社長令嬢、登場

 盗賊団〈鬼闇衆きあんしゅう〉が資産家邸に侵入して住人を惨殺し、少年探偵コインが初めて世間の前に姿を現した日から数日が経過した週末。

 ハチドリ日日にちにち新聞社が丸ごと借り上げ、男性独身社員寮に使っている下宿屋の端っこ、押入れ付きの三畳間。

 週に一度の日曜日、今日は寝坊と決めて布団の中でゴロゴロしていた記者見習いの扉板とびらいた啓一けいいち少年を、薄い部屋の戸をドンドン叩いて容赦なく起こしたのは、先輩記者の鴨凪かもなぎ正二しょうじだ。

「啓一くん、啓一くん! 部屋に居るのだろう? 日曜だからって、いつまでも寝てないで起きたまえ!」

 うるさい、休みの日くらい寝かせてくれ……と心の中で文句を言いながら、しかし少年は、素直に三畳間の薄い扉を開けた。

「おはようございます」寝ぼけまなこでボソリと言う。

「やあ、おはよう!」この先輩記者、毎日朝から元気満々だ。日曜だろうと、お構いなし。

「こんな朝早くに、どうしたんですか?」

「決して早くはないぞ……もう八時を回っている」

「休みの日くらい良いじゃないですか」

「いつまでも布団の中でゴロゴロしていたら、そのうち体から根が生えてくるぞ。さあ、着替えたまえ。外出の支度だ……いや、それより銭湯へ行って寝汗を流して来るんだな。〈はちの湯〉はもう開いているはずだ」

「外出ですか? 今日は一日、下宿ここで本でも読んで過ごそうと思っていたのに」

「良いから、良いから、まあ、付き合えよ……もしも今日、僕に付き合ってくれたら、甘い洋菓子ケーキでも食わしてやろう」

「はあ」

 結局、洋菓子ケーキの一言が効力を発揮して、啓一は渋々ながら桶と石鹸と手ぬぐいを持って近くの銭湯まで行った。

 ゆっくりと朝の湯船に浸かりながら、啓一少年は「さすがに大学時代はボクシングで鳴らしただけあって、鴨凪さんは体力があるなぁ」とつぶやいた。

「最近、ますます元気が良いや……やっぱりを間近で見たのがけか」

 というのは、少年探偵コインの事だ。

 何しろ、ハチドリ市じゅうがその話題で持ちきりの『謎の少年』を、鴨凪はじかに自分の目で見ている。

 そんな偶然に恵まれた新聞記者は今のところ彼一人だった。

 編集長からこの一件を任され、彼の記事がトップを飾る新聞の売り上げは、ここ数日ウナギ登りの売り切れ続出。

 記者としての腕の良し悪しは関係なし。現場にたまたま居合わせたという幸運を利用しているだけだ。

 しかし人間、幸運の続く間は、本人も周囲も『運を味方につけるのだって実力』と有頂天になる。

「鴨凪さんの前に現れるのは、出来れば控えたいものだ」風呂から上がりながら、啓一少年はボソリと言った。

 まるで少年探偵コインの出現を自分の力でどうにか出来るような口ぶりだった。

 人の少ない朝の銭湯。彼の台詞せりふを聞いたものは誰も居ない。

 風呂から下宿に帰ると、鴨凪氏は早くも部屋着から背広に着替え、ピッチリと髪をなでつけて、男ぶりを上げていた。

「さあさあ、呑気のんきにしていないで、君も早く余所行よそいきに着替えたまえ」

 仕方なしに啓一少年、いったん三畳の自室に帰って扉に鍵をかけ、いつも着ている背広を押入れから出して袖を通す。表の生地は地味な灰色だが、チラリと見える裏地は何故なぜか青メタリック色に輝いていた。

 押入れの下段には古新聞が敷いてあり、その上にブーツがあった。

 ブーツを持って部屋を出て扉に鍵をかけ、鴨凪と一緒に下宿屋の廊下を玄関へ向かって歩く。

「またその背広かい? いつも仕事で着ているヤツじゃないか」

「これが僕の一張羅いっちょうらです……本当の事を言うと、僕はこれ一着しか背広を持っていません」

「そうか……まあ、見習いの給料じゃ中々背広の新調も出来ないか……しかし定期的に着回さないと、いずれ汗くさくなって来るぜ」

「大丈夫です。これは汗も垢も汚れも付かない特殊繊維ですから」

「特殊繊維? 何だい、そりゃ」

 先輩記者に聞かれ、啓一はシマッタ、口が滑った、という顔をした。

「エーッと……ああ、そうだ……せ、宣伝文句です……買った服屋に、そんな宣伝文句が飾ってあったんです」

「はっはっは、そりゃ、君、騙されたのさ。宣伝文句なんて信じちゃ駄目だぜ」

「はあ」

 啓一少年、この先輩が鈍感で本当に良かったと、胸をホッとで下ろした。

 下宿屋の玄関で、鴨凪は黒のストレートチップ、啓一少年は部屋から持ってきた焦げ茶色のブーツを履いた。

「しかし君、こう言っちゃ悪いが、変な形のブーツだな。ふくらはぎに付いている、その金属のキャップみたいなのは飾りかね?」

「まあ、多分」

「そんなのを見せて歩いたら、通行人に笑われるよ」

「ズボンの裾で隠れるから心配ありません」

「隠すんなら、何のための飾りだよ」

「良いじゃないですか。僕の勝手ですよ。洒落しゃれっ気に合理的意味なんてありません」

「そりゃ、そうだ」

 靴を履いた二人は、春らしいポカポカ陽気の中、路面電車の停車場までテクテク歩いた。

 いくつか電車を乗り換えて、ハチドリ市一番の高級繁華街〈銀沢町〉に着いたのが午前十時十分前。

「こりゃ、いかん」

 腕時計を見た鴨凪氏、あわててデパートやら高級仕立て服屋やらが軒を連ねる街の歩道を足早に歩き始めた。

「啓一くん、約束に遅れてしまう。早く行こう」

「約束? これ、何かの約束だったんですか?」

「良いから、良いから、さあ早く」

 啓一は何が何だか分からないまま、とにかく先輩記者を追いかけ、たどり着いたのは美味うまいと評判、そのぶん値段も超一流の洋菓子ケーキ屋。

 カランッとドアベルを鳴らし中に入る。

 どうやら店の奥は洒落た喫茶室になっているらしい。

 ズンズン奥へ歩いて行く鴨凪を追って、啓一も喫茶室へ。

 誰かを見つけたのか、鴨凪は並んだテーブルの一つへ近づいた。

 その目指すテーブルに、美しい女が一人で座っていた。

「やあ」と鴨凪氏。

「まあ、ずいぶんと遅いのね」とテーブルの女が言った。

 啓一も知っている女だ。

 笹馬ささうま絹子きぬこ。23歳。

 都市国家ハチドリ市最大の自動車製造会社、笹馬ささうま自動車工業株式会社社長ご自慢の美人令嬢姉妹……その姉の方だった。

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少年探偵コイン(天空探偵集2) 青葉台旭 @aobadai_akira

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