第16話   この躰では限界がある

 ブレッツェルは壁から細く光が漏れる窓を、一瞥した。子供なら通れる幅がある。


「人の子に宿って弱っていると言えども、貴方は王だった男! 侮りは無礼に値しますので全力で捕獲に当たります!!」


 ドクターは両拳を荒く打ちつけ、獣の形相で犬歯を剝き出し、ぶ厚い冬用の絨毯でも雷鳴のごとき靴音が鳴るほど、厚く大きな靴底でどっしりと踏みつけ、勢いよく飛び出してきた。その長い腕で捕まえて捻り上げようとするのを見越したブレッツェルは、大きく後ろに飛びのこうとしたが、


「あれ?」


 思うように飛距離が出ず、語尾が上がった。


 ブレッツェルは知らなかった。人間の体では、吸血鬼と同じ身体能力を出せないのだと。


 さらに絨毯のしわにつまずいて、体勢を崩した。迫る右拳に胸板を叩かれ、吹っ飛んだ。受け身を取るも勢いが消し切れず、廊下を長距離にわたって転がり、ようやく止まった先で激しく咳き込んだ。


 血痰がこぼれ、胸に激痛が走り、とっさに片手で胸部を押さえると、ごろりとした奇妙な感触が指に伝わった。


あばらが! 人間の骨はこの程度で折れるんですか?)


 初めて、知った。少年のために手荒なこと一切を避けてきたから、この身で本格的な危機に瀕したのは、今日が初めてだった。


 今こそ使うべきは、王から施された魔力であった。依存性の高い万能の魔力は、少年の心臓を破裂しそうなほど脈打たせ、不気味な粘着音を立てながら負傷箇所を再生させた。その副作用で発熱し、動悸が止まず、汗で着衣が体にへばりつく。


 凄まじい風圧と殺気が目の前に迫り、ブレッツェルはとっさに右腕を前にして身を庇った。異様に口角のつり上がったドクターの、乱杭の牙だらけな歯並びが、小魚でも咀嚼するな勢いで右腕に噛みついてきた。


 ブレッツェルは空いた左腕で何度もドクターの顔面を叩き、右腕を振り回して振り解くと、立ち上がって廊下を真横に逃げた。鼻がくの字に曲がって鼻血を垂れ流すドクターの指先が、肩をかすめる。


 ブレッツェルが目指したのは、廊下をか細く照らす窓だった。細長い窓枠だが、ぎりぎり子供が通れる幅がある。


 そこから片足を蹴り出して、ブレッツェルは窓から外へと、飛び出した。


 大出血する痛い右腕を抱え、雑草だらけの道を蹴って必死に走るのは、茶褐色の髪色をした、アースカラーの瞳の少年。十歳前後の小柄な体躯で、ぶかぶかの作業服が足に絡まるのを蹴るように走って、発熱と多量の汗を無視して走り続けた。


(嘘でしょう!? この程度の傷も塞がらないんですか!? 人間の体って……ああァあア! ウィル、ウィルごめんなさい泣かないで! がんばってください、貴方が挫けると体まで動かなくなりますから!!)


 振り向くと、少年を追いかけようとして窓に詰まっているドクターの右肩が、うごめいているのが見えた。


「ぐうう! 我が家の窓が細いぃ!」


 それでも腕を突っ込んでいるのは、体当たりしたら穴を広げられるのではと試みたせいだろう。有り余る体力を駆使すれば、勢い任せに建物を壊すことも可能だが、どうにもここは特殊な屋敷、化け物対策には抜かりがないようで、ドクターの肩が、がっちりはまっている。


 少年は森の中へ駆け込んでいった。


 ドクターは肩をくねらせて窓枠から腕を引っこ抜き、恐ろしい形相で顔半分を覗かせた。


「すぐに追いつきますからね、ウィリアムくん!」



 辺りに漂う、少年の血の匂い。


 窓から出られなかったドクターは、勝手口の傘立てに差しておいた日傘を取りに戻った。そして、ものの数秒で少年を捕えることができる、はずだった。


 吸血鬼の過敏な嗅覚を、湖固有の不気味な生臭さと、血生臭さがかすめる。ちょうど日差しを避けるために日傘を差したドクターは、何事かと振り向いた。


 血染めの花嫁衣装をまとった女が、よたよたと歩いてくる……ドクターがクレアに贈った患者であった。うなじに空いた二つの穴から、真っ赤な花弁の蔓薔薇が生えていて、首飾りのように胸元を飾っている。


 ドクターはこの花嫁衣装と首飾りに、見覚えがあった。ため息をついて辺りを見回すと、可愛らしい笑い声がころころと耳に響いた。


「やれやれ、真祖様の気まぐれにも困ったものだ。気に入った女子供を、ドレスで着飾ってしもべにするのだから。まさか亡骸まで利用するとは、思わなかったが」


 他ならぬ真祖からの遊びの誘い。ドクターは日傘を閉じて最寄りの木に立て掛けた。


 真祖に嫌われては、序列が大きく下がってしまう。


 腕を伸ばしてしがみついてくる手を取って、しばらく一緒に踊った。こうしている間にも、少年の血の匂いがどんどん遠ざかってゆく。やがてバランスを崩し始めた少女を、木陰に休ませてあげるという設定にして、座らせた。


 少女の、可憐な笑い声がした。ドクターは真祖が満足したと捉えて、ひとまず安堵する。


「では私はこれで、失礼いたします」


 面倒なことになる前に、ドクターは日傘を取って、逃げるように少年を追いかけた。



(困りました……。ウィルの姿を借りて、あっさりと窓から逃げてやるつもりが、とんだ深手を)


 ブレッツェルは少年の体のまま木の幹に背中を預けて、ずるずると座り込んでいた。王の施しにより腕の回復も間に合ったものの、体はがくがくと震えて、寒気がして立てない。先ほどまで生傷があった腕の血が着衣に付着し、匂いを放ち続けている。


 木漏れ日が白い肌を柔らかく撫でる。些細な日光ならば耐えられるのは、この体が今も人間に戻れる可能性を秘めている証。肌を刺すような痛みを感じないのは、救いだった。


「大丈夫ですか、ウィル……意識は、まだ、残っていますか……?」


 高熱と闘いながら、青年は少年の口と喉を借りて、体調をうかがった。冷たい片手をおでこに当てて、少しでも熱を下げる。


「速度でも馬力でも、彼に押し負けますね……あの程度の花びらでは足りませんでしたか。こんなことになると知っていたら、遠慮なく王の施しを、たっぷりと受けたのに」


 ブレッツェルは少年の自我が消えるのを避けるべく、温室の花汁を控えめにしか吸わなかった。本当はもっと浅ましく、貪るほどの量が必要だったのに。バギーに大量に残ってはいるが、戻ることはできない。


 眩暈がしてした。ドクターが片腕に噛みついた、あの一瞬で大量に吸血していったせいだ。


 血が足りず、あげく王の施しによる急激な回復に子供の肉体が悲鳴を上げている。長距離を走り続けて逃げ切ることは、もはや絶望的であった。


「……あきらめませんよ、ウィル。貴方も王も、せっかく自由に、なれたのに……おとなしく捕まるなんて、絶対、嫌でしょう?」


 今までの行動が全て空回り、運に見放されてしまっては、無力で孤独な存在を守りながら生き抜くことなんて、吸血鬼の世界では不可能なのだろうかと、自問自答しそうになるのを、ぐっと抑えた。


 少年を元の人間に戻す方法を探しながら、彼を生かし続けることは、単に苦しみを長引かせているだけなのかもしれない。だからとて少年を捨て置くことなんて、できない。現王に命じられたからではなく、彼自身に誓って、できない。


 心身ともに傷だらけにさせてまで少年を歩かせ続ける事は、ブレッツェルが抱える苦悩だった。


「……ドクターを、迎え撃ちます。どうか耐えてください、ウィル」


 小さな体に鞭打って、再び大人の体に戻ろうとしたそのとき、近づいてくる足音と、クレアの鼻歌が聞こえてきた。


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