第13話   彼女の楽しみ

 クレアはよく乾いたシーツを大きな籠に入れて、廊下を歩いていた。前が見えないほどだったが、勝手知ったる主人の屋敷、転ぶことなく目当ての部屋へと入っていった。他の部屋の半分ほどしかない、一人になるにはちょうど良い、アイロン部屋である。


 鉄製のアイロンは冷たく、重たく、熱するためには石油ストーブのツマミを回さねばならない。ぴ~という不思議な音を響かせながら、ストーブの耐熱硝子越しに青い炎がわずかに踊る。


「良いお天気でしたわね。それに、私の選んだお菓子を美味しそうに召し上がってくれました。旦那様は多忙で、なかなかお時間が取れませんし、久しぶりの楽しいお茶会が開けて嬉しかったですわ」


 クレアは窓の薄いレースのカーテンを、そっとめくって温室を眺めた。以前よりもぼろぼろになった、硝子の屋根と壁が。そして鼻歌を空に向かって捧げる庭師の姿があった。あの短時間で、どこから集めてきたのやら、様々な種類の草木の残骸をこんもりと載せたガーデンバギーを、軽々と転がしている。


 主人が庭師を必要としていないのは、クレアも知っていた。ここはクレアのためだけの屋敷だから。そして主人が彼女のそばに、他の男を寄越すことなど、絶対に無いのだから。


 ブレッツェルと初めて会ったあの時から、その血生臭さ、その土と血液で汚れた着衣で、彼が吸血鬼であると気づいた。迷い込み、弱っていることも察した。洗脳を受けて、青年をとても愛おしく感じた瞬間は、今思い出すだけでも胸が高鳴る。


 だから――嬉しくて、主人に伝書鳩を飛ばすことにした。鳴きもしないおとなしい鳩だが、念のために大きなシーツの中に鳥籠を隠して、じゃぶじゃぶと音を立ててシーツを洗う片手間に、鳥籠を開けて空へと飛ばした。


 これで、明日帰宅する予定の主人が急いで駆けつけてくれるはず。そんなことを思いながら窓を眺めていた。


 青年と目が、合った。


 彼は機嫌良く口角を吊り上げてみせる。


「その部屋なら、僕の仕事ぶりがよく見えるでしょう。御覧の通り、きっちり働いていますよ」


「後ろの温室がめちゃくちゃに見えますけど、植物とケンカでもしたのかしら?」


 バギーの上で揺れる植物が、鮮血に似た樹液を流している様子に、クレアは頬がゆるんだ。彼が何事か温室をいじくっていたのは知っていたが、隠しているようだったので、今まで立ち寄らないでおいた。それが今、こうして取り返しのつかない事態に実を結んでいる。


「旦那様は庭師の貴方を雇うくらいには、草木に関心があったと思いますわ。温室に無関心でいらしたけれど、完全な廃墟にしろともおっしゃいませんでした」


「枯れかけた植木鉢を放置しているお人です。古びた温室の再建などという高度で高尚な目的ではなく、まずは窓辺に咲いた一輪の花と、それを活ける花瓶を選ぶところから始めるのを、お勧めしたいですね」


「ふふ、旦那様が共感してくださればいいわね」


 部屋が温まってきた。


 でもまだストーブが、アイロンを温めるほどの充分な熱を上げていない。


 クレアが目を細めて微笑む中、庭師が一礼し、バギーを運んでゆく。ああ、きっともう、戻ってこないのだと思った。主人が戻ってくる姿も見えない。


「ブレッツェル、貴方を旦那様に会わせてあげたかった……」


 古びた窓枠に肘を乗せ、ふぅとため息一つ。ふと、視界の上部に動くものを見つけて、亜麻色の睫毛に縁取られた両目を森の彼方に向けた。奇妙な動きをする鳥があるものだと――そして、だんだんと見覚えのある四肢の長さと、漆黒色の長い黒髪が輪郭を主張し始め、さらには特注品の大きな日傘と医療従事者のロゴマークが入った白衣が見えてきたとき、クレアは歓喜の悲鳴を上げた。


「ああ旦那様!!」


 薄桃色の肌を上気させて、両手を胸に押し当てた。


 ストーブが充分な熱を上げている。


 クレアはブレッツェルが去っていった方角を、腕いっぱいに表現して見せた。主人がそちらの方角へと進路を変えて、窓から見えなくなった。


「うふふ、私も急いで支度しなくちゃ!」


 アイロン台にシーツを載せて、熱したアイロンを片手で持ち上げると、丁寧にしわを伸ばしていった。この真っ白な雪原に、鮮血を散らして眠る青年の顔を、優しく包み込んであげる構図を想像しながら。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る