第19話   唯一の生還者

 水面に浮いたまま微動だにしない己の亡骸を眺め、ぼんやりと木陰に座りこむ、魂だけの少女がいた。風になぶられ、湖に生まれる静かな波紋、風に揺れる前髪。


 ふと我に帰り、少女は立ち上がった。


 思い出したのだ。自分はここで、殺されたのだと。


 その顔を下からのぞきこむ、真っ赤な双眸の見知らぬ少女が立っていた。いつの間に、こんなに近くに来たのか、にっこり会釈された。とても小柄で、なぜか血まみれの花嫁の格好をしているが、彼女の歳で嫁ぐには、いろいろと問題があった。


「おはよう。束の間の生け贄さん。あなたのおかげで、私のお気に入りの二人組は、一時いっときではありますが餓死を免れました。とても感謝しています」


 小柄な少女はだぶだぶのスカートを両手で摘まんで、可愛くお辞儀。ぼんやりしている少女は、何を言われているのか、わからなかった。


 未だ水中に身を預けている感覚がするだけで、あとは何も……。


「感謝の意を表して、あなたを生け贄から除外します。そもそも処女じゃないあなたでは、私たちの糧にならないんです。不必要な犠牲だったのです」


 なんか今すごく失礼なことを言われた気がした。


「――以上をもちまして、あなたの命を、我々のはらから返します」


 小柄な少女が爪先立ちで背伸びすると、白いベールに覆われた小さな顔が近づいてきて、うなじに開いた二つの牙の跡を、冷たい唇でふさいだ。


 とたんに何か熱いモノが、全身を駆け巡る感覚が。それらは手足の先までじんわりと温め、次の瞬間、木陰でぼんやりしてた少女は悲鳴をあげて己を取り戻した。


 とっさに辺りを見回すが、誰もいない。


 あの地獄だった屋敷が、すぐ近くにあった。


 少女は二度と捕まるものかと、死に物狂いで走って逃げた。途中、大きな湖が見えて、なぜかカーテンだけが水面に浮いていたが、気にする余裕はなかった。



 暴食の胎から追い出された彼女は、生涯で二度と吸血鬼に遭遇することは、無かった。


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