明晰夢の中で
星火燎原
明晰夢の中で
私は夢を見ている。
夢の中に閉じ込められている。
これが夢だと気づいたのは、もう何日も前かもしれないし、数時間前かもしれないし、数分前のことかもしれない。
夢の中での記憶なんて曖昧で、何が正しいかなんて自分でも分からない。
「そこに木がある」と思い浮かべれば、そこに木があるし、「目の前に川が流れている」と思い浮かべれば、目の前に川が流れている。
なんでも私の思い通りになる世界。
ちょっと思い浮かべただけで景色が変わるから、制御するのが難しいのだけれど、居心地は悪くない。
夢の中で、これが夢だと自覚することは今まで何度かあった。
こういう夢の中で夢だと自覚することを確か……『
そう、私は明晰夢を見ている。そのことは確かだ。
しかし、いつもは「学校に遅刻するかもしれないから早く起きなければ」とか、怖い夢だった場合は「今すぐ起きて」と願っているうちに目が覚めていたのに、今回はいくら願っても目が覚めない。
とてつもなく長い間、夢の中で過ごしている気がする。
ただ、これは夢の中だ。起きたら数分しか経っていなかったという可能性もありえるだろう。
とにかく私が願うだけで太陽が昇り、私が願うだけで満天の星空になる世界では、夢だと気づいた日から何日経過したということも分からないのだ。
私は太陽を空に固定させて、昔住んでいた家の二階にある自分の部屋から外の景色を眺める。
窓の外には青い空と田園風景が広がっている。
こんな景色だったような気がする景色を眺めていると、懐かしくなってきて、気がついたら涙が零れていた。
部屋の中には私が小学生の頃に使っていた赤いランドセル、お父さんに買ってもらった犬のぬいぐるみ、小さい頃はお母さんと一緒に寝ていたベッドが、あの日のままで置かれている。
私はベッドの上で仰向けになり、天井を見上げる。
これが夢でなければ、どれだけ幸せか。
ここにある物は全て過去の物である。現実世界では影も形も何も残っていない。私の記憶にしか残っていない物たち。
それも部屋にある物だけではない。この家自体が現実にはもうないのだ。
私は夢から覚める前に部屋を見て回る。
弟の部屋にはおもちゃが沢山散らかっていた。
「そういえば、こんなおもちゃで遊んでいた気がするなぁ」と思い出すようなおもちゃが何個かあったが、ぼんやりしていて全て確認することはできなかった。
階段を降りてリビングに向かう。
長方形のダイニングテーブルに椅子が四つ。
私は自分が食事の時に座っていた椅子に座る。座ったところで、何かが起こるわけではない。
この世界は望めば大抵のことは実現するが、私以外の人間は出てこない。
だから、もう二度とこのテーブルを四人で囲うことはありえないのだ。
台所に向かい、冷蔵庫を開けると空っぽだった。
蛇口のレバーハンドルを上にあげるが、水は出てこない。
別に喉が渇いているわけではなかったが、水が出てくるのか確かめたかった。
一向に水が出てこない蛇口を睨みながら私は願う。
「流れて」
蛇口からちょろちょろと水が流れてくる。
しばらく眺めているうちに水が止まり、レバーハンドルも下がっていた。
懐かしい廊下を歩いていき、玄関から家を出ようとする。
靴を履かなきゃ、と思った瞬間には既に靴が履いてある。
私はぼんやりと懐かしく感じる靴を数秒眺めた後、ドアを開けて外に出た。
外に出て、右を向くと犬小屋がぽつんと置いてあった。
犬小屋だけで昔飼っていた愛犬の姿はない。
「もう一度、会いたかったなぁ……」と思いながら、私は庭を歩いて外へ出る。
道路に出て、後ろを振り返ると家は綺麗に消えていて、更地になっていた。
その光景は現実世界の私が、最後にここへ訪れた時と同じだった。
家も犬小屋も全て消えている。
寂しくなった私は更地を見つめながら、家が建っている光景を思い浮かべて願おうとした。
けれど、途中でやめた。
少しでも他の光景を思い浮かべたら、その通りになってしまうからだ。
更地になる前に訪れた時の光景を思い浮かべてしまうのが、怖い。
私は、まだ町としての形を残していた頃の町を歩いていくと、公園に辿り着いた。
小さい頃は家族四人でよく遊びに来ていた公園。
私はブランコに座りながら、誰もいない殺風景な公園を眺める。
一体、この夢はなんなのだろうか。夢にしては長すぎる。長く感じる夢なのかもしれないけど、それにしても異常に思う。
とは言え、夢の中で考えたところで答えが出るわけもない。
その後も昔住んでいた町を、家族が生きていた頃の思い出と共に歩き続けた。
歩き続けているうちに景色は変わっていき、気づいた時には大きなビルが立ち並んでいた。
家族の中で唯一生き残った私は親戚に引き取られ、都心から少しだけ離れた学校へ通っている。
今見ている光景は、引き取られてから何度も見ている光景だ。
ただ、多くの人が行き交う現実世界とは違い、夢の中では私しかいない。
ビルが立ち並ぶ街を一人で歩いているのは異様な光景だし、静寂に包まれていて不気味でもあった。
「まぁ、現実世界でも私が一人ぼっちなことには変わりないし、いいか」
私は誰もいない街を歩いていく。
この街に来た当初は家族と住んでいた町と比べて、なんでもあるように見えた。
でも、なんでもあるように見えていただけで、何もなかった。
家族も友達も思い出も何一つない街。
そんな私にとってどうでもいい街だったから今見ている景色もぼんやりしていて、看板に書いてある文字も読み取れない。
夢の中では私が憶えていない部分は反映されないのだ。
この終わらない夢の手がかりがないものかと考え、私は学校へ向かった。
いつも通っている道を歩いた気もするが、学校を思い浮かべてからほんの数秒で辿り着いた。
校内を見て回ろうとしたが、学校全体がぼんやりしていて、近づくことができない。
仕方がないから学校は諦めて、私が住んでいる親戚の家に向かうことにした。
「この世界にある親戚の家の中にはもう一人の私が眠っていて、それを起こせば現実世界に戻れるかもしれない」といった根拠も何もない想像を膨らませながら歩く。
ところが、ある横断歩道の前で立ち止まった。
通学時にいつも渡っていた少し長い横断歩道。
そこで私が何故、目が覚めないのかを理解し、思い出した。
現実世界の私が最後に見た光景は、迫り来るトラックだった。
そうだ、私は走ってくるトラックを見ながら、赤信号の横断歩道を歩いていた。
もちろん最初から渡りきるつもりなんてなかった。
だとすれば、ここは死後の世界なのだろうか。
見渡したところで、見覚えのある光景しかない。
私がイメージしていた天国や地獄とは程遠い。
私は考えた末、ある結論を出した。
おそらく私はまだ死んでなくて、病院のベッドで眠ったままなのだろう。
意識が戻らないとか、植物状態だとか、そういう状態なんだと思う。
そんな状態でも夢を見るのかは分からないが、前にテレビで意識不明だった人間が「意識が戻るまで不思議な夢を見ていた」と語っているのを見た記憶がある。
だから、今見ているこの夢も同じようなものなのだろう。
あれだけスピードの出ていたトラックに轢かれたんだ。きっと現実世界の私は体中にチューブを入れられ、延命治療をされているはず。
だったらこのまま目が覚めない方がいいな、と空を見上げながら思った。
しかし、何か忘れている気がする。
私は横断歩道の真ん中で、その『何か』を思い出そうと必死になった。
信号が点滅して緑から赤に変わり、後ろを振り向いた瞬間、『何か』を思い出す。
トラックに轢かれる直前、後ろから声が聞こえた。
「危ない!」
私は後ろを振り返り、その直後に轢かれた。
最後に見たのは、迫り来るトラックではなかった。
私が最後に見たのは、取り乱しながら私の背中を押そうとする男子だった。
見覚えのある顔、同じクラスの男子だ。
私との距離から考えて、あの男子も一緒に轢かれたに違いない。
「私なんか助けようとするから」
横断歩道の真ん中で呟くと、徐々に罪悪感が湧いてきた。
あの男子はどうなったのだろうか。
彼が生きているのか、私に知る術はない。
ただ、もし私が目を覚まして、彼が生きているのだとしたら真っ先に謝りたい。
仮に私のように意識不明な状態が続いていたら、彼が目覚めるまで何年でも何十年でも待ち続けるつもりだ。
それだけのことをしてしまったのだ。病院にだって毎日通い続けよう。
しかし、それからも私は夢の中に閉じ込められたままだった。
その間、何度も「彼は無事だろうか」「なんて言って謝ろうか」「こんな私を許してもらえるのだろうか」と考え続けた。
――もし彼に謝ることができたら……。
私は、目を覚ますその日を待ち望んでいた。
でも、どうやら私が目を覚ますことはないらしい。
最近は物忘れが激しい。
いや、物忘れが激しいどころではない。
いつの間にか家族の顔が思い出せなくなっていた。名前も兄弟も何もかも思い出せない。
家族以外にも何か忘れているような気がするし、自分の名前を思い出すのにも時間がかかる。
空は色を失い、ぼんやりしていた風景が黒く染まっていく。
私も世界も壊れていっているようだ。
もうすぐ全てが終わりを迎えるのだろう。
壊れかけの世界を歩き続ける。
どの家も傾いていたり、ヒビが生じていたり、瓦礫の山になっていたり……。
この世界にはお似合いの光景だったが、どこか懐かしさを感じられた。
原型を残していない一軒家の前で立ち止まった。
上から落ちてきたと思われる瓦礫で、庭にある犬小屋が潰れている。
同じように壊れかけている家が周りに沢山ある中、何故かこの家だけが気になった。ここに何かあった気がするのだ。
私は歩くのをやめて、その家の前で座り込んだ。
思い出せるのは、ここが夢の中なこと、自分が自殺しようとしたこと、そして……。
ただ目の前の家を見つめながら、世界の終わりを待ち続ける。
崩壊する夢の中で、私は自分のしたことを後悔した。
全てが終わる最期の瞬間まで、
私は夢の中で、
一人ぼっちだった私を唯一救おうとしてくれた男の子の無事を祈り続けた。
明晰夢の中で 星火燎原 @seikaend
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