終章  ある少年の行き先

第20話   人のいる街へ

 ふらふらになりながらガーデンバギーのもとへ戻ってきたブレッツェル。乱雑に積み上がった植物たちを引きずり出し、少年の体のままで、少々貪った。


「ああ、なんという……もう二度とコレの世話にはなるものかと言った矢先にコレです。あまり食べないでおきましたが、この程度の量では、とても足りません」


 しかし満ち足りるまで食してしまうと、今度は少年の自我に危険が及ぶ。ブレッツェルは名残惜しさを押しこめて、温室とガーデンバギーを背に歩きだしたのだった。


 子供の足でも、こつこつ歩いていれば、東雲の頃には森の終わりが見えてくるだろう。ブレッツェルはひっそりと目立たない老木に歩み寄ると、そのうろに頭と片手を突っ込んだ。


「よかった、ありました。私たちのリュックサックです」


 食事を摂るときは血で汚れないように、別の場所に私物を移すのが二人の決めたルールだった。


「一刻も早く、この森から離れましょう。一晩歩くことになりますが、人がいる街を目指すためです。がんばりましょう」


 少年がぎょっとしたのが、伝わった。


「ええ、わかっていますよ。人がたくさんいる場所はですから、行きたくないんですよね。ですが人気ひとけのない場所を探した結果、危ない目に遭ったり、今回なんて私の以前の部下の秘密基地にまで侵入してしまいました。我々はもう少し日の当たる世界へ近づいたほうが、性に合っているんですよ」


 人気のない場所ばかり選んで彷徨っていたのは、少年の要望によるものだった。もしかしたらミヒャエル・フランボワーズに洗脳をかけてしまって以来、街に入るのが怖くなったのではとブレッツェルは予想する。


「街に入れないクレアさんのこと、笑えませんね。けれども私は、貴方に明るく生きていてほしいんです。貴方にどれだけ恨まれても、神様にどんなに憎まれても、今度こそは……この手に堕ちてきた大切な人を、守りたいんです」


 少年はブレッツェルが人間との間に子供を作ったことを責められていたのを思い出した。


(ブレッツェル……僕は、あなたの子供じゃない……)


 戸惑いがちに否定する少年に、ブレッツェルはうなずいた。


「知っていますよ。ですが吸血鬼が神様に許されない存在ならば、私が貴方を救わなくて、どなたが手を差し伸べてくれるでしょう。感謝も祈りも天に届かず、どんなに願っても救済が来ないのならば、奇跡は自分たちで起こすしかないのです」


 ブレッツェルは小さな体で大人用のリュックサックを背負い、少年の美しいアースカラーの双眸で、星がちらほらと顔を出す空を見上げた。


「人の多く集まる場所も、悪いことばかりでは無いはずですよ。ほら、みんなに大人気のミヒャエルさんだって、イギリスに来ているかもしれません。デコイは吸血鬼に狙われるため、定住ができないんです。ですから、ひょっとしたら会うことができるかも。彼は有名人のようですし、来たら騒ぎになって目立ってくれるかもしれません」


 それはそれで、どんな顔して会えばよいのかと少年は苦悩した。謝って済むには、十年以上もの時間が過ぎてしまっていた。ミヒャエルは少年に洗脳された後、どこかへ引っ越してしまっていた。捜そうにも、狩人が大勢パリを見回るようになってしまい、怖くて近づけず、やがてその地を去るしか選択肢が無くなった。ブレッツェルが少年を守るために、狩人の一人を負傷させたからだった。


(僕のせいで、ミヒャエルは……)


 当時の親切なミヒャエル少年の顔を思い出すだけで、胸がつぶれそうだった。


「洗脳をかけてしまったことを後悔しているのならば、彼に会って、洗脳を解いてあげましょう。そうと腹を括れば、もやもやした気持ちが晴れませんか?」


 彼が、もしかしたらイギリスに。そんなことを言われてしまったら、少しだけ、期待に胸が騒いでしまうではないかと、少年は戸惑う。


「行きましょう、ウィル。今回もしぶとく生き延びたんですから、しょんぼりしないで。貴方には、人間らしく笑っていてほしいんですよ。たとえ、ほんのわずかでもね」


 少年を唯一理解し、唯一許してくれる存在が、ブレッツェルだった。彼の言葉は、絶望の海を独り彷徨う少年の心を、いつもほんのり照らしてくれる。


(ありがとう、ブレッツェル……いつも前を向かせてくれて)


「もしかしたら、人間に戻れる方法が、図書館なんかで見つかるかもしれませんね」


 それはちょっと無理があるんじゃないかと少年は思ったが、未来や目的をどんどん提示してくれる彼に励まされて、不安だけれど踏み出す勇気が、じょじょに湧いてきた。


 もしかしたら、今まで避けてきたことに飛び込むことで、何かが変わるかもしれない。


 恐ろしいことも待っているかも。しかし今回も逃げ延び、生き延びたことが、根拠のない自信につながった。でも自分は何もしていない。いつもブレッツェルに助けられてばかりで――


「ブレッツェル、ここからは僕が自力で歩くよ。あなたは休んでてください」


 少年が、自分自身の声で、意思で、その口から言葉を発した。


 急に内部に押し込められたブレッツェルが、きょとんとしている。


(え? 良いんですか?)


「はい。しばらく、眠っていてください。到着したら、起こしますね」


 ブレッツェルが少し戸惑っている気配がする。彼は一度眠ると、なかなか起きないのだ。起きられなかったから幼少期のミヒャエルとも会ったことがなく、少年が千回くらい呼びかけないと、起こされても二度寝してしまう。


 少年が大きな荷物を背負う姿は、まるで亀と甲羅。ブレッツェルはかなり心配したが、少年が張り切っているため、何も言わないでおいた。


(それでは、お言葉に甘えて。おやすみなさい、ウィル)


「おやすみなさい、ブレッツェル」


 彼が寝付くのは早かった。心地よい静かな寝息が、少年の体にゆったりと響く。やっぱり無理をさせていたんだと、少年は眉をひそめた。自分は他人で、子供で、しかも人間の体で、それでも彼はここまで粘ってくれた。


「僕にとっても、貴方は大事な人です。せめて、好きな時間にお休みできるように、僕もがんばらないと。怖いけど……」


 日が落ちたって、いつも曇っているイギリスの空の下だって、夜目が効くから歩いていける。疲れたら休んで、また歩くつもりだ。朝までには、あの遠くの星のように見えるたくさんの街灯に、近づけることを目標にする。


 ウィリアムは肩から落ちそうになったリュックを、背負い直した。


「よし、行くぞっ」


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