第一章 暴食の主人を捜して
第1話 しもべの性《さが》
デコイが街に一人いれば、その美丈夫さ目当てに吸血鬼とその下僕どもが集まってくる。一網打尽にする機会に恵まれる反面、デコイが破れれば戦況がどう転ぶか誰にもわからない。
観光地を絶望の縁へと変化させたバケモノを退治した英雄は、カーペットを歩く映画スターのごとき拍手と歓声に惜しまれつつ、タクシーを拾って退場していった。
宿泊しているホテルの、最上階へ。そして一日荷支度に費やすと、荷物を背負って駅へと移動した。
これ以上ここに長居すれば、そう遠からず別のバケモノをおびき寄せてしまうから。
昨日の純白の衣装ではなく、どこにでもいる小綺麗な格好の青年で、しかし楽器のケースのように肩に提げているのは、あの銃剣。駅までタクシーで移動し、見送る人の少ないままに、青年は紙カップのハーブティーで体を温めながら、駅のホームで電車が来るのを待っていた。
青年の美貌とチャーミングな愛嬌に既視感を抱いた若い女性たちが、黄色い悲鳴を上げて周囲に知らせるものだから、瞬く間に駅内がごった返す。デコイのそばに長居をすると危険であるのを、どの国の政府も極秘にしているが故の大騒ぎであった。
天使のファンに押し出されて線路に転落してしまった数名の救出作業のため、電車に遅延が生じるほどの人気ぶりであった。誰かの片手に握られていた大きなサンドイッチが落下し、数多の輝く靴に踏みつけられて、真っ赤なソースが床のタイルに広げられてゆく。
こうなってしまうと身動きが取れないから、いついかなるときも臨戦態勢でいなければならないデコイたちには、充分に戦えるスペースを与えられる。車両一つが、青年のために丸々貸し切りであった。
「ふぅ~……今日も押し合いへし合いだったなぁ、僕まで線路に落とされる勢いで抱きしめられたよ」
車窓に映った自身の耳元に、真っ赤な口紅の跡が。情熱的かつマナーの悪いファンに、青年は苦笑しながらハンカチで丁寧に拭き取った。
青年は椅子にゆったり腰掛けながら、紙の地図を広げて、ペンで丸印を付けた目的地への、最短距離を頭の中で考えながら、電車に揺られている。彼が向かう先は、バケモノの目撃情報が多発している地域ばかりだ。
銀翼の天使団から支給されたケータイで、同期の天使たちと連絡を取り合いながら、一カ所に大勢が固まらないようにする。デコイの密度が高くなれば、それだけ危険が高まるからだ。
「やれやれ、倒しても倒してもキリがないな。吸血鬼さん達も、食べ終わった人間はきちんと処分してほしいもんだよ。マナーがなってないなぁ」
フランス中央で目撃されていた下僕の討伐を、ケータイで仲間たちに知らせ終わると、青年は一息ついて、紙カップを空にした。寝坊してしまったせいで、大きなバゲットを買う余裕がなかった。駅内で買おうにもファンに囲まれて。お腹が奇妙な音を鳴らす。
空腹のあまりに、何か持ってきてないかとリュックのチャックを開けてゆく。丁寧に押し込められた最低限の日用品の中から、小さい袋に入ったジャムクッキーを見つけて、引っ張り出した。うきうきと開封する。
「ミカエル様」
あっという間におやつの袋をカラにした青年の椅子の横に、学者風の男と、その助手を務める女性が一礼して近づいてきた。この特別車両に入れる者は、限られている。互いに見知ったその顔に、誰からともなく笑顔になった。
「やあ久しぶりだね、二人とも。元気してた?」
「ええ、おかげさまで。ミカエル様も、ご無事で何よりです」
「あのボロボロになってた下僕の解剖結果が出たの? 君らが天使に話しかけるときって、たいがい仕事関連だよね」
仕方がないとはいえ、距離を置かれて接せられていることを青年は指摘してみせた。もちろん、たいした悪意はない。ただのちょっとした嫌味だ。
「いいえ、この短期間での検査では、詳細までは判りません。しかし、噛み跡に残った牙の太さと長さから、暴食の一族のモノだろうと予想されています。ヤツらの牙は太くて大きいですから、判別に困りません」
「へえ、あてずっぽうの結果を持ってきたんだ。珍しいね」
青年は彼らが小脇にしているサンドイッチの紙箱に釘付けになっていた。見覚えのある人気店の名前が印刷されており、それを目にするだけで食べたくてたまらなくなる。
「いいよね、そういうの。ようやく君らと仲良くなれた気がする」
「我々は同じ組織の人間です。貴方が我々を裏切らない限り、我々は最善の友です」
「ふふ、ありがとう。頼りにしてるよ」
サンドイッチ目当てに、向かいの席へと二人を勧めた。深く腰掛ける学者風の男女は、賄賂のようにサンドイッチを青年に渡した。三人で舌鼓を打つ。
「今回のあの襲撃も、僕ら天使が目当てで起きたものだろうね。暴食の貴族たちは、その下僕までが大食漢となるようだ。今回も運よく撃退できて良かったよ。主の導きの賜物だね」
「貴方の主人について、お聞かせ願えませんか。貴方だけですよ、天使たちの中で一切の情報を提供くださらないのは」
「一切だなんて、大袈裟じゃないか。何度も話してるはずだよ。泣き虫で、一所懸命で、それでいて優しい小さな男の子さ」
「子供の吸血鬼の目撃情報は、現在に至るまで確認されていません」
「嘘は言ってないよ。信じてくれないほうが、僕としては嬉しいけどね」
なにせ青年の大事な大事な主人である。誰かに討伐なんてされようものなら、青年は隔離せねばならぬほど発狂し、暴れるだろう。そうなれば数多の天使の制裁を受け、蜂の巣にされる末路である。
「今頃あの子もお腹を空かせて、僕以外の人間の血を求めて、どこかの街を歩いているのかな……」
車窓におでこをつけて、遠くなる街並みを眺めている……ように見える。
「僕の人生をめちゃくちゃにしてくれたんだ、そのお礼はきっちり受け取るつもりだよ。あの子が僕にどんなことして償ってくれるのか楽しみだ」
その目には、あの少年の不安そうに見上げる顔しか映っていなかった。
「絶対に許さないよ……絶対に……!」
向かいの席の男女が怪訝な視線を向ける中、恐ろしい形相で窓に頭部を押し付ける。
「この僕を吸血して完全な下僕にしてくれなきゃ、絶対に許さない! くふふ、ふふ……あはははは!」
「…………」
発作のように笑い続ける青年を見かねて、学者風の男女二人はサンドイッチをそのままに席を立った。
別の席に座り直した二人は、青年がいずれ落ち着くことを待ちながら、仕事上の次の目的地へ到着する時刻を、腕時計で何度も確認していた。
「気持ち悪いですわ。どの天使たちも、己の主人の話になるといつも途中でおかしくなります……」
「仕方がないさ。彼らの洗脳を解けるのは、限られた吸血鬼しかいないだろう。何かの気まぐれで、無償で彼らを解放してくれる吸血鬼でも現れない限り、彼も一生あのままだ」
男性は疲れた顔でため息をついた。
「今はまだ我々の味方の天使だが、いつ堕天するとも限らない。彼を魅了した主人が見つかれば、彼は
学者風の男性は、まだ独りで笑い続けている青年の、銀の首枷に視線を落とした。
「そのための、あの首輪だ。我々側でいつでも処理できるように、リモコンによる遠隔操作で起爆する爆弾が、仕込んである」
「……彼はそのことを、ご存知なのですか?」
「知っているよ。知っていて、あんな調子なんだ。もう、どうすることもできない」
なぜこの男性がいつも疲れた様子なのか、その理由を知った助手なのだった。
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