クレーンとその子供
宮元早百合
クレーンとその子供
道路工事の車。あるいはおれもこんな仕事をしていていたかもしれんし、これからそうなる可能性もある。黄色くてでかい車の周りで男たちの持つドリルが振動している。おれは借りてる部屋の窓から見える医科大学の屋上のうえにこの前まで突き出ていたでかいクレーンを思い出した。クレーンは三月になくなった。あのでかいクレーンが砕けた欠片が細胞分裂を繰り返してこの工事現場に来たのかもしれない。おれはそんなイメージをつくった。
工事現場はおれの家から徒歩一分のところ、コンビニはさらにそこから徒歩一分のところにあるから家にいてもコンビニにいてもその振動のリズムはずっと聞こえていた。おれはそれを無視してくらしている。昔つきあっていた洋子は工事の音が嫌いだといっていた。だからわかれたのかもしれない。いちいち覚えていないが、月に一度はいまと同じような工事の音が聞こえてくる気がする。洋子のことを思い出そうとしたが、そもそも忘れていたのだから、思い出す必要もないのかもしれん。
コンビニで買ってきたサンドイッチを食った。それからノートパソコンで、さっき頭の中でつくったイメージをテキストエディタにならべてみた。東京では毎日でかいビルが建てられている。その頂点には必ずクレーンが立っている。クレーンがビルの部品を吊り上げる。建築が終わるとクレーンは解体される。その解体された部品。機械の肉体。機械の死骸。作業員たちがなきがらを運ぶ。なきがらは燃やされて煙、雲、雨、川、海、そして新たな生命。クレーンはおれたちの空気のなかを漂っている。空気中のクレーンが凝縮して地上に芽吹く。夜になると作業員たちがそれを拾って新しい建築を始める。その中のひとりがおれをみていう。
「なにじろじろ見てんだ馬鹿」
おれはイメージをならべるのをやめて部屋をでる。扉の前におれと弟の写真がある。子供の頃のやつでおれは好きじゃないが弟が選んで家からもってきた写真だし、他に残ってるものもないからその写真をかざっている。その手前に洋子が持ってきたハワイの緑色の石も置いてある。それが視界に入ったとき洋子の顔を少し思い出した。石も写真も埃をかぶっている。帰ったら埃をはらってやろうとおもった。おれは自転車でおれの大学へいく。そこにおれのキャンバスがある。CGで済むものを手描きするのはバカげているとおれはおもう。本当はそうじゃないっていう理由はたくさんならったしおぼえている。
大学には人がいない。一年前からずっと誰もいない。釘で板に打ち込まれたキャンバスは老化に抗って無理やり皺を引き伸ばした爺の顔に似ている。放置してきたおれのキャンバス。からっぽの教室でおれはそれをしばらくみていた。その平面のどこにクレーンを配置する? 上だとどこにでもある資本主義批判の絵だ。でも真ん中や下に置いてもおれの中のクレーンの感じがないから、右上、右下か、遠近法の奥においてもいい。まるで卒業アルバムの集合写真撮る時にいなかったせいで隅っこに顔写真を貼り付けられた引きこもりのようだ。引きこもりじゃなくて風邪で休んでも同じ扱いになる。そういう目にあったやつが犯罪をおかすとテレビにうつるのは隅っこの顔写真だから何も言わなければ視聴者はさだめし、引きこもりに違いないとおもうだろう。
しばらくしたら弟があらわれた。弟はキャンバスの向こうから顔をだしておれのイスの横にたつと、そのままおれといっしょにキャンバスをみていた。おれは弟の生ぬるくていやな感じを左の頬に受けながらもういちど頭の中からクレーンのイメージをひきだそうとした。建築作業員は誰にも知られることなく平成最後のバイオテロを計画している。互いに目配せをしながら少しずつ計画書からずれた建物を作ろうとしている。上司もまだ気付いていない。実際の東京のビルは必ずしも正確に四角に立ち並んではいないが絵画なんだから植物プラントのようにビルを生やしても問題ない。そのほうが好きだ。おれは静止画をとる。立ち並ぶビルのひとつが爆破解体されて、その跡地に作業員達がいる、背景には別のビルの列が並んでいる、そのうちのひとつが建設途中で、そこからクレーンが生えている。そして作業員たちの手前には解体されたクレーンの部品が転がっている。
いいじゃん、と弟がいった。おう、とおれもいう。だが、これだけじゃ画面が寂しいね、と弟がいう。おれは画面が寂しいという言葉が嫌いだった。画面をわざわざ賑やかさなければならん理由がおれにはよくわからない。なにもない場所に白を塗る理由もわからない。だから水墨画が好きだといったら、水墨画はそういうものじゃなく、すぐれた水墨画は空白もまた豊かさをふくんでおり云々、と説教を受けたことがある。教授はなんでおれがそんなことも分からない愚図だという前提で話をするんだろう。だが弟はそんなこと知らんから、弟のいうとおりにして、奥のビルと手前の作業員の間に道路をかいて、そこに小さく別の道路工事をかくことで、手前の作業員の異質さが際立つようになるだろう。イメージは一歩ずつ着実に、現実になろうとしていた。バイオテロを計画する作業員のひとりはおれに向かっていう。
「お前は何でそんなことしている?」
夕方になるまでおれは今までにない集中力とスピードでキャンバスを埋めつくしていた。日が暮れて自動的に電灯がついたのでおれは奥側のビルだけ色のついてるキャンバスをそこにそのままにして自転車で大学をでた。ホテルの壁にストリートアーティストが落書きをしている。フードをかぶったそのすがたは数年前のおれのようだった。数年前のおれは知らなかったがうちの大学のアウトサイダー志向な新入生はみんなこの壁に落書きをするのだった。それを聞いたとき、大学からいい感じに離れていて、夕方にはいい感じに暗くなるからなるほど当然だとおもった。やつも同じように、無数の壁と漂白の痕跡が実はただの先輩のものなんじゃないかなんてかんがえもせず、初めて上陸した古代の両生類のように前後左右上下のぜんぶをおそれている。そこに落書きをしていた卒業生が偉大なストリートアーティストになったという話は聞いたことがない。だからおれもあいつも偉大なストリートアーティストにならないだろう。おれが自転車で通り過ぎるその一瞬で、太陽が沈みきって夜がやつの姿を覆い隠したように見えた。
四車線の坂道を自転車でのぼる。八百屋の閉じたシャッターにも落書きがある。それはアーティストではなくただのやさぐれた若者がスプレー缶で自分の名前かなんかをかきなぐったものだ。どちらかというとおれよりも弟のほうがそういうのは得意だった。おれに黙って家出したとき色んなところに落書きをしてSNSにアップして、警察の車で帰ってきたが、それはおれが捜索依頼をしたからであって、弟が器物損壊罪とかで逮捕されることはなかった。
コンビニを過ぎて工事現場のところまで帰ってきたら、赤く光るチューブを巻いた棒に囲まれていた。作業員の服に貼りついた黄色い蛍光体が黄色く反射している。頭上にはアンテナみたいな形のライト。作業員は道にあけた穴の中でもぞもぞうごいている。何をしているかよくわからない。水道管に穴を開けてそこから生物兵器を流し込むのかもしれない。作業員を見ながら自転車を走らせていたら、縁石かなにかにタイヤが引っかかっておれは派手に転んだ。ワ、と言って道路整備の男がくる。おれは、大丈夫ですよといって立ちあがった。本当にどこも痛くなかった。おれはあるいて自転車をおして工事現場の周りをいった。中の作業員と目があった。
なにをしてるんですか、とおれはたずねてみた。
「水道だよ」とだけ、投げやりに作業員がいった。それからひくい声で他の作業員と話しはじめた。明日の早朝、とか、T字のはどこに、とか、いっていた。誰も知らん間に、別の管を取り付けて、そこから流し込むのかもしれない。おれは小走りでそこを抜けようとしたら、転んだ膝が急に痛くなってまた転びそうになった。いびつなあるき方で横断歩道を渡って帰宅した。
午前5時。工事の音はしない。道路の穴を囲う赤いコーンとチューブの光は喧しく点滅しているが音は出していない。作業員たちはその中で静かにパイプを付け替えている。電動工具でなくレンチでボルトを外している。上方向に別の穴が空いたパイプと取り替える。その穴には逆流を防ぐための蓋が付いている。その蓋を一時的に開いて細い金属製のパイプを繫いでみる。細いパイプは連結を繰り返しながら曲がりくねって道路の裏側を這い回りながら近くの側溝の蓋に近づいていく。この工程は誰にも知られず一瞬のうちに完遂されなければならなかった。作業員たちはF1ピットクルーのようなすばやい連携の取れたバイオテロ工事のリハーサルを暗闇のなかで繰り返していた。
起きて道路を見にいくと既にアスファルトでふさがれていた。工事は終わっていた。昨日がぜんぶ夢だったような気がした。作業員たちがまだその下にいるような気もした。大学に行く前に玄関扉のポストを見たら封筒があった。両親の手紙。これは大学が終わって帰宅してからよんだ。弟の一周忌にこじつけておれにくだくだと指示している。おれが犯罪者や危険思想家と付きあっているんじゃないかと妄想している。かれらは息子のひとりの死がただの病死だとは思いたがらない。おれが何かをしたか、あるいはしていなければ、弟の寿命が一年くらい伸びたんじゃないかという疑惑を捨てきれないでいる。両親の言い分にもきっと一理あるんだろう。おれはその手紙を読んでまた弟にごめんなさいとおもった。だが、とりあえず手紙にはおれのことを心配しているようなことも書いてあったし、下書きと清書を経たらしいことばの感じから、おれへのきづかいも感じられた。おれは手紙をよんだあと、弟の葬式以降はじめて、つまりほぼ一年ぶりに両親に電話をして、少し話をした。
その前におれは大学にいってまた絵をかいていた。人がいた。そいつはおれのかきかけの絵についておれに質問をしたり、はげましたりしてくれた。機械と生命と社会の関係について参考になるいくつかの画家の名前を挙げ、ところで、以前にもクレーンの話をしてくれたことがあったけど、あの話けっこう気になっていたんだよね、こういう形で題材にしてくれるのは、うん、すごくいいと思うよ。そいつはおれの担当教授だった。おれはにこにこして頷いた。弟はこない。
キャンバスは色のついた空とビル、遠くのクレーンの下に、道路工事と建物工事と壊れたクレーンの部品の鉛筆によるスケッチ。じっと見ていると作業員が生命を得て動きだす。きのうの穴の中の会議のように、おれをちらりとみてから肩を寄せあって会話している。ひとりが画面の外からT字パイプを運んでくる。ひとりは地面に座って細い金属パイプ同士を繋ぐための部品を並べて状態を確認している。誰もが動いており、静止画のなかにとらえようとなんども挑戦するが、輪郭がぶれた写真のようになっていて、確かなかたちにならないのだった。気がついたら、手ぶらで一時間くらい経過していた。いつまでも鉛筆のスケッチだった。仕方ないし動きのないところだけ色をうめることにした。奥のほうの道路工事とか、奥と左右のビルとか。右側のビルの壁に落書きがあってもいいかもしれんとおもった。
左右のビルが風景をかこう額縁のようにみえる。その幾何学的な調和を保つための正確な直線をつくるため、おれはキャンバスの上に紙を置いて、その紙の端を絵筆でなぞった。技術論はきらいだが、これはおれがストリートをやっていたときに知った、バンクシーのステンシルに近いやり方で好きだ。慣れればどんなやり方より速い。ときにその制作活動を警察の手により中断させられるストリートアーティストにとって速いことはすごく重要だ。おれもすべての絵をもっと速くかきたいと思いつづけてきた。そうして動きのない面積をすべて塗りつぶした。半分くらい埋まった。あと色のついてないのは工事現場だけだった。鉛筆によるスケッチの作業員。東京爆破を計画している。
自転車で帰っているとコンビニの前で昨日の作業員とすれ違った。またおれと目があった。作業員は何もいわないでおれをみていた。おれはコンビニで2リットルの水を買って帰宅した。そしてポストの封筒をあけてよみ、両親に電話をした。
午後十時。おれの部屋の前の道路の側溝の蓋を開けて、ひとりの男がパイプの中に毒を入れた。それは東京じゅうにひろがって一晩で五万人の人間が死んだ。おれはそのあいだペットボトルの水を飲みながら寝ていたので死ななかった。毒は五万人の人間を殺してから下水を通って東京湾に流れ込み、海水に溶けてなくなっていく。夢の中で絵画の続きを描こうとしていた。弟の声がした。おれの頭の中の、輪郭のぶれた作業員たちをみて、これでいいんじゃないか、といった。調和の取れた背景と、輪郭を失った人物像の対称性。すごく納得したからよくおぼえている。
起きて、めしを食わないで大学にきた。それで弟のいったとおり、ぶれたままの作業員をかこうとした。はじめは普通にかいたらイメージのなかの作業員と一致しない。すこしヤケクソになって大量の絵具で左右にかき回してみたら、皮膚と服と髪の色が溶けあってぶれた写真のようになってから垂れていった。遠くから見てみた。よくある絵画だ。おれにしてはわるくない出来だった。ただし同じように他の作業員もかければいいが、おれにはできない。
弟がきた。やっぱだめだぜ、とおれはいった。弟はちょっとびっくりしていた。おれの絵をみて、ひとりだけ他と違うんだね、といった。そうじゃなくておれは全員をぶれさせたいのだ、それは弟もわかっているはずだが、本当はそうじゃないこともおれは知ってる。この絵がかけたらぜんぶ話してあやまろうとおもった。教授がきて、調子いいねといった。おれはこいつはうまくかけたが他のやつはかけそうにないといった。とりあえずやってみようよと教授は笑っている。きみはしばらく大学にこなかったから私も高橋さんもきみのことを心配していたんだよ。おれはにこにこして頷く。仕方ないから夜までやってみたがやっぱりうまくかけない。へたをして小学生の絵みたいになるのだけはごめんだったから、気がついたら一年の授業でやったときみたいに丁寧に輪郭をかいて顔の中身はむかしかいた自画像と同じ顔をかいてしまった。授業みたいな作業員をふたりかいたら夜になっていた。おれは絵の写真をとって親におくった。
おれは四車線の坂道を自転車でのぼって帰る。全国テレビに流れる東京バイオテロ。被害者数はあれからさらに増えて十万人に到達しようとしている。東京じゅうのスーパーで水や牛乳が売り切れていく。ホテルの壁に弟が落書きをしている。八百屋は今日も閉まっている。朝には大丈夫だったやつも突然断末魔の叫びとともにどんどん死んでいく。一週間もすれば東京で生き残っているのはおれひとりになるだろう。部屋に帰ったら親の返信がきていた。
いい絵ですね。明くんはどこですか。
明というのは弟の名前だ。おれは電話をした。この絵に明はいない。おれも。いるのは工事現場の作業員だけなんだ。でも右側の壁に落書きがあるとおもうんだけど。あれは明がよくかいてたやつ。そう、それ。母さんは少し泣いていた。電話が切れたあとに写真の埃をティッシュでふいた。洋子のハワイの緑の石も。それから狭い風呂に入った。髪を洗う時にシャワーの水が少し口に入った。
午前5時。誰もいなくなった夜に作業員たちがあらわれる。真っ暗な道を並んで歩いている。明かりのついた家を探している。生き残った人間を探している。ひとりが肩に担いだパイプを握り直す。ひとりが運ぶタンクの中で黒い液体が揺れている。服に貼り付いた黄色い蛍光体が月光を反射している。
カーテンあけるとまたクレーンが立っていた。二本立っていて音もなく動いている。遠いから音が聞こえないんだろう。医科大学の建物はとても高くてたぶん十階以上ある。窓のかずを数えれば多分わかる。クレーンは一見何の欠点もない完成した建物の上でなにかをつりあげていた。
自転車で大学にいったら駐輪場のところで工事をしていた。赤いコーンが広場の土のところを囲んでシャベルのついた車が土を掘り返していた。その周りで黄色い服の作業員が何かをしている。土を掘り返す車を運転している作業員と目があった。おれは自転車を漕いでいたから目があったのは一瞬だった。
キャンバスの中の人間がふえていた。おれがまだやってないはずの作業員にもう色がついていた。ぜんぶの作業員に色がついており、しかも輪郭がぶれている。おれが授業みたいにかいたやつも輪郭のぶれた人間になおされていた。背景の色彩は絵画的だが作業員だけは露光の長すぎた写真みたいだった。よくある絵画。わるくない出来。
キャンバスの一番手前の灰色の地面のところにクレーンの部品をかくのを忘れていた。おれは座って色をつくった。つくった色でキャンバスをさわろうとしたときに医科大学にきょう立っていたクレーンのことを思い出した。あれは前のクレーンが2つに分裂したのだろうか? そういえば前のよりも小さくなっていたかもしれんが、多分そうでもない。おれは気分がわるくなって何も食ってないのに何か吐きたい気分だった。分裂して、それぞれが元の大きさまで成長するクレーンだ。おれは転がっている部品はいずれ作業員に組み直されるとおもっていたが実はそうじゃなかった。壊れたそれぞれの部品から別の部品が生えてくる。そうやってたくさん増える。そうして世界はクレーンだけになっていくのか。そのとき作業員はどこにいる?
おれはこれから育っていくひとつだけの部品を地面にかきたして終わった。気分が悪くて椅子にちぢこまっていたら弟の声がした。できた? できたよ。おれは頭を抱えたままで答える。おめでとう。いいね。この絵。タイトルなんていうの。
それを聞いていたらだんだん、おれはやったんだという気持ちになってきた。顔上げてキャンバスをみたら相変わらずそこに絵がある。露光よりはやいスピードで動いている作業員。バイオテロを計画している。壁には弟がスプレー缶でかいたサイン。絵画の配色。空から地面へとだんだん暗くなるように配置されている。考えてなかったけどよく出来ている。周りをみた。おれの他にも絵をかいてるやつがいる。すりガラスの窓のむこうで廊下をあるく人間がいる。教室の後ろには裏向きのキャンバスが何枚も立てかけられていた。それからずっと洋子がおれをみている。弟じゃない。おれはこんど洋子とはなしてあやまろうとおもった。おれはやったんだという気持ちですごく久しぶりに何となくハッピーな感じになっていた。だから洋子に飛びついて抱きしめたりしたいほどだったが、周りをみたら教授とか他の人間もいて、恥ずかしいからおれは左手をだした。握手。
急に腹が減った。教授が作品を褒めてたが、おれは腹が減って少しめまいもしていたから、話をそこそこに切りあげて食堂にいった。食堂でめしを食っていたら窓から駐輪場と工事中の広場が見えた。穴の底に水道管がある。きっとなんでもない水道工事だろう。食堂掲示板に工事のお知らせが貼ってある。窓に視線を戻したらちょうど上を向いた作業員と目があった。おれは急いでめしを食った。ただの水道工事。
教室にもどっても教授がおれの絵をほめていた。輪郭のぶれた作業員の、偶然の作用を擬似的に再現したその緻密な筆をほめている。おれにはひとりかくので限界だった作業員。おれは作品に題をつけなければならなかった。クレーンの絵だからそういう題にしたかった。増殖するクレーン。あるいは、クレーンとその子供、という題にしたかった。英語にすると響きがいいからだ。
Crane and his child.
でも教授は気に入らなかった。教授的にはクレーンよりも作業員そのものが作品の焦点だったので、新しい工事、とか、計画、とか、そういう題がいいといった。帰る時に工事現場のところをとおった。作業員たちは穴の底で顔を突きあわせて熱心に会議をしている。おれには目もくれなかった。何かの図面を見ていた。からだの調子がわるい。
四車線の坂道は作業員の運転する車であふれている。東京じゅうの人間を殺しつくした作業員たちは車に乗って新しいまちにむかっていく。おれはひとり生き残ってるのがばれないようにとなりの狭い道を自転車でのぼっている。車の音がずっと聞こえている。コンビニで曲がると医科大学のクレーンが見える。クレーンはまるで無人操作のように誰もいない空間で左右に首をふって何かをつりあげている。部屋に帰ったら気分がもっとわるくなってすぐにねた。
午前5時。解体されたビルの跡地で建築作業員が新しい工事のための資材を集めている。そのむこうに明がいる。明はとなりのビルの壁にスプレーで落書きをしている。逮捕されるからやめろっておれがいう。明は笑って角を曲がっていく。おれが追いかけて曲がったらもういなくなっていた。おれの絵にかかれなかった空間をみていた。無限に立ち並ぶビルが2枚の壁のようにおれを挟んでいた。その上で薄い雲に覆われた水色の空が終わらない向こう側まで続いている。振り返ったら作業員たちが手を止めておれをみていた。おれはかれらのほうにいった。シャベルのついた車が地面を掘り起こしている。危ないから離れてください。作業員のひとりがおれにいう。車がなんどもなんども穴を掘って地面の穴が深くなっていくのを、おれは作業員たちと一緒になってじっとみていた。
絵画がおわって、おれは気分がわるいから起きてもずっとねていた。昨日よりずっとわるくなっている。昼までねていたら部屋のチャイムがなった。あけたら洋子がいた。冬っぽいマフラーをしている。わかれる前に切っていた髪がまた伸びておれと初めてあったころみたいだ。風が枯葉を転がしている。街路樹は常緑だから近所の家の庭にあるやつだろう。枯葉は洋子のななめ後ろで渦を巻いて立ち止まった。
「何しにきたの」とおれはいう。洋子はあいまいに笑った気がする。おれは多分顔色が悪いので、すぐに布団に戻ったけれど文句を言われなかった。おれはあやまるならいまだとおもった。つまり、ずっと学校で洋子にあったら弟ってことにしてきたこと。洋子とわかれてすぐに明が死んだからだった。トラウマというよりは当てつけだった。でも今はそんなことはもうどうでもよかった。布団から洋子を見あげながらあやまったら洋子はちょっとびっくりしていた。
それから洋子がコンビニで買ってきたサンドイッチを食った。卵とハムとレタスとツナが入っている。スライスした茹で卵は大小さまざまな円形の集合をパンの上にえがいている。ハムはのっぺりとしたピンク色の表面をレタスの露に光らせている。おれの部屋の明かりは蛍光灯で、食い物をうまそうに見せるには向いていない。もっと黄色い明かりのほうが向いている。でも蛍光灯は白色で、本物の色を見せるのはこっちのほうだ。
めしを食ったあとが、おれの体調不良のピークだった。おれはトイレにかがみ込んで唸っていた。水面が目の前で揺れていた。その奥の小さな陶器製の通路は折れ曲がって先が見えないようになっているが、その先には捨てられた水たちの通る道がずっと続いている。いずれは下水管で他の水と合流する。水は東京湾に押し出され、海水に溶けてなくなっていく。おれは食ったばかりのサンドイッチをはき出した。めまいがして足が震えていた。水を流してまた、へたりこんで水面を見つめていたら、水面が静かにゆれておれの顔を反射していた。天井のあかりの逆光でおれの顔はよく見えないでいる。
ずっとそうしていたら震えが収まった。おれは手を洗って出かける準備をした。洋子が心配して行き先をきいた。おれはいう。大学に行って新しいキャンバスをもらう。おれはかくんだ。もっと。必要なことじゃないのは知っていた。でも、本当はそうじゃないってことも。そとで作業員たちが待っている。おれは扉をあけて彼らの中に入っていく。
クレーンとその子供 宮元早百合 @salilymiya
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