第18話 蔓薔薇の一族
「ウィルくーん、ウィリアムくーん? もう鬼ごっこはやめようよ、迷子になっちゃうよー?」
肌に、着衣に、付着した血の匂いが、どこまでもドクター・ネガティブを導いてゆく。森の奥へ奥へと誘われて、ふと、黒い双眸が、眉間のシワとともに頭上を仰いだ。
まだ夕暮れには早すぎる時刻だというのに、ぎっしりと生い茂る木々の隙間から降り注ぐ木漏れ日が、弱くなっている。その原因は、幹まで黒い蔓薔薇であった。細く可憐な幹が縦横無尽に、蛇のように木々の陰を縫って辺りを浸食し、空に、地面に、枝葉を広げていた。黒い小さな花弁は全て、ドクター・ネガティブに向いて咲いていた。
「王様のまねっこかな? 上手だね~」
蔓は静かにドクターの周囲を覆ってゆく。それに伴い、肌寒くなってきた。白衣の腕をさすりながら、少年の気配と匂いを頼りに、周辺を見回す。
どこもかしこも血の匂い。辺りに黒い霧が漂ってきた。一時的にだが実体を伴う幻影を生み出すだけでも厄介なのに、それが歴代の王のみならず少年の体でも扱えるだなんて、ドクターは予想もしていなかった。
ヒュンと空気が鳴り、ドクターの頭を蔓が弱々しく叩いた。それを皮切りに一斉にペシペシ、ペシペシ、蔓薔薇が彼を叩き始める。なんとも可愛らしい攻撃に、ドクターは思わず吹き出してしまった。
「こんなに柔らかい植物を、鞭の代用品として使うとは。あまりにもお粗末が過ぎるねぇ」
手首に巻き付いた。棘がびっしり生えた細い細い蔓が、ドクターの青白い肌を裂く。この程度の負傷では、吸血鬼の歩みは止まらない。
「どこだい、ウィリアムくん! きみの心臓で王の魔力を循環させるのは負担がかかるだろう! 苦しいだろう? さあイタズラはやめて、先生と一緒にお城へ帰ろうね! お城で王様に可愛がられて暮らしたほうが、きみはずっと幸せだったはずだよ!」
蔓がどんどん巻き付いてくる。それらを日傘片手にぶちぶちと引きちぎっては、気配を頼りに歩みを進めてゆく。少年はすぐそこの木陰に隠れているようだが……咳が出るほどむせかえる匂いに、さすがに異常性を感じた。霧がどんどんと濃くなってゆく。
周辺一帯が、現王の気迫に満ちてゆく。
「すごい血の匂いだ……まるで王様に見張られているような錯覚に陥るよ。こんなことも思いつくなんて、きみはすごいね。王様ととても深く繋がっている証拠だ」
多くを魅了し、堕落させる、甘美な王の血……真祖が腹を痛めて産み落とした、赤い月と胎盤の王子――へその緒すら尊く、生まれた瞬間から「暴食」の概念を人類に植え付けたとされる、鮮血の番人。
木陰から大きな蝙蝠が何匹も現れて、ドクターの頭上を飛び交った。日傘を急降下からの体当たりで破損させ、さらには片手で追い払おうとしたドクターの手に噛みついて吸血する始末。蔓薔薇も追いかけてきて手足に巻きつき、体の自由が制限され始めた。
「ああ、もう、避けるのも手間だ! 好きなだけ切り裂くといいよ。この程度の傷と吸血じゃあ、痛くも痒くもないからね!」
笑顔だが眉間に青筋をくっきり浮かべて、蔓薔薇を無心で引きちぎって進む。だんだんと蔓薔薇も硬く強かになり、ちぎる腕にも力が入る。
ようやく少年の隠れている大木まで到着し、その小さな腕を掴んで思いきり捻ってやろうと回り込んだら、見覚えのある純白のマントが背を向けて立っていた。
闇夜の黒でも鮮血の赤でもなく、穢れなき白を好んで身にまとう、序列最下位の後ろ姿だった。純白の長い髪の頂には、赤黒いまま永久に錆びない銅製の王冠が、輝いている。
不覚にも一瞬、目を奪われたドクター・ネガティブだったが、どうせ黒い霧が生み出した幻覚であると確信して、その腕を掴んだ。
はたして、振り向いたその顔は――ドクターが隠し部屋で収集するほど愛してやまない、世界一素敵な笑顔の
「!? ミヒャエル・フラ――」
最高の笑顔で挨拶されて、一瞬で目が、意識が、釘付けとなって視線が外せない。銀翼の天使団所属の
だがスーパースターはそこに立っているだけで、闇夜すら明るく輝かせる。形だけでも
風切る音に振り向いたドクターの
「うわ……本当にミヒャエルさんが好きなんですね……」
黒い霧が晴れ、蔓薔薇が枯れ落ちて頭上から
「ひとまず、クレアさんをお呼びしましょうか。彼をこのままにしておくのは、いろんな意味で気の毒ですからね……」
このままクレアに見せるのも問題がある。鋏だけ引き抜いて森に放り投げた。ドクターの片目からは、すでに血が止まりつつあった。
はたしてクレアはブレッツェルの声の届く範囲にいたのだった。蒼白した顔で駆けつけてきた彼女に、ブレッツェルは努めて冷静に接した。
「だ、旦那様……ああ、あぁあ……」
「大丈夫ですよ、クレアさん。この程度の傷ならば、数日もすれば完治しますから、そのまま放っておいてあげてください」
大切な伴侶が負傷し気絶し、戦闘不能にされたのだから、さぞ立腹しているかと思いきや、クレアは恍惚とした表情を浮かべて、主人の頭部の横に膝をつき、うっとりと眺めていた。
またも狼狽するブレッツェル……ひとまず、この場を離れることにした。
「やれやれ、なんて女性なんでしょうか……どうかお幸せに」
少年も縮み上がりながら、奇妙な夫婦に別れを告げたのだった。
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