何者

 「僕がこうやって、戦うのは、、。僕らを嗤うこの世界に、ざまあみろって嗤ってやるためだよ。」

 そう言って、律は笑った。

 それはとても、勝った、と言える状況とは思えなかった。もはや膝にさえ力が入らず、主人公は血の海にうつ伏せで浮かんでいた。天使はそれでもなお、弱り切った標的にとどめを刺そうと、もがいていた。しかし、今や全身に皹が入ったニクスは、自分がこんなに小さな少年に負けたことを確信していた。

 「いいや、まだ負けたわけではないぞ。私は君のように、ためらうような真似はしない、必ず君を処理するのだ。だがその前に、一言、楽しかったよ。」

そう言って、ニクスは窓から飛び立った。とはいかないらしく、今にも崩れ去りそうなガラスの体を手で押さえるように、ゆっくりと窓辺に歩いていく。そして、翼を開き、窓をすり抜ける様に羽ばたいていった。


 バタンっと、保健室のドアが力任せに開けられた。

 「まあ、何よこれ! 律くん、無事なの? どうして、どうしてこんなことに。何があったの。」

などと、石井先生のほぼ悲鳴に近い声に、うつ伏せの律は保健室の惨状を想像した。部屋には律の血が散っていて、棚や先生のデスクはぐちゃぐちゃだろう。強盗殺人でも起きたかという律の想像は、ほぼ一致している。

 扉に他の気配を感じることから、先生の悲鳴に集まってきた野次馬だろう。信じられないと言葉を失う者もいれば、ざわざわと騒ぎ立てる奴もいるらしい。

 律は、この後の展開を想像する。石井先生は今、警察に連絡を入れているところで、ゆっくりと部屋の奥に歩いてきている。すぐに、血だらけになって倒れた律を、発見することになるだろう。

 「うーん、まずいなあ、これ。先生これ見て、どう思うだろう。」

少なくとも、ショックを受けないはずはない。もしかしたら、その場に気絶してしまうかもだし、後日、私のせいで、、。などとなるのは困る。

 律はしばし考えたが、こんな状況で脳が働くことはなかった。血生臭いのもあるが、自分でも驚くほど頭が疲れている。集中できず、朦朧としている。


 「り、律くん、あなたどうして? な、ななにが、あったの?」

そこで先生が見た物は、歯を食いしばりながら、血だらけで胡坐をかいた少年だった。それが律なりの、先生のことを考えたベストだったが、後で考えるとそれはそれで、異様な光景だったろう。

 先生の顔が、様々な感情にみるみる飲まれていく様を見たところで、律の目は天井を映していた。

 「律くん、、律くん、、。誰か早く、早く救急車を!」

「律、あなたは頑張った。彼相手に今も生き残っている。これは奇跡なのよ、だから、、。」

最後に、リリの声が遠くから聞こえた気がした。


そこから先の記憶が、律にはない。

なので、律が眠っている間、救急車に運ばれた後の話をしよう。


 周りの視線が、いつにも増して気になる。いやそうじゃない、周りの視線が俺を変に気にかけていて、それが嫌でも伝わってくる。

 要は、心配してくれているのだ。

 「大丈夫ですか、狩野先生。無理はなさらないでください。」

などと生徒に、廊下ですれ違いざまに言われた。しかもそれが、一つや二つの話ではなく、ほぼの生徒に、更には先生達にまで言われる始末だ。

 「はいはい、大丈夫です。ちょっと、風邪気味になりまして、、。」

このように、疲れた笑顔で応える狩野だった。

 内心少し、喜んでしまっている自分がいた。実は自分は、こんなに皆に愛されていたのだと、感銘さえ覚えてしまった。でもそれは、皆にとって、信頼できるベテラン教師として見えているから、と思うと、複雑な思いにならざるを得ない。ましてや、皆には年単位のエピソードがあっての信頼からの心配であり、体感一週間あったかどうかの狩野には到底理解できない絆があるのだ。

 

 そしてもう一つ、皆が狩野を心配するということは、彼に負けてしまったことの裏付けであった。狩野は今まで、いつも冷静な頼れる先生という設定だった。それが他人に疲れと敗北感という弱みを見せていることに、彼らは心配しているのだ。

 「いいや、まだ俺は負けていない。まだ、この身が朽ちるまで、、。」

そんな口とは裏腹に、本人は歩くことが精一杯な様子で、なんとか職員室の自席にたどり着いた。そこで足はまさに棒となったように重くなって、バランスを崩した勢いで椅子に座り込む。

 ギギッと、古びた丸椅子が唸った。そういえば、彼の設定上からこいつは、サビて毎度苦しそうに呻いた。けれどもこいつに、俺は少し憧れてしまっていた。此奴のサビは、此奴の生きた証であって、俺のと違い生きているのだ。

 道端に生えた雑草も、石に生えた苔も、人が抱える心の傷さえも、、。

 「あいつの眼は、生きていたんだ。神導の眼には、生きた証があった、いいや溢れていた。あんなに強い眼をする、彼の人生ってまったく、、。」

苦笑を漏らしたところで、やっと後ろの気配に気づいた。

 「俺も、老いたか?」


 「すいません、狩野先生。生徒に呼ばれてますよ。どうやら、宿題を終わらせるとか何とかで、、。」

教師狩野は、その場でいつもの笑顔を作った。

「ああ、あの件ですか。分かりました、すぐに行きましょう。」

席を立った瞬間に、今度は自分の体が唸った。立ち眩みと疲労が同時に襲い、たまらず彼はふらついた。

「だ、大丈夫ですか。」

自分よりも若い、生き生きとした女性教師だった。

咄嗟に出された手を払ってしまい、屈みこむような体勢で耐えた。

「大丈夫だよ、ちょっと疲れているんだ。ほら、ちょっと無理が祟ったってだけで、、。」

そう言って、それでもなお、伸ばされる手を制した。相手にこれ以上気を使わせまいと、振り向いて作った笑顔は疲れに歪んでいただろう。そのまま行こうとした彼だったが、不意にまた振り向いて言った。

 「心配してくれて、ありがとう。そんな君だからこそ、大切にしてほしい。君らは今も、生きている。こうして話している間も、いつも生きている。それは、積み重ねられた『生きる』の上にあって、今も君はその『生きる』を積み重ねる途中だと言えるんだ。だから、生きた証を、大切にするんだ。癖も、傷も、思い出も、全部君が飽きた証であって、今の君をつくっている。それらを大切にして、その上で乗り越えるんだ。」

 彼女は、急な長文に戸惑いを隠せない様子だった。それはむしろ好都合で、彼女が立ち尽くすうちにと、廊下を歩いて行った。

 廊下を歩きながら狩野は思った、これでは俺の遺言ではないか、と。そして彼の長年の勘が、そうさせたのだと。


「やあ、少しばかり遅くなったよ。」

さっきまでの疲労が嘘のように、平然と狩野は歩いてきた。

 そこは、職員室の前に横に伸びた廊下を歩いた先にある、同じ棟の階段の前だった。そして彼は、その階段の踊り場寄りのある段に、力無く立っていた。踊り場の壁にはめられた窓から、夕日が入り込んでいた。彼の背中で拡散されて、少し神々しくもあった。

 「で、何の用だい、日影くん。」

狩野は、わざとゆっくりとその名を呼んだ。彼の口角も、微かに上がって見えた。

 口角は動いたものの、その後彼は固まってしまった。まるでマネキンのように、絵画の一部にでもなったかのように。奇妙神妙なその沈黙に、狩野が困惑を隠しきれなくなった時だった。

 「何の用ですって? 俺は伝言してもらったはずだ、聞いたでしょう。俺の宿題を、終わらせるためです。」

気付けば彼の口角は下がり、夕日で影がかかった顔の、口だけが黙々と動いている。まるで画像を合成しているように、口だけが動く様子は、異様の一文字であった。

 しかしこちらも、伊達にここまでやってきたわけではない。あくまで落ち着いた様子で、大袈裟に優しい声で訊き返す。

 「で、その宿題にんむとは何だい、日影くん。」

そう言いながら、狩野はもう判っていた。だからその後、彼の口からそう言われても、さして驚くことなどなかった。

 「それはもう、お判りでしょうに。先生の、抹消じゃないですか。」

そう言い放った彼の、顔はやはり口以外動いていない。もはやクールなど通り越し、死人を蘇らせたみたいに生気がない。だからその一声には、狩野もたじろいてしまうほどの、悪寒を感じられた。

 「それは、俺の正体を知ってのことだな。だとして、君は何者なんだ? なぜ、正体が判る? 何の目的で、俺を狙う?」

 変わらず彼は、薄気味悪い笑みを浮かべながら、探るような眼でこちらを眺めている。その眼にも生気はない、まさに死人の眼で、要は、

 「俺みたいな眼をしてるな。」


 「質問が多い、あまり時間もないんでね。どうせ答えても、あんたが死ぬと、世界にはその痕跡ごと消えてしまうんだろう。」

何であろう、この絶対的な自信は。お前の寿命はお前次第だと、言わんばかりである。仮にも相手が人知を超えた存在に属されることを、彼は果たして理解しているのだろうか。

「まあ、良いよ。先生には、偽物の思い出ってやつがあるしね、その恩返しってことで。俺が何者かってことだが、、。」

そう言って、彼は黙ってしまった。からかっているのかと思いきや、彼は真剣な表情をしている。その時やっと、彼を見れたような気がした同時に、その淋しい陰のかかった表情に、心の奥で何かが引っかかる。

 彼はゆっくり口を開くが、また感情のない無表情に戻っていた。

「俺は、、俺は、俺だ。しかし彼らもお前らも、俺のことをこう呼ぶから、俺もそう名乗ってきたんだ。そうだ、俺は『ゴースト』だ。自分の体を探し求める、孤独な亡霊だよ。」

「『ゴースト』、そうか、亡霊か、、。」

確かに、彼の姿も雰囲気も死人を蘇らせたよう、言い換えれば亡霊である。しかしながら、それに自身が気付いているにせよ、自らを亡霊と名乗るのは、とても寂しいことではないだろうか。

「それでその亡霊が、俺を何故殺そうとする? ここらを探したところで、お前の体なんて見つかりそうもない、、。」


 ピクリっと、顔が少し引きっつって見えた。どうやら、俺の言葉に反応したらしい。

「それは、お前に関係などない話だ。嘘の中でを平気で生きられる者に、俺の何が解るか。お前はもう消える身、俺はあいつの様に、相手に気を遣う真似はしない。」

あいつ、という第三者の登場に、少し話が見えてきた気がする。そうか、彼は俺に対して、手加減していたのかもしれない。すくなくとも、そこに殺気は無かった。

「そう、言い忘れていましたね。俺の目的は、彼だよあの少年だ。『神器』を守れ、彼を消されてはならない。それが、俺の任務、少年をいかなるものからも守り抜く。」

 任務、、組織、、。そうか、少年はもう、裏で有名らしい。確かに、天界が目をつけるならば、遅かれど人間達も、目をつけるに決まっている。

 「可哀そうに、彼は既に、大きな物語に巻き込まれてしまった。つまり、悲劇の主人公ってとこか、いや喜劇か。」

「これでもう良いかい? 早く済ませろと、上司に念押しされていてね。俺は何だかんだ、相手を待ちすぎる癖があるようでね。」

そう言って、彼は階段を下り始めた。一段一段、浮いているように滑らかに。

「最後に、リリには手を出すな、あいつはもう我ら天使ではない。背徳者にして、裏切り者だよ。じきに天界自ら、裁きを下しに来るだろう。あいつはもう、人を傷つけることはないから。」

「そうかい、天使にだって、情はあるのかい。良いよ、別に。俺の任務は守ること、彼の邪魔になる、お前を殺すことだ。」

 

 それが、2人の合図になった。

 日影改めゴーストは、階段を踏み込んで狩野に向かって飛んだ。しかし、それはむしろ好都合であった。空中に浮いた標的のほうが、的としては狙いやすい。まるで天使の戦い方を知らない、あの自信が嘘のようだ。

 瞬時に狩野は光を纏い、天使の姿になると、背後に今までの倍近い光を集めていく。全身の皹が、それと反比例して徐々に伸びていく。

 「これが、俺の全力だ。一発で、お前を消す。」

その一言が終わるかどうかの瞬間で、閃光が校舎全体を包んでいった。それはまさに、ニクスの集大成であり、視界が見えるようになったのは、それから少し経ってからだった。

「これで、亡霊さんも成仏だな。」

ニクスは力が抜けて、階段の壁に倒れこむ。

 一応にと天井を見上げるが、そこに血だらけの少年はいない。そうだ、出来るだけ一点に集中させたとは言え、半径10mは一たまりもないだろう。

ニクスは狩野の姿に戻ろうと、ガラスのような全身に色を戻していた。


 「はい、フラグたてましたね。そんなことで成仏できたら、俺はここにはいませんよ。そう、俺は亡霊ゴースト、当たれませんから。」

その声は、どう考えても彼の声で、しかも壁に倒れ掛かった自分の、真ん前から聞こえてきたのだ。

 ニクスは、もう動くことができなかった。体が皹だらけなこともあったが、金縛りにあったように、微動もなかった。その正体は、きっと恐怖ではないか、そうか、自分は今恐怖しているのだ。自分では理解できない、理解を超えた存在との遭遇に。きっと、俺があってきた奴らも皆、こんな感覚だったのだろう。

 そして今、彼は手に拳銃のようなものを握り、俺の前に立っている。何が起こったのかは分からないが、現実であろう。

 彼の眼は、変わらず感情がない。

 「まるでそう、俺と似た眼だ。」

生きていないような眼、生きているのに生を見いだせていない者の目。まさに亡霊、あかしを探す亡霊ゴースト、、。

「まさか、お前は、、。」

お前は、いいやあり得ない。でも、もしかしたら。亡霊という姿だから、見つからなかっただけで。本人さえ、気付いていないだけで、お前はオ、、。

「俺は、亡霊ゴーストだ。」

そうして、静かに弾丸が、ニクスの右胸を撃ち抜いた。完全に力が抜けた体は、壁に沿ってゆっくりと床に崩れた。

 「消えてしまうって、淋しいな。」

そう言い残して、彼の体は空に溶けて消えた。


 その姿を、見届けた彼は、変わらず死んだ眼をしていた。けれどもその眼に、一筋の星が流れていったことを、本人でさえ気づいていなかった。

 「任務は無事完了、一度戻るとしますか。」

 存在ログ消滅アウト、と彼は呟いた。

その後彼の体も、何故か空に溶けていったため、そこには何も残らなかった。

 

 女性教師は、ルールにはうるさいほうであった。だからいつもは、模範である教師が走っては元も子もないだろうと、廊下を走ったことはない。しかし、そんな彼女が走っている。職員室を飛び出した彼女は、横に伸びる廊下を走り、同じ棟の階段前まで来た。

 何か、忘れ物をしたような、漠然と、行かなければならない気がした。何か、大切なものを置いてきてしまったような、そんな感覚が彼女を走らせていた。そうして彼女は、階段の前までたどり着いたわけだが、その足は、そこで止まって動かなくなった。

 「あれ、私、何をしているんだろう。確か、田中くんに、佐藤先生を呼んでほしいといわれて、、。」

ダメだ、そこから先が思い出せない、、。何でここにいるのかも、思い出せない。記憶力には自信があったのだが、ちょっと怪しくなっているのだろうか。

 と、こんな風にでも、考えたのだろう。彼女はその場で、頭を軽くたたきながら思い出そうとしたが、何一つ思い出せなかったようだ。

 「まあ、戻りましょうか。」

そう言って、廊下をゆっくり戻っていく。そんな彼女は、何故か無意識にか、自分の右手を摩っていた。


 

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 終末観ミソロジー _悲劇的喜劇の幕_ 庭花爾 華々 @aoiramuniku

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