第14話   彼女の趣向について

 王からの慈恵をほどほどに受け取った甲斐あってか、いまだ少年の自我に影響は見られず、ブレッツェルと意思疎通ができるまでに保たれている。周囲の誰の耳にも少年の声は聞こえないが、ブレッツェルには、戸惑いもうなずきも、些細な動揺も、手に取るように伝わっていた。


 ……不穏な視線を肌全体で感じ、ブレッツェルは屋敷を包みこむ森の木々を見上げた。見覚えのある男が、木々をも飛び越える跳躍を繰り返しながら、こちらに渡ってくるのが見える。そのにんまり笑う顔が、嫌な予感を醸し出していた。


 悪意匂わす死神に遭遇した老人は、きっとこんな気持ちになるのだろうとブレッツェルはげんなりした。


「ああ、なんという……。移動時にわざわざ高く跳びはね、日頃の運動不足を解消しつつ、目撃者に恐怖と圧を与えるあの陰湿な男は、ドクター・ネガティブです」


 驚いている少年に、わかりやすく相手の情報を伝えた。


「彼の職場がこの森の付近にあったとは考えにくいです。王の恩恵の濃厚な香りに、鼻の良い彼は感づいたのかもしれませんね」


 視界の端にはバギーから血を垂れ流す謎の植物の束が、ぐったりと枝葉を垂れている。特定のしもべの命を繋ぎとめるためだけに生み出されたコレには、王の血液と魔力がたっぷりと染み込んでいる。魅了され、通い求めるあまりに低俗へと身を落とした魔物たちの数や多し。はたして美味しいのだろうか、舌と鼻が利かないブレッツェルには、判断ができない。


「あるいは、ご帰還の予定が早まったとか。どちらにしろ半分人間である貴方の体で彼と対峙するわけにはいきません。ドクターは王の身内であり眷属、序列も能力も高い。一方の貴方は、王の寵愛を受けてはいるものの、ただの奴隷です。逃げますよ、どうか弱音を吐かないで。貴方を失いたくありません」


 不安がる少年を激励し、ブレッツェルは走った。屋敷めがけて。


 少年は思わずブレッツェルの正気を疑った。逃げるのならば、森の中では。どうして再び屋敷の中へ。


(あ……そうか、クレアさんの洗脳を解いてあげたいんだ)


 置き去りにしたバギーのそばへ、白衣をマントのごとくなびかせてドクター・ネガティブが着地した。革の靴底が潰れたのは、その恰幅の良さだけが理由ではない。木々を超える高さから、急降下したから。


 彼ら吸血鬼は、驚異的に鼻が利く。どこへ逃げようとも、その足を挫かれるまでは、どこまでも追跡してくる。



 ひびだらけの温室の前を通過して、たくさんの鈴で飾られた勝手口へと、ブレッツェルは駆け込んだ。複雑に入り組んだ屋敷の内部を、全て把握できてはいないが、ある程度は記憶している。


 賑やかな鈴の音色で鼓膜がひりつくのを涙目で堪えて、クレアを捜した。最寄りの部屋から物音がして、ブレッツェルは声をかけた。


「クレアさん、旦那様が戻られました」


「あら、おかえりなさい、ブレッツェル。なにをそんなに慌てているの?」


 クレアが大きな缶詰を抱えて、部屋から出てきた。大きな缶詰の上に、大きさ順に小さな缶詰が積み上げられている。落としたら廊下が散らかりそうな量だった。


「ふふ、恥ずかしいわね、これが夕飯の支度したく。ご覧の通り、缶詰よ。本当は私、お料理全般が苦手なの。お掃除だって下手だし。それでも一所懸命にこのお屋敷を整えているの。ほんと、いくらやっても慣れなくて、一日中かかっちゃうくらい」


 初めて微笑んだときのように、クレアがはにかんでいる。その笑みに、ブレッツェルは近づいていった。


「クレアさん、お顔にゴミがついていますよ。今お取りしますから、しばらくじっとしていてください」


「あら、そんなこと言って、せっかく掛けてくれた素敵な洗脳を解いてしまうの?」


 クレアが無邪気に笑いながら、軽やかな足取りで距離を取ってきた。じっとしてくれないと、ブレッツェルは洗脳を解いてやれない。


 ドクター・ネガティブが屋敷内に入ってきたのが、可憐な鈴の音色でわかった。ブレッツェルは、やむを得ないとクレアの洗脳を解くのをあきらめた。今は少年を守ることが大事だ。


「クレアさん……事情をお察しなら話が早いです。この際、旦那様を適当に足止めして、僕が逃げるまでの時間稼ぎをしてくれませんか? 僕はこの屋敷から何一つ持ち帰らないと誓うし、何を見たかも誰にも言いませんから」


 洗脳が効いている相手ならば、喜んで協力してくれる――そのはずだった。


「ええ、そうでしょうね。やろうと思ったって、あなたにはもう二度と、絶対に、できないもの」


 クレアが目を細めて、嗤った。


 ブレッツェルが目尻を吊り上げ、数歩下がった。


「どういう意味ですか?」


「私、あなたが旦那様よりも能力的に高い吸血鬼だというのは、なんとなくわかってたの。洗脳されてる自覚もあるし、優先順位も、誰よりもあなたが高くなってるわ。愛しいあなた、、あなたには苦しんでもらいたいの」


 彼女が笑うと、持っている缶詰たちも振動でカタカタ鳴った。


「旦那様がどうして私を屋敷に置いているのか、考えたことはあるかしら。雇われるほどの家事らしいこともできず、身寄りのない女性患者ばかりを世話し、錆びた鋏に愛された私を見て、どう思われまして?」


「奇妙だとは思いましたね。納屋にあった鋏は、もしや人間用に使用されていたのではありませんか?」


「ふふふ。ええ、私ずーっと、ここで治療中なの。誰かといると、絶望に叩き落としながら斬り裂きたくなっちゃうから」


「……重症ですね」


 ブレッツェルは彼女の腕の中の缶詰と、己の距離を目視で測った。少しずつ、後退りする。


「僕との休憩時間に、問題を起こして街にいられなくなったと言っていましたね。傷害事件のことだったんですか」


「ふふ、誰でもいいわけではないのよ? 私が好きになった人にだけ。それに私は、人のステキなところを見つけるのがとっても上手いって、小さい頃からよく褒められてたの」


 クレアの顔から、笑みが消えた。


「私は彼のメイド従者であり、患者であり、そして妻よ。愛する人に危害を加えずにいられない、そんな私を、旦那様は受け入れてくださったの。と言うわけで、ごめんなさいね、あなたに協力はできないわ」


 彼女は細腕に抱えた缶詰を、全て床に落下させた。中に小石が入った、特注品の缶詰たち。金属同士がぶつかり合い、けたたましい音が鳴り響いた。


「今の私は、あなたを愛しているわ。でも私には吸血鬼のあなたを殺す力は持っていない。だから代わりに、旦那様にズタボロにされてちょうだい」


 少年を避難させるべく、脱兎の勢いで廊下のかなたへ走り去ってゆくブレッツェルの背中に、クレアの真っ赤な口紅に彩られた口角が、吊り上がった。


「あら、足の速い。どこへ隠れるおつもり?」


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