【7-3】

「流石に大きいな」

「大きいね~」

 これまで訪れて来た場所は、一般住宅で自宅の一部を改造して本人、または家族と一緒に、少数の犬を繁殖・育成していたが、今回訪れた横川犬舎は手広くやってという話通り、専用の犬舎を用意していた。


 事務所の前の駐車スペースに軽自動車を停め、入り口横のインターホンの呼び出しボタンを押す。

「すいません。予約を入れていた富井です」

「ゆかりです!」

 小さいながらもしっかり自己主張を忘れない縁。


「お待たせしました。横川です。本日はよろしくお願いいたします」

 小太りのアラフィフ男性がにこやかに名乗り、頭を下げた。

 今まで会ってきたブリーダー達に比べて、しっかりとした挨拶。そんなマナーからも商売っ気を感じた富井は気を引き締めた。

「冨井です。こちらこそよろしくお願いします」

「おねがいします!」


「小さいのにしっかりとしたお子さんですね」

「いえ、姪なんです」

 富井としても、相手が縁を自分の娘だと思うなら、そのまま流してしまいたいが、縁が自分の事を「ヒロちゃん」と呼ぶと相手が微妙な表情を浮かべてしまうので訂正することにしている。


「え~と、犬をお求めなのは、ゆかりちゃんのご両親なのでしょうか?」

 スーパーで買い物するのとは訳が違うので、そこははっきりとさせる必要があるのでブリーダーとして当然尋ねてくる。

「私です」

「そうですか。それなら問題はありません」


「電話でもお尋ねしましたが、ご希望は活発な中型犬で、子供様にも慣れ易い犬種という事でしたが、お間違いありませんか?」

 事務所を通り抜けて犬舎へと向かいなら訪ねて来た。

「はい」

「ゆかりとかけっこするの!」

 そう宣言する。縁に微笑みながら「もしかして同居されていますか?」と聞いて来た。


「そうです」

「それならばご両親やご兄弟と一緒の大きな一軒家にお住まいですか?」

「そこそこの広さの一軒家ですが、現在はこの子と二人暮らしです」

「それは……一体?」

 戸惑いながら訪ねる横川に富井は事情を説明する。

「そのような事情が……分かりました。精一杯、ご期待に添える様に頑張らせて頂きます」



 犬舎には繁殖用の親犬を除いても百頭を超える犬が飼育されているので、流石に犬達の鳴き声が響いているが、糞尿などの匂いはほとんどしない。

『これは、衛生面にもしっかり配慮した飼育環境を整えている。信頼出来そうだ』と胸の裡で呟く。

『当たり前だろ。その辺はしっかり調べてるよ……俺じゃないけど』

 浩太郎は相変わらずである。



 結果は……吠えまくられた。

 やはり富井は霊感の無い犬には存在すら感知されない普通の幽霊以上に異質な存在なのだった。


「何か特別な香料を使っているとかいう事はありませんか?」

「特に何も使てませんよ。市販の石鹸やシャンプーとリンス。それから洗剤と柔軟剤。柔軟剤は臭いの強いタイプじゃなく、普通の物を使ってます」

「それでは何か特別な病気などには?」

「知る限り掛かっていません」

 勿論、富井がかかる病気など存在しないのだが。

「そうですか……ですが、ここまで犬達に吠えられるとなると……」

 残念そうに切り出す横川に、富井もこの続きを察し始めた時。


「この子ってどうしたの?」

 立ち並んだ幾つものケージの中で端に置かれた保育器の中で、一頭だけ力なく床にうずくまる様にしている。

「ああ、この子ですか──」

 一瞬、縁を見て少し困った表情を浮かべながら話し始めた。

 母犬が、この子を出産した直後に、死亡して他の兄弟達も産まれ出ることなく死亡してしまう。

 現在、スタッフの手で育てているものの無気力な状態が続いて成長も遅れ気味との事だった。


 事情を冨井から噛み砕いて説明された縁は俯いて肩を震わせる。そして顔を上げると「ゆかりこの子と友達になる!」と宣言した。

「ああ……」

 こうなる事と分かっていた富井と横川は溜息を漏らす。二人とも富井が吠えられて残念な結果に終わる事を予測していたのだ。

「冨井さん……」

「……はい」

 横川の言外の「さっさと吠えられてきなさいよ」に対して「やっぱり吠えられないと縁は納得しないよね」と目で語り返した。


 冨井だって好き好んで犬に吠えられている訳ではない。当然、可愛い子犬達が自分に向かって必死に吠える姿には自分の存在を全否定されている様で傷付くのだ。

 重い足取りで保育器に向かい、腰を屈めて中を覗き込む。

 犬にそれほど詳しくない富井でもビーグル犬または、その雑種だろうと察する。

 諦めの表情を浮かべ『さあ、好きなだけ吠え掛かりなさい』と受け入れる覚悟は出来ていた。


 しかし子犬は吠え掛からない。力なく床の上に顎を這わせた状態から、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。

 ……来るか? そう富井は身構えるが、犬はまん丸の瞳を彼に向けたまま、ゆっくりと顎を床から持ち上げ、脚をプルプルと震わせながら立ち上がった。

 来るなら来い! そんな冨井の思いとは裏腹に、子犬は一回だけ「ワン!」と吠えた……尻尾を振りながら。


「えええええっ!?」

 富井と横川は声を上げて驚く。

「この子、ヒロちゃん嫌いじゃないみたいだよ! やったー! この子にしよう。ヒロちゃんこの子と友達になるの!」

 縁は興奮して叫んだ。



 縁はすぐに子犬を連れて家に帰るものだと思っていたようだが、流石にまだ生後一か月程度の子犬。特に母犬からの初乳を貰えず抗体移行が不完全で、更に生育状況も芳しくないと様々な問題のある犬を富井に渡す事はブリーダーとして認める事は出来ない。

 結果、生後三か月ほど犬舎で育てる間、混合ワクチン接種。待てやお座り、トイレや吠え癖対策などの躾を済ませてからの引き渡しという事になった。




「ヒロちゃん起きて! 早く起きて! リアちゃんを迎えに行こう!」

 子犬を引き取る当日。まだ六時前だというのに興奮して眠れなかったのだろう縁によって富井は叩き起こされた。

「ゆかりぃ~、まだ早いよ。もう少し眠らせて」

 そもそも眠る必要もない身体ではあるが、その辺はちゃんと演技をし、縁には気づかれない様に細心の注意を払っている。


「だって、リアちゃん待ってるよ。縁とヒロちゃんに会いたくて待ってるんだから!」

 ちなみにリアと言うのは縁が子犬に付けた名前で、子犬の犬種であるビーグル・ハーリアの後の二文字から命名した。

 富井は姪っ子の命名センスに疑問を感じたが、そもそも自分も大して変わらないセンスなので「良い名前だね」とだけ答えた。

 ビーグル・ハーリアは、ビーグルとハーリアの交配種でフランス原産の犬である。ちなみにビーグルとハーリアはともにイギリス原産。

 ビーグルとハーリアの良い点を引き継いだ犬種だが日本では珍しい犬種であり、かなり値段が高かった。

 飼育環境に必要な物の購入費、各種保険・予防接種などを合わせると、今や広告収入や原稿料で同年代のサラリーマンの給料を大幅に超える富井の月収をも上回ってしまった。


「待ってるだろうけど、三日前にも会いに言ったよね?」

 既にリアに夢中になっている縁のおねだりで、この一か月半は週に一、二回のペースで埼玉県の横川犬舎に通っているのだった。

「それとこれとは話が別なの! 今日は特別な日なの」

 四歳半になる縁に、口が達者になったな~とその成長に感じ入ってしまう富井。


「でもあんまり早く行くと横川さんの迷惑になるよ」

 犬舎の仕事は朝が忙しいので嘘は言っていない。

「…………」

 他人に配慮出来る良い子の縁は、迷惑と言われるとそれ以上我儘は言えなかった。


「先ずは、顔を洗って歯を磨いて、それから朝ごはんにしようね」

「……うん」

 縁の願いはどんなことでも叶えて上げたい富井だが、それと躾や教育は別問題だった。



 それでも縁は早くリアに会いたい様で、いつもよりも速いペースで朝食を平らげてしまう。

 気持ちは分かるので、そこまでうるさく注意する気はなかったが、これが義姉ならばきちんと釘を刺したであろうが男の富井には無理だった。


 縁のペースにせかされたように冨井も早めに食事を終えると、訴えかける様な視線に晒されながら食器を洗う。

「ちゃんとココアも飲みなさいよ」

 実際はココアじゃなく強い子の味方ココア風の麦芽飲料だが、【縁ちゃんQ&A】に従って可能な限り毎朝飲ませている。

「う~、こんなの飲んでる場合じゃないのにぃ」

 毎朝美味しいと飲んでいる癖に、こんなの扱いするほどリアに会いたい様だ。



「おっきいので行くの?」

 軽自動車ではなくキャンピングカーに乗り込んだ冨井に縁が尋ねる。

「取材旅行に行く時も一緒に連れて行く予定だから、こっちの車にも慣れて欲しいからね」

「そうか、大きい車か……今日は泊まるの?」

「泊まらないよ」

 そう答えるとがっかりする縁に本当に車中泊が好きなんだなと思うのだった。


 車を降りるなりダッシュで事務所のドアに走り出すのは縁。

 後ろで呼び止める富井の声も聞こえない様で、インターホンで呼び出しをする事もせず、いきなりドアを開けて中に入る。

「こらっ!」と叱る声が空しく響く。


「リアちゃん!」

 横川犬舎の事務所の来客者用の席に、キャリーケースに入ったリアを見つけた縁は、矢のように一直線に駆け寄ってを扉を開けた。

「ワン!」

 リアはキャリーケースを出ると一声吠えて、尻尾を振って縁を見つめる。

 それから何かを探すように辺りを見回すと、遅れてやって来た富井を見つけて、もう一度「ワン!」と鳴いた。


「全くもう……」

 フリーダムな縁に溜息を漏らしていると、奥の所長室から横川が出て来た。

「冨井さん。お待ちしていましたよ」

「すいません。姪が不作法で申し訳ありません」

 リア以外周囲が全く見えず、リアを抱き上げて頬擦りしている縁に苦笑いを浮かべる。


「良いんですよ。それだけあの子の事を好きになってくれてるんですから」

「本当に、あの子に、リアに出会えたことを感謝します」

「冨井さんは結局、ずっとリア以外には吠えられてましたからね」

 横川はそう言ってくすくすと笑う。

「きっとリアに出会えたことは運命だったんでしょう。リアは縁にはなくてはならない親友で家族になってくれるでしょう」

「そうですね。私は犬達が主の元へと巣立つ時、いつもそう願っています。だから貴方にとっても親友で家族になってくれる事を、そして貴方達もあの子の親友で家族になってくる事を等しく願います」




「さてと……まずは病院だな」

 既に近所の動物病院に予約は入れてある。

 そこで狂犬病のワクチン接種と畜犬登録の手続きを済ませる予定で、混合ワクチンの接種の予定も相談するつもりだった。


「えっ、病院に行くの?」

「行くって言ってたよ俺」

「え~っ! リアにお家を案内するのにぃ~」

「それは後だよ。リアが悪い病気にならないように注射しないと駄目なんだから」

「リア病気になっちゃうの?」

「ならないために注射を打つの」

「ゆかり、チュウシャ大きらい!」

 そう叫ぶが、富井は非情にも「ゆかりも十月にはインフルエンザの予防接種をするからね。勿論注射ね」と告げるのだった。

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