第二編
序章
第0話 純潔の天使
もしも日傘を傾けながら、エッフェル塔を見上げ、ルーブル美術館の展示物に心躍らせ、ストラスブール大聖堂の荘厳さに絵はがきを求め、一眼レフを片手に道行くパリジェンヌに声をかけて記念に一枚。お腹がすいたら、上質なワインと白身魚のフルコースを求めて、パンフレットを片手に、小道をさまよう。
おしゃれを極める上級者なら、誰しも一度は訪れる、そんな聖地を、心おきなく楽しめる……そんな未来もあったのだとしたら、歴史のどこから修正していけば良いのだろう。
それは今でも、誰にもわからない。
人と同じ頻度で食事を行う、大食漢な高貴なる一族を、誰が止められると言うのだろう。蔓薔薇がどこまでも両腕を広げて包み込んでくるかのごとく、飽くなき食欲と探求心。美食を求めるその舌を唸らせる生贄は少なく、気ままに食い散らかされていく少年少女たちの、犠牲の数だけが増えていく。
「私のやっている事は悪いことですか?」
悪びれず尋ねてくる彼らの存在に、唯一答えを叩きつけることができる組織があった。
その名を、銀翼の天使団。
彼らは選ばれし贄にして、戦士。高貴なる一族を唯一穿ち、哀れな骸と帰す助けを担う者。
「僕らのやっている事は、悪いことじゃない!」
断固たる強い意志で、堂々と言い放つ彼らは、人類に残された希望にして、厄介者。その香ばしい鮮血が、彼らの牙を、舌を、情欲を誘い、天使は己の純潔を賭して戦いに挑む。
負ければ隷属。身も心も彼らの所有物に。
では、勝ち続けたら……?
少し曇った朝の空気に包まれながら、ストラスブール大聖堂を背景に散歩がてら近所を一周するのが日課の住民と、朝から楽しい予定をみっしり詰め込んだ手帳と旅行雑誌にはなやぐ旅行客が、空よりも蒼白した顔で、とある一点を凝視していた。
朝食の美味しい人気店が入ったホテルの側面に、重力を無視した直立不動の謎の人物が、地上を歩く人々を見下ろしているのだ。ぐねぐねとした背筋を黒いコートで覆い隠し、片手には骨の折れた黒い傘を掴んで、かろうじて日差しを避けている。
まだらに抜けた頭髪は風になびき、顔半分は裂けて拡張された大口。性別年齢全てが不詳の崩れた外見からは、高貴なる一族から与えられた血が体に合わず、主人から見放されて彷徨い続けた年月の長さを思わせる。その悲愴感と、なおも人の生き血を求めて人類と敵対し続ける執念に、朝のフランスの優美な時間が、大勢の悲鳴により切り裂かれた。
素手も鉛玉も、罵声も木製の杭も毒も効かないことが実証されて百年余り、出遭った時点で無残な死人が出ることがほぼ確定してしまう彼らと、朝から遭遇するという悲劇から逃れるには、とにかく走って場を離れるしか――それか運よく天使が現れてくれるのを神に祈るしかない。
杖をついたお爺さんがいた。耳が遠くて周囲の異変に気付けず、お散歩を続けている。
「やあ、いい朝ですね」
喫茶店のレジをカードで済ませながら、テラスの手すりから爽やかに声をかける青年がいた。その白いうなじのほとんどを覆う銀製の
お爺さんがのっそりと顔を上げて「やあ、ハンサムさん」と会釈した。
「その首のアクセサリは、お洒落ですかな。重たそうだ」
青年は長い金髪を片手でまとめて、誰しもによく見えるように、首枷を晒した。
「ふふ、いいでしょう、コレ。裏に大天使ミカエルの名が彫刻されているんですよ」
悲鳴が一際大きくなった。
青年はテラスの手すりを片手で飛び越え、人混みからホテルの壁へと視線を移した。
相手も青年に気が付いた。目が合うなり、一歩、また一歩と、壁に靴底をこすりつけながら近づいてくる。
青年は食事中どころか眠るときすら肌身離さない白い包みを背負っていた。白百合が花開くように布を取り払うと、現れたのは一丁の銀製ライフル。
「最近、この周辺で怪しい人物の目撃情報が寄せられてたんだ。容姿や容態の特徴と照らし合わせて、君のことで間違いなさそうだ」
まるで花婿がまとう白いタキシードを想起させる衣装は、動きやすいよう生地と締め付けを計算し尽くした特注品。世界に名を馳せる一流デザイナーの手により、彼ら銀翼の天使団は奇異な恰好ながら周囲に溶け込むという奇跡を披露している。
日の下の白と、歪な黒。人混みの消えた観光地で、対峙する。
「ボンジュール、暴食の下僕くん! そのコウモリ傘からただよう辛気臭い雰囲気が、チーズを台無しにする有毒カビみたいで、よく似合ってるよ」
聞こえているのやら、いないのやら。まるで撃ち落とされたかのように、石畳の上にボトリと着地した。反動で両足が奇妙な形に開き、立っていることさえ難しくなっている様子が伝わってくる。
しかし、油断も手加減も許されない。飢えた彼らに情けをかけるのは、命をパンのごとく差し出すに等しい。
「今から僕のする事は、決して悪いことじゃないよ!」
手早く装弾し、両手で構える。銀縁のスコープの中心に、顔面の崩れた元人間の成れの果ての、無表情な眼差しが見える。
始終笑顔だった青年の目が、突如狂気めいた集中力とともに吊り上がった。
「ここには無銭で飲めるワインは存在しない! 君と僕の出会いに祝福あれ! そして永遠のお別れだ!」
レンズの向こうでゆらめいていた陰が、蜃気楼のごとく遠のき、消えた。もとより銃口の先でおとなしく待っている獲物でないことは、青年も重々承知している。
まず一発、朝の曇り空の果てへと打ち鳴らした。
銃声が響き、こだまし、微動だにせずリロードもしない青年の姿は、果てしなく無防備に見えた。
鼻を突く悪臭の主が、青年の背後へ影を落とす。長く伸びきった灰色の爪が、青年の黄金色の髪へと、届きかけた、そのとき。
「そんなに僕の血が欲しいかい?」
手首の動きのみで銃身を回転させ、銃口近くに仕込んでいた仕込みナイフが、
深紅の鮮血を吹き上げて崩れ落ちる。
返り血にまみれた純白の花婿が、勝ち誇った笑みに口角を吊り上げて振り返った。
「銃剣って知ってるかい? 僕らの世界では、メジャーな武器なんだ」
なにせその首筋を、その純潔を、直接至近距離から狙われる身である。遠距離武器から瞬時に至近距離へと対処するために、銀のナイフは必須であった。
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