係が続いている。

 一番初めは、彼が付き合っていた女性と別れる前のことだった。そのとき、誰とも付き合っていなかった上、好きな人もいなかった私に、誘いをかけたのだ。

「彼女、いるんでしょ」

「すぐ別れる」

「じゃあ私と一緒になるの」

 ホテルの前でそんな会話をした。それは、と言い淀んだ彼に、分かってる。と私は言った。

 そのときしたことは、悪いことだった。それからも数回、ユズルと身体を重ねた。そして私に恋人ができた途端に、彼は別れたのだ。

 お互いに恋人がいなければ、身体だけの関係を続けてもいい。しかし一方に恋人がいる状況でするセックスは、浮気だ。結婚していない限り罪には問われないが、一般倫理に反する。

「恋人が出来たから」

「そうだったのか。おめでとう」

 その言葉で、この関係は終わるのだろうと安堵し、どこか残念でもあった。 

 しかしユズルはそれからも何度か誘いをかけてきた。

 私は断り続けていた。ユズルとは身体の相性もよかったが、何より恋人を悲しませたくなかった。裏切りは信頼に対する最低の行為だ。

 あるとき、彼がこう言った。

「好きにならなければ、浮気じゃないと俺は思う」

 それが、いやにしっくりときた。酒が入っていたせいもあるだろうが、ただの詭弁だと掃き捨ててしまうには、心が動かされ過ぎていた。

 その晩、宙を歩くような足取りでホテルに向かった。久しぶりに彼とするセックスは、解放感に満ち溢れていた。酷いことをした、という自責の念は翌朝になっても浮かばなかったことを覚えている。

 お互いに社会人になっても、そんな奇妙な縁は続いていた。稀に会って、酒を飲んで、身体を重ねる。ユズルに恋人は出来ていない。男社会で生きているため、出会いがないそうだ。良い子いたら紹介して。会う度に口にするくせに、身体を求めてくる。矛盾しているのかしていないのか、私にはよく分からない。

 ユズルはいわゆる好青年めいた顔立ちをしている。運動をしていたこともあってか、爽やかな雰囲気を醸し出す。それから肝も座っている。だからか、悪いことをしているはずなのにそう思わせない。

 そういうことを、先程通話の終わりに言ったのだが、ユズルはどうやら理解していなかったようだ。

 私はこの関係を、今の今まで恋人に覚られずにいる。悪運が強いのもさることながら、悪いことをしていないような心持ちでいるせいだろう。

 だが、この関係も終焉を迎えようとしている。

 視界の端に、びろうど張りの小さな箱が映る。その中には、私の左薬指にぴったり嵌まる、美しい指輪が座っているのだ。

 そのことをユズルに伝えて、もうおしまいにしようと言いたかった。このことが知られたら破談だ。それは嫌だった。私は婚約者を愛しているし、幸せな家庭を築きたいと願っている。それに、先程読んだ本のように、関係を続けて上手く事が運ぶはずはない。

 だというのに、ユズルはやはり悪いことを悪いことと思わせないのが上手かった。声だけのやり取りでは到底打ち負かせる相手ではなかった。むしろこちらが呑み込まれてしまう。

 直接会ったら、余計に呑まれてしまうだろうか。ユズルという濁流は、総てをまるく収めるように見せかける。


「この間の話だけど」

 滅多に行かない繁華街の喫茶店。周りは皆、それぞれの話に興じている。ここなら知り合いに会うことはないだろう。

「もう私、結婚するから」

 左手の薬指には、婚約指輪を嵌めてきた。心が揺らがないように、御守りのように。

「うん、それは分かってる」

 ユズルは泰然としている。こちらの話に、ゆっくりと頷いた。

「ユイがもう、そういう関係を望んでいないのは分かってる」

 自らに言い含めるよう、彼は小さく繰り返す。

「この間はユイを引き止めるみたいに、あんなことを言ったけど、もう言わない。ユイの不幸を望んでいるわけではないから」

「最後だからって殊勝なこと言ってるの」

「……そうかもね」

 誤魔化すように笑う。だが誤魔化しているのではないと、私にはそう見えた。

「だから最後にお願いがあるんだけど」

「なに。もうセックスはしないよ」

「分かってる、分かってるって。そうじゃなくて」

 彼は財布を開き、私に一万円札を渡した。

「なに、これ。今までのお詫びとかじゃないよね」

 今度は、普通の笑みを浮かべた。からかっているみたいな。

「違うよ。これでピアス、あけてほしいんだ。あいていないよね、確か」

「あいていないけど、どうして」

 んー、とユズルは唸る。言っていいのか悪いのか、逡巡している。

「まあ、マーキングみたいなもの」

「……きみって、そんな感じの人だったっけ」

「実はそうだよ。傷ついてほしかった」

 傷ついてほしかった。私は呆けたように繰り返す。何に傷ついてほしかったのだろう。傷つく理由が見つからない。

「俺が振っても、ユイは傷ついたようには見えなかった。俺と浮気をしても、罪悪感のある顔をしなかった。彼に悪いことをしたって、おくびにも出さなかった」

「そうかな」

「うん、そうだよ。だから余計傷つけたくなった」

 まっさらな雪原に足跡を残したくなる感覚と似ている。彼の感覚は、そういった好奇心に似た残酷さを孕んでいた。傷つけることで、心のどこかを巣食い、そこに住まう。そういうことを、彼はしてみたかったのだ。

 忘れられたくなかったのかもしれない。行きずりの関係のような寂しさを、彼は毎回覚えていたのかもしれない。真偽のほどは定かではないが、そういうふうに見えた。

「私のことが好きってわけじゃないんだよね」

「うん、ユイは友だちだな」

 偽りのない、さっぱりとした顔でそう言った。それが聞けて、安心する。もし好意を抱かれていたら、流されてしまうかもしれない。

「じゃあ、あけてあげる」

 きみのために、傷ついてあげる。

 ふざけるように言う。すると彼はどこか泣きそうな表情を見せた。

「ありがとう。――ありがとう」

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虫食い 玉山 遼 @ryo_tamayama

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