第12話   わたしを喰らった男

 いつの間にやら、ぼんやりとする頭で見下ろしていた。いつ目覚めたのか、とか、いつ着替えたのか、とか、そもそも自分はどんな寝間着で眠っていたのか……とか、考えていたら、頭がふわふわしてきた。


 いつもの部屋で目覚めたけれど、それは朝の目覚めではなく、意識が戻ってきた感覚に近かった。


 ……何かが自分の中でたくさん、欠けている。


 たとえば、たとえが上げられないこと。それぐらい無くしている、その漠然とした感覚のみが、大きな気泡のように、自分を形作っていた。

 無くしている。

 もうナイ。

 なにがナイ。


 わからない。


 薄暗い部屋に、手錠付きの質素な寝台と、かろうじて痩せた人間が通れそうなほど細長い窓がある。窓は割れていて、引き裂かれて短くなったカーテンが、風に押されて部屋の中へと揺れている。


 日差しを浴びる温室が見える。あの温室が、呼んでいる気がする。でも、なぜだか窓からは出る気になれない。窓を割って逃げたって、誰かにすぐに捕まってしまう。いつだって捕まり、またこの部屋に戻されていた。


 そんな気がする。


 きっと、後ろにある扉から出入りするべきなのだと、少女は判断した。扉に近づくだけなのに、足がふわふわして少し時間がかかった。くすんだ金色の取っ手にのばした白い手の先が、扉を突き抜けた。


 今まで、どうやって取っ手を回していたのだろう。記憶はおぼろげで、それがどんなに不自然なことでも、思い出そうとする努力すらすぐに手放してしまうほど、思考できない。


 そのまま歩いて扉をすり抜け、廊下に出た。蔓模様の深い緑色の絨毯が、長い廊下を覆っている。


 古風アンティークな給仕服に身を包んだメイドが、銀色のティートロリーを押しながら歩いてくるのが見えた。トロリーにはクッキーの少ない大皿と、赤い薔薇が描かれた陶器のティーポット、それとカップが二つ載っていた。食べ終わった後のようで、お皿にはカスがこぼれていた。


 少女はメイドが一瞥いちべつもせずに通り過ぎてゆくのを見送った。見覚えのあるメイドだが、名前が思い出せない。


 思い出した先で、何が待っているのかも、

 わからない。

 なにも、わからない。


 廊下は左右にのびていた。そして正面の壁一面には、奥行きがさらなる別世界へと誘いたがっているような、巨大な風景画が飾ってあった。


 柔らかい輪郭でふわふわと描かれる、鮮やかな花で天井まで埋め尽くされた温室の絵。


 少女は手をのばし、絵の中へと入っていった。すり抜けた先には、また同じような廊下と、花の種類が違っているだけの同じ構図の風景画が壁一面を覆っていた。


 高価そうな風景画を、たくさんたくさんくぐり抜けた。風は吹かない。亜麻色の髪もなびかない。


 少女は行き先もわからなくなり、ぼんやりと草を踏んだ。少女の足では、若い草の葉の先も揺らせない。


 もう、だれの気も惹けない。



 枯れたままだった温室が、主人の指示した覚えのない真っ赤な薔薇の大輪を大量に咲かせていた。勢い余って花びらをすべて散らしてしまった植物もある。


 少女はおぼつかない足取りで、惹き寄せられるように違和感へと近づいていく。


 青空の下、麦わら帽子をかぶった庭師が、鼻歌まじりに鉢植えを抱えて歩いてきた。土入りの、とてつもない重さの巨大な鉢を、たった一人の腕だけで。


「こんな辺鄙な場所では、娯楽どころか食事の材料を買い求めるだけで苦労します。それでも屋敷の住人がこの場所を選んだのには、もっとたくさんの理由があるはず」


 庭師は温室の手前に鉢植えを置いて、一休み。硝子の壁に背を預けて屋敷を眺めた。


「こんなに湿気のすさまじい場所に、たった一軒、豪邸が建っているだけでも充分に不思議です。さらに屋敷の周辺に植えられた木々は、魔除けに効果のあるヒイラギです。この屋敷は、いったいなんのために建てられたのでしょう。大勢の女性が、悪しき存在から守られて暮らしていたのでしょうか」


 魔除けに効果のある木々を背景に、青年はどこ吹く風で屋敷を眺めている。


「この体は人間ですから、魔除けの類は効きません。もしもこの屋敷が必要とされた絶世期に私が訪れ、そしてこの鼻が効いていれば、どんな香りがしたんでしょう。冷静さを保つに苦労するほど、美味しそうな匂いというものを一生に一度で良いから嗅いでみたいものですね」


 庭師は再び鉢植えを抱え上げると、温室の周辺を少しうろついた。やがて日差しの当たる適当な位置に、静かに鉢の底を着けた。


「これでよし。ここが、ちょうどいいです」


 場所が決まり、庭師は鉢植えにしゃがんで、たった一つの小さな蕾に微笑んだ。ほとんど枯れた状態での、奇跡的に発生した薄桃色の蕾だった。


 あれは、屋敷の勝手口を隠すためだけの、でかくて粗末な鉢植え。少女が館に監禁される前から、ずっとそこにあった物だ。いつも少ない日差しを必死に浴びようと、小さな背丈をのばして、日陰の隅でがんばっていた。


 街の目立たない片隅に立ち、露出の激しい服装で客引きをしていた頃を、少女はわずかに思い出したが、すぐに忘れてしまった。


「ゆっくりでいいので、綺麗に咲いてくださいね」


 温室内では巨大な草花がひしめきあっている。この鉢の子は、温室の外で日光を独り占めしていた。



 納屋から大きな剪定鋏を持って、赤茶色の敷石に落ちた花弁を踏みつけながら、青年が温室の中に入っていく。のびのびと枝葉を伸ばす薔薇たちを、さっそく形良く整えていく。その鋭い鋏の鳴るのを聞きながら、少女もそっと温室の硝子の壁を、通り抜けた。


 むせかえるような密度で生えている植物の隙間から、青年に近づいていった。高い鼻筋に白い湿布を貼っていても、青年の横顔からは匂うほど妖艶な雰囲気が漂っている。


 まるで、人という概念と時間の鎖から、解き放たれているかのような。


 青年のすぐ隣りまでやってきた。彼なら、不思議な状況にある自分を助けてくれそうな気がした。


 しかし、もう、だれの気も惹けない。


 そのはずなのに、温室の中で鼻歌をたしなむ青年は、手にした鋏をひょいと上に傾けて、草花の枝を切り落としていた手を止めた。


「ごきげんよう。どうかいたしましたか?」


 青年は天井に吊された鉢植えから延びる蔓薔薇に向かって、笑顔で片手を振った。空っぽだったはずの鉢植えに、あふれる緑が床まで届いている。


「声が出ないのは、貴女だけではありません。人魚も陸に上がったら声が出ないのです。水中でないと、喉が潤わないからですよね?」


 青年の指に絡め取られて、花と鉢がぶらぶら揺れる。


「たしか、そんな物語だったと思います。すみません、うろ覚えなんです。でも、たしか、人魚姫が幸せになれなかったのは、はっきりと覚えてるんですよね~。ああ、すみません、また一人でべらべらと。申し遅れました、私はこの屋敷の庭の手入れを任されております、ただの庭師です。お嬢様、咲いてしまったからには、この私の長い長いお話の聴衆に、加わっていただきますよ」


 なんの役になりきっているのやら、青年は鼻筋の白い湿布が痒いのか、ぽりぽりと掻きながら話を続けてゆく。


 ふと少女は、汚れて濁った硝子越しに、遠く湖があるのを捉えた。誰かが、浮いている。


「あの周辺を走っていた女性は、ずいぶんさぶそうな格好をしていました。夏のせいですかね。あまりに空腹だったので、はっきりと覚えていませんが、夏を理由にしても布一枚はいささか妙な格好に思います」


 いつの間にか青年が、少女の斜め後ろに立っていた。灰色の作業着の袖からのびる腕は、泥だらけだ。


「あれだけ鼻を近づけても、良い匂いか、そうでないかの違いがわかりませんでした。でも、舌触りならわかります。脂の乗った、それでいてさらさらと流れる水のような舌触りが若い人の特徴です。しかし私には味まではわかりません。舌もイカレてるんです」


 青年が少女の背丈に合わせて、少ししゃがんだ。


「匂いも味もわかったら、どんな味がしたんでしょうね」


 べーっと真っ赤な舌を出して見せた。人間にしては異様に分厚い、長い長い舌を、小柄な少女にも見えるように。


 青年は明らかに、少女の姿を目視していた。


 舌には青銀色の墨で、魔法陣らしき模様が刻みつけられていた。唾液が舌先から滴る前に、青年は舌を引っこめると最高の苦笑で立ち上がった。


「匂いも味もわかったら、きっと貴女の血で満たされようとは、思わなかったでしょうね……」


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