第2話   世界的な飢餓状態

 専用車両を降りると、足元に広告が落ちていて、瞬く間に乗客たちに踏まれてくしゃくしゃになっていった。


 彼が広告の文字を読めたのは、じつに一瞬だけ。胃バイパス手術専門の病院が、近所にまた一軒建ったとの内容だった。


「どこも胃バイパス手術の価格低下競争が激しいね」


 建っては潰れを繰り返す、専門医療施設。フランスのみならず、世界中で違法バイパス手術が問題視されている。


 駅員に地図を見せ、どのようなルートを選べば最短で到着可能か質問する。地図を前に眉間にシワを寄せる痩せた駅員の後ろで、同僚からお昼を買ってきてもらった別の駅員が、レシートを読むなり絶句していた。


「また値上がりしたのか!? もうキングエルサイズは頻繁に頼めないな」


 どうやら、お気に入りの店がさらなる値上げに踏み切ったらしい。悲惨なニュースに嘆き悲しむ声に、地図を見ていた駅員が「静かにしてろ」と注意した。


 見慣れた光景に、青年も苦笑を漏らす。もうずっと、彼が生まれる何百年も前から、食糧難は世界共通の大問題であった。自らの胃を小さく手術しなければ、エレベーターに収まりきらないほどの肥満体となる。それでも人類の食欲は抑えきれず、野菜や低カロリーなチキンばかりが大人気となり、各国では激安チェーン店が似たり寄ったりなメニューを提供し始め、それらも原材料の生産・収穫が間に合わず値上がりが始まり、今や食文化は崩壊していた。


 宗教的な理由で手術ができない国では、車に乗れないほどの肥満体が多いためにトラックの荷台が庶民の移動手段になっている。それも一台に二人しか運べない。


「食糧難も一向に解決する兆候が見られないし。政府の偉い人たちも、頑張ってくれてるんだけどね」


 昨日買った新聞では、世界最後のビーガンが餓死してしまったと載っていた。最後まで異常な食欲と戦い続け、ヘルシーな生き方を貫いたとしてアメリカで表彰されるのだという。


「暴食の罪……か」


 地図を片手にしたまま、ホームを出て、たった一人で街を歩く。案外、堂々と歩いていれば、こうして誰にも気づかれないときもある。今夜の宿のあても駅員に紹介してもらったことだし、しばらくは役得で近くのお店巡りをしてみる。


 デコイは定住ができない。吸血鬼を引き寄せてしまうから。だからこそ吸血鬼と堂々と対峙し、その心臓に銀弾を打ち込む機会に恵まれる。


 吸血鬼はデコイを美しいまま手元に置こうとするから、必然的に攻撃の手を緩める。広げた両腕の中に飛び込むふりをして、銀のナイフで串刺しにする天使もいる。


 青年はあえて芸能活動を交えて、自身を宣伝していた。おびきよせられた吸血鬼とその下僕は数知れず、人気も序列も高い天使である。洗脳されている彼の価値観では、まず主人であるあの少年吸血鬼に再会することが最重要案件であり、人類のために吸血鬼と戦う仕事は二の次三の次であった。


 いつ堕天するとも知れない危うい天使たちを、危険視する専門家もいる。逆に天使の性質を最大限に利用して使い潰そうと考えている金持ちもいる。


 様々な欲望の波の中で、しかし青年の中で価値あるものとして輝き続けるのは、あの少年吸血鬼ただ一人であった。


「どこにいるんだろう、今日こそ会えるといいなぁ。この広い世界で、どこかでばったり……偶然に出逢った、あの夜のように、会えないかな……」


 少し人通りの落ち着いた頃に、ふと、二軒並んだバーの間の暗がりにもたれている、異様な雰囲気の男性に目が留まった。薄いトレンチコートを片腕に、誰かと待ち合わせしているのだろうか深くうつむいて、足元の革靴の先を――眺めるその視線が、ついと青年に向けられた。


 すっとした鼻筋の真ん中あたりに、湿布を貼っている。


「こんばんは」


 青年は挨拶を返さなかった。代わりに立ち止まり、失礼に値するほど長く凝視している。


「ああ、いえ、失礼いたしました。おはようごさいます、ミスター・フランボワーズ」


 知らない誰かに名前を呼ばれるのは、有名人には珍しくないこと。しかし青年はまたも挨拶も愛嬌も返さなかった。形の良い金の眉毛を寄せながら、首を傾げつつも手早く白い布を剥ぎ取って銃剣の口を向ける。


 暗がりの人物が、乾いた笑いを漏らした。


「なかなか勘のよろしい人です。今の私を観察したら、どう反応してよいか迷いますよねぇ、そして貴方のその勘は正しいですよ」


 謎の男性が、煉瓦の壁から背中を離して歩きだした。一切のブレを見せない銃口に向かって、ゆっくりと近づいてゆく。しかしその背丈はみるみる縮みだし、ぶかぶかの紳士服から白い肩を出した小柄な少年が、日の下に現れた。


「なにを考えてるんだよ、ブレッツェル……ミヒャエルが、困ってるよ」


 もじもじと上着の裾をいじりながら、気まずげに頬を赤らめて現れたその少年は、赤みがかった茶色いくしゅっとした髪に、青白い肌、そして最大の特徴であるアースカラーのその瞳は、


「ウィリアム!!?」


 忘れもしない、青年の人生から安寧を奪った因縁の少年吸血鬼だった。


 青年は武器を取り落とす。後で手入れの手間やら銃身が曲がっていないかなどの点検に手間取ることなど、もはや頭から吹き飛んでいる。片膝を折り、少年と目線を合わせた。


 少年もびっくりまなこで、じっと青年の空色の瞳を凝視していた。


 十年ぶりの再会だった。


 まだ子供だった彼の屋敷に忍びこみ、耐え難い飢えを凌ぐために、メイドの若い女性を襲ってしまった。少年の人生で、初めて故意に人を殺めてしまった。


 物音に気づいて駆けつけてきた彼に、とっさに洗脳をかけて、従わせてしまった。全ては、自分が人間に捕まって殺されるのが怖かったから。


 そして洗脳を解く前に、屋敷の中から子供の気配が消えていた。どこへ行ったのか、誰にうかがっても手掛かりがない。銀翼の天使団に、引き取られてしまったからだと知ったのは、それから少し経ってからだった。


「ウィリアム、ああ! また会えて良かった! 本当に! ずっと捜してたんだよ!」


 陶器のような肌を上気させて、両腕を伸ばして引っ張り寄せた。


 少年は厳しい言葉も覚悟していた分、こんなに歓迎されて、それはそれで胸が痛んだ。青年が異様に歓喜しているのは、少年の洗脳によるものだから。


「ぼくも……会えてよかった、ミヒャエル。ごめんね、今ブレッツェルにお願いして自由にしてあげるから」


 不完全な吸血である少年では、吸血鬼特有の幻術のたぐいが上手に使えない。さっそくブレッツェルに交代するや否や、ぶかぶかだった着衣は多少の乱れを残して再び体にフィットし、地面を引きずっていたトレンチコートの裾を手でパンパンと払いながら、ブレッツェルが犬歯が見えるほど口角を上げて微笑んだ。


「まあ、ウィルはああ言っていますけれど、私としてはもう少しだけ、貴方とお話がしてみたいですね」


 呆然としている空色の瞳を、じぃっと覗き込み返してやる。


「交渉という名の、双方ともに素晴らしく得をするお話をね……」


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グッドモーニング・ブレッツェル【第ニ編開幕】 小花ソルト(一話四千字内を標準に執筆中) @kohana-sugar

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