第15話   王の奴隷と、王の眷属

 勝手口を飾る鈴蘭の形をしたベルは、メイドのクレアが来訪者に気付いて出迎えるための物。そして廊下に転がった缶詰たちは、屋敷の主人をこの場へ呼ぶために。


 迷路のような廊下を、来たことがある道順だけを頼りに走り、以前クレアが案内してくれた扉だらけの小部屋に、ひとまず隠れた。


「油断しました。まさか好意を寄せた相手を苦しめて殺してしまう女性だったとは。魔法陣を壁に貼ったり、絵画に織り交ぜたり、屋敷の主人を嫌っているふうな素振りも、愛情表現だったんですね」


 少年もブレッツェルの言葉に、黙ってうなずいた。クレアとブレッツェルが会話している間、少年もずっとその様子を眺めていたから。


 未だ追手の足音は遠い。ドクターの深呼吸する気配が、耳をすませるブレッツェルに伝わってきた。


「先ほど私は、ドクター・ネガティブの序列が高いとお話しましたね。序列をつける基準は、私の一族の中でどれだけ人気があるかによります。例えば、あなたが私の一族の中でたくさんの支持者を得たとすれば、あなたの序列は高くなります。選挙みたいなものですね」


 絶対にありえないことを例えに出され、少年は複雑な心境だった。


「一代前の王が、大変横暴かつ凶暴な性格でしたから、その反動でドクター・ネガティブの序列が跳ね上がったのです。ドクターのお誘い一つで、悪巧みに加担する者は多いでしょう。いろんな意味で厄介な男なのです。現在の王とも不仲なのではないですか?」


 少年がぎょっとした。その意味に気づいたブレッツェルは、失言だったかと唇を掻いた。


「そうでしたね……現在の王には、貴方しかいないのでした」


 一族の王にして、序列最下位とは、前代未聞の危うい状況であった。いつ一族間で暴動が起きても不自然ではない。



 聞く者の神経を逆なでする、優しさを取り繕った声高さで、子犬を探すように呼びかけるドクター・ネガティブが近づいてきた。


「ああああああ、なんて良い匂いなんだ! 王の慈愛の花弁の香りだ。遠く彼方まで、芳しく香る。思わずお茶の時間を切り上げて来てしまった……」


 どうにも居場所が知られているようだ。この狭い部屋の中で遭遇しては動きづらいと思い、ブレッツェルは自ら廊下に出てきた。


 白衣に身を包んだ長身の男、ドクター・ネガティブが、ニヤついた顔で立っていた。鼻筋の彫りがとても深く、ちょっとした表情でも眉間に三本のシワが寄った。不健康そうな青白い肌だが、体格の良さと始終浮かべている笑みで、儚い印象は誰にも抱かれない。


 ドクターは目を閉じ、両手を広げて、あたりに漂う空気を、匂いを、胸が大きく上下するほど深く吸い込んだ。そして感慨深そうに、ゆっくりと開いた両眼は弧を描いていた。


 潰れてはいるが上等な革靴に包まれた、大きな足で近づいてくる。


「この肌の匂い、覚えているよ。王様のお友達の、ウィリアムくんだね? こんにちは、ずいぶん体が大きくなってるけど、どうしたのかな? きみは清らかな身体からだのまま彷徨い続ける、永遠の子供だったはずだよね?」


 子供の患者の体調を伺うような声色であるが、すらりと長い両腕を広げただけで廊下を塞ぐような威圧感、人外のみが纏う不気味な冷酷さが隠しきれていない。


「そして史上最高の、ご馳走デコイだ!」


 少年がおびえている。ブレッツェルは自身の胸に片手を添えた。歩みを止めず迫りくるドクターの圧を受けて、本能的な危機を感じて逃げ出そうとするこの人間の子供の体を、ブレッツェルがぐっと留まらせる。


「デコイだと? この体はすでに噛まれている。デコイには使えないはずだ」


 それまでの、少年を優しく励ましていた声とは打って変わり、厳格に規律を強行する高位者の気迫だった。ドクター・ネガティブのニヤついた顔が、驚きに染まる。


「そのお声は……! 十二代目の王、ルーカス様!」


 少年が眉をひそめた。


(ルーカス……? 今の王様と、同じ名前だ。それに、十二代目の王様って……)


 少年を支配している現王は、十四代目だ。少年がこの別人格を授けられた時、十四代目は、詳しい説明をしなかった。


『この人なら大丈夫。きっと助けになってくれるよ』


 柔らかな腕に抱きしめられ、耳元でささやかれた。窓という窓を黒いカーテンで覆った薄暗い部屋で、背の高い王がわざわざ膝を折ってまで、小さな少年の口元に己を差し出す。


 少年はうなずき、白いブラウスからのぞく青白い首に、そっと腕を回すと、熱い血脈走る王の首筋に唇を寄せ、小さな牙を突き立てた。


 初めての吸血は上手くできなくて時間がかかったが、王は待ってくれた。ブラウスの襟元が鮮血に濡れても、背伸びして頑張る少年の背中を両手で支え続けてくれた。


 王の慈愛と「頼りになる大人」を受け取った少年は、吸血鬼になって初めて、一人での外出を許されたのだった。



「長らくお話できないと思ったら、こんなにか弱く、呪われた子供の体に宿っていらっしゃったのですか。その体では、なんの力も発揮できなかったでしょう。何かの罰ゲームでも受けてらっしゃるのですか?」


「そのか弱く呪いも受けている子供に、なぜ貴様は執着している。他人のしもべを横取りするのは礼節に反する。それ以前にコレは王のモノ。永久とわに一族から追放されたいのか、ドクター・ネガティブ」


「ああ、あああ! 本物だ! 演技ではなく、本物の! またお会いできるなんて! 十二代目のルーカス様、貴方の代が一番平和で、愚かな時代でした。今も尚、あの古き良き時代を懐かしく思う気持ちで胸が溢れんばかりです!」


 両手を組んで歓喜するドクターに、ブレッツェルの片眉がつり上がる。


「愚か? 人間の女と同棲するお前と、何が違う」


「違いますとも! 何もかも、全く違う! 貴方様が一番よくご存知のはずだ。貴方は生贄の子供と心を通わせ、儀式を失敗した、そのあげくに子まで成してしまっただなんて! 『暴食』の我が一族の名が地に落ちてしまったこと、忘れてしまったとは言わせませんよ!」


 ブレッツェルが急激に苛ついたのが、少年に伝わった。


(子供? このお兄さんに、人間の奥さんがいたの?)


 吸血鬼と人間との間に子供ができるなんて、少年は初めて知った。飛び交う情報に目を白黒させていると、


「きみもだよ、ウィリアムくん!」


 突然ドクターに指をさされて、びっくりした。


「きみは男の子だから子供が産めない、だから今の王様へ献上されたのに、きみがお友達になったせいで今の王様は弱くて頼りない、お人好しになってしまったんだ。なんのためにわざわざ同性の子供を生贄に選んだと思ってるんだい!? みんなの努力が無駄になってしまったよ。悪い子だねぇ、きみは」


 少年は口をぎゅっと引き結び、理不尽な言い分に抗った。

 強張る少年の勇気は、ブレッツェルにも伝わった。


「不満がある割には、嬉しそうだな」


「ええ、もちろん! ウィルくんを人質にすれば、今の王の性格を逞しく矯正できることでしょう。私は良い治療法を試そうとしているんですよ? 悩める患者さん達のためにねぇ」


 そういうことかと、ブレッツェルは茶褐色の前髪を、片手で掻き上げた。ついでにおでこを掻いて、鼻筋を覆う白い湿布も無意味に触る。


「この少年をエサに、現王を退かせるつもりか」


「いえいえー、そんなまさかー」


「他にもミヒャエル・フランボワーズというデコイを調べているようだが、アレも貴様の患者か?」


「いいえ? やたら強くて美丈夫なデコイですので、ぜひ手元に欲しいな~と」


 そんな軽い気持ちで、あの隠し部屋を飾りつけたわけではないだろう。優秀なデコイを完全に己の僕にして、共に現王の打倒を企んでいるのだと思ったが、ブレッツェルは少年を安心させるべく、優しく語りかけた。


「ミヒャエルさんはまだ無事のようですよ。希望を持ってください、ウィル」


 序列最下位の現王のために、人質になるわけにはいかなかった。少年が力強くうなずき、その瞳に光が宿っているのを確認したブレッツェルは、負けられないと気合を込めた。


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