第17話 元のクレア
「あら、ごきげんよう」
草木を掻き分けて歩いてきたのは、メイドのクレアだった。片手に大きな鋏を持って、自分の手の延長のように、ぶらぶら揺らしている。
「血の跡を辿って来たの。旦那様は今、女の子のダンスに付き合ってて忙しいから。私が相手でごめんなさいね」
大きな鋏を持ち上げて見せつけ、自身の顔の横で鳴らし、クレアがにっこりと笑った。
「あなた、ブレッツェルでしょ? 姿が変わっても、愛おしい気持ちが何一つ変わらないもの」
ぐったりして動かない少年の目の前で、クレアがしゃがみ込んだ。
「私と賭けをしましょう。正解したら、旦那様を少しだけ足止めしてあげる。あの人は私のムダ話にも、耳を傾けてくださるお優しい方なの。その隙にあなたは、もう少しだけ遠くに逃げられるかもね」
ロングスカートを履いた女性の足でも追いつけるほど弱りきった子供の口に、鋏がズボリと押し込まれた。開いた刃先とともに、小さな口が無理やり開けられる。
小さくとも異様に鋭い犬歯が、口角から覗いた。
「それじゃあ、問題。私には男性経験が有るかしら、それとも無いかしら」
言いながら、クレアはもう片方の手をひらひらと振ってみせた。自ら切ったらしい、人差し指の先からは鮮血がぼろぼろとこぼれ出ている。
「確認してもいいわよ。私の血の味が、わかるといいわね……」
口から鋏が引き抜かれて、代わりに、血まみれの人差し指が押し込まれようとしたその時、少年の目がルビー色に輝き、おまけに思いっきりツバを吐いた。
「キャア!」
しゃがんでいたクレアは、立ち上がって大きく後退った。
少年も木の幹に手をついて立ち上がった。
「あなたは彼の忠実な妻。僕の鼻が効けば、絶対にこんな怪しい屋敷には来ませんでした!」
欲望と愛に忠実な従者が、弱った獲物を前に恵むことなど、ありえないと判断した。
(この人の生き血なんて飲まされたら、弱って捕まってしまいます。少しだけ休憩もできましたし、今なら迎え撃つことも……やるしかないですね)
ブレッツェルは遠くの木々の間から眺めているであろうドクターに向かって、胸いっぱいに息を吸った。
「ドクター・ネガティブ! 貴様の度重なる反逆行為には反吐が出る! 受けて立ってやるから、追って来い!」
少年の甲高い声が、森にこだまする。
脱兎の勢いで走り去ってゆく小さな背中に、ふとクレアは、片手と自分自身に違和感を覚えて、ハッと指先を凝視した。
「私の鋏が無い!? どこにやった!!」
辺りを探すが見当たらない。すごく苛々する。あんなに夢見心地だったのに。
「私から大事な鋏を奪ったあげくに、洗脳を解いたのね……」
勝手なことをされて、苛立ちが怒りへと変わった。そこへ草木を飛び越えて黒い日傘の主人が降りてきた。
「旦那様!」
クレアの白いほっぺがむくれている、その姿をドクター・ネガティブは愛おしそうに見下ろした。
「鋏を奪われてしまったのかい? 手負いの児童とは言え、あの体には王が宿っている。危ないから下がっていなさい、クレア」
「ズタズタに引き裂いた後は、私にくださいませね。ここに来た患者さんたち同様に、絵に描いて自室に飾りたいわ」
「おや、あの子が気に入ったんだね。子供には見向きもしなかったのに。興味の幅が広がるのは良いことだ」
「そんなわけではありませんわ! 最高に醜く描いてやりますの。他の子のように、美しくなんて残してやりません!」
空っぽの両手をぶんぶん振って抗議する恋人を、ドクターが優しく撫でながら
「あの子供には、少々利用せねばならない用事がたくさんあるから、すぐには持って帰れないが、用事が済んだらすぐにでもきみにプレゼントするよ。良い子で待っていてね」
「はい、お気をつけて!」
さっきまでの怒りはどこへやら。感情の起伏激しく、嬉しそうに微笑む恋人を残して、ドクターも森の中へと消えていった。
「うふふ、うふふふふふ!」
撫でられた頭を、嬉しくて何度も自分で撫でて再現した。彼とは留学先のドイツの、医大の講堂で出会った。その時はまさか、自分にこんなにも理解を示してくれる人が存在するだなんて、夢にも思っていなかった。
彼は患者の迷える精神を、洗脳して治療する名医だが、患者が別人のように豹変し、さらにはドクターの熱心な信者になってしまうため、医学会からは石を投げられている世界有数のマッドドクター。全ての医大への出入りを禁じられていたのだが、その日たまたま忍び込んできた彼を、クレアが匿ったのが馴れ初めだった。
彼は助手となってくれそうな人材を探しに来たと言っていたけれど、本当はただ母校に立ち寄っただけだったのだと、恋人になった後から教えてくれた。
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