きみを離さない
船に乗りたての頃、雪愛は誰の部屋に入るのも躊躇しなかった。声掛けどころか、ノックもせずに入ってしまう。自国では誰かが雪愛の部屋を訪ねてくることはあっても、その逆は殆どなかったせいだろう。桜海は全く気にも留めずに受け入れてくれたが、他はそうもいかず、リノに諭され、アンソニーに叱られ、「扉を開ける前にノックと声掛け」がようやく染み付いてきた。
ただ、桜海の部屋だけは例外だ。
「桜海、さっき聞いたんだけど、……と、」
部屋の中が無人だと気付いた雪愛は、磨きが行き届いたドアノブに掛けていた白い指先で唇をひと撫でする。玖乃に毎晩手入れされている桜色の唇は、乾燥しやすい時期だというのにひび割れひとつなく、艶と柔らかさを保っている。
船長室の一番奥、この船で特別立派な椅子は、雪愛が選んだもの。座り心地が気に入っているらしく、桜海は喜んで使ってくれている。そのお気に入りの場所にいない彼女に、雪愛は首を傾げた。
甲板にいただろうか。それなら別にいいか。大した話ではないが、少し共有したかっただけだ。わざわざみんなが居るところで話す内容ではない。単純に、顔が見たかった、ただそれだけでもあるが。
行き場を失った脚が、ゆっくり船長室の絨毯を踏む。毛足の長い上質なそれは、足音を全て吸収する。
部屋に広がる香りは、リノが定期的に生ける花のもの。だからこの部屋と談話室は、いつも同じ匂いが充満している。
革張りのソファにも、金貨や宝石が散らばる机にも目をくれず、壁にかけられた鳩時計の隣のドア ――この部屋の入口より随分質素なつくり―― をゆっくり開けた。船長室の隣は、桜海の自室だ。
残念ながらそちらにも探し人の姿はない。彼女がこの部屋を使うのは寝るときぐらいだから、当然だ。端正な眉を潜め、息をつくほんの少し前に、雪愛の鼻腔をくすぐる爽やかな香り。雪愛がこの世で最も愛する、桜海の香り。
じくり、疼く胸に、雪愛は目を閉じる。
かつてはこの香りに包まれて眠るのが一番幸せな時間だった。兄の目を盗んで重ねてきた逢瀬の数は、もう忘れてしまったけれど、月夜に照らされる彼女の濡れ羽色の髪の美しさは、今でも鮮明に思い出せてしまう。
もういっそ、消してしまったほうがいいのかもしれない。
頼りないこの胸が痛む度に、どうにかしてこの記憶だけを取り出してしまえないか。これほど愛しく美しい記憶だというのに、今は凶器でしかない。心も身体も、形のない記憶に引き裂かれてしまいそう。宝玉のように煌く大切な思い出だというのに、胸の中にしまいこんだままでは、黒く澱んで、いつか割れてしまう。その時はきっと、雪愛が壊れるときだ。
そんな取り留めのないことを考えては、ますます自分のことが嫌いになる。
女性の姿のときは女々しい言動が格段に増えるが、性別に関係なく根底は同じだ。表には出さないが、いつも情けないことばかり、ぐるぐる頭を支配している。強がって、吐き出すのを堪えているだけ。
「ほんと、情けない」
自嘲し踵を返しかけるが、ベッドの上に放り投げられたワイシャツが目に入り、ようやく彼は穏やかな色を目元に滲ませた。くしゃくしゃなそれは、桜海が男性のときに着ているものだろう。昨日着ていたものを洗濯に出し忘れたのか、それともまだ着ようと思っているのか。後者なら、あのままでは皺になってしまう。もう遅いかもしれないが、畳むぐらいはしておこうと、部屋の中に迷いなく入った。
歓迎するように、愛しい香りが雪愛を包む。自然と口許が緩んだ。
これだから困るんだ。どれだけ悩み苦しもうとも、些細なことで満たされる。こんな単純な身体のくせに、捨てたい、だなんて、本当馬鹿のようだ。
大小様々な宝箱を、慣れた足取りで避けながらベッドまで辿り着く。シーツはつい先日洗ったばかりで、眩しいほどの白さだ。黒いワイシャツが異様に暗く見える。雪愛はベッドに腰掛け、綿生地を撫でた。少し毛羽立ってきている。
「今度買ってきてあげようかな」
時間が合えば一緒に街を歩くのもいい。最近は二人きりでいることがめっきり減っているから、たまには共に過ごしたいと願った。シャツを目線まで持ち上げて、釦が取れかかっていないかを確認する。細やかなことにあまり頓着しない人だから、いつだって目が離せない。
すう、と吸った空気に混じる、潮の香りと仄かな苦み。桜海の香り。
「……
匂いが移るほど近くに、もう居られない。居させてもらえない。
雪愛はシャツを抱いたままベッドに横になった。当然、濃くなる彼女の香り。薄い目蓋を閉じると、白磁の頬に睫毛の影が落ちる。昏い世界で、そう、と息を吸う。呼吸は、生きる為に必要な行為だ。なら、自分は一体何の為に生きているのだろう。
「おうみ」
簡単だ。この名前を、今日も明日も呼び続ける為に他ならない。
たとえこの先、この身に巣食う呪いとやらが幾千の言葉を奪ったとしても、桜海の名前だけは渡さない。恋しい想いを声に乗せられなくとも、愛しい感情と共に抱き締められなくとも、その分の情念を込めて名を呼ぼう。
きっと、彼女になら、それだけで伝わるから。
「でも……足りないな」
雪愛は膝が腹につくまで曲げて、丸まった。口許にはシャツを押し付けたまま。少し足許が冷えるが、気にしないまま身体から力を抜いていく。目蓋の裏で、いつかの彼女が笑った。シャツに隠れた唇が、ゆっくり弧を描く。
求めてばかりの自分を、どうか赦して欲しい。なにがあっても、嫌いにだけはなって欲しくない。あなたが笑う時、隣に居るのはおれがいい。
いつかまた、手を繋いで抱き合って、キスをして、それから……。
「雪愛」
名を呼ばれ、は、と顔を上げる。ベッドの脇にしゃがんだ桜海が、組んだ腕に顔を乗せて雪愛を見つめている。深海色の目が、ゆるり、緩んで「疲れているのかい」あまりにも優しい声で紡ぐ。甘くて、このまま溶かされてしまいそう。
「桜海のこと、考えてた」
「そう。ボクも、雪愛のことだけを考えているよ」
桜海が僅かに首を傾げると、青みがかった黒髪が夜空を彩る星の川の如く揺れる。雪愛は手を伸ばしかけて、やめた。また叱られてしまうから。別にどうってことないが、あまりしつこくしすぎて厭がられでもしたら、怖い。
「それ、ボクの服だね」
「え? ‥‥…あ、うん、ごめんなさい」
「何故謝るの。どうせボクのものは、きみのものだよ」
雪愛は嬉しくなって、シャツを更に強く抱き締めた。皺になってしまっただろうから、洗ってあげよう。洗濯なんてしたことがないのに、そんなことを考えた。
「嫉妬、したんだ」
「きみが? 誰に?」
「おれが、シャツ一枚に」
「なんだいそれ」
桜海は可笑しそうに小さく噴き出して、ベッドに腰掛けた。雪愛も隣に座りたかったが、身体が重くて起き上がれない。なんだか段々、目蓋が重くなってきた。睡魔を振り払いながら、転がったまま桜海を見上げる。
「きみはボクに着られたいのかな」
「どうだろう。それぐらい近くに居たいって意味では、そうかもしれないね」
「雪愛、きみはボクのアクセサリーではないんだよ」
はた、ぱた、雪愛の長い睫毛が、まるで蝶の羽ばたきのように揺れる。
「だから、こんなものに嫉妬なんかするなよ」
雪愛の腕からシャツが奪われる。遠ざかっていく桜海の香り。
「ボクはきみを侍らせたいわけじゃない。他の誰かの目に留まるくらいなら、いっそ隠しておきたいとも思っている。だってきみは、美しすぎるもの」
「(あ、れ……?)」
違和感を覚えて、すん、鼻を啜る。こんなに傍にいるのに、潮の香りも仄かな苦みも感じない。なにより、桜海は雪愛に「美しい」とは言わない。煩わしい呪いで息を止められるまでもなく、彼女はそんな言葉では雪愛を褒めないのだ。
彼女の腕が、ゆっくりと雪愛に伸びる。重い身体では避けることも出来ない。
「愛してるよ、雪愛」
頭に触れた掌に、熱がない。
「……ッは、」
苦しい。文字通り飛び起きた雪愛は、胸許を掻き毟るように抑えて背中を丸めた。鼓膜に張り付いた愛の詞が、雪愛の喉を締め上げた。こんなにも望んでいるのに、どうしてこんなにも心臓が逸るのだろう。乱れた呼吸を整えながら、膝に額を押し付ける。
「あ、」
見覚えのある青いコート。腰から下を覆うように掛けられていたそれの心地好い重みに、一気に鼓動が落ち着いた。
「なにか、悪い夢でも見たのかい」
「……桜海」
ソファに座っている桜海が、心配そうに眉を下げる。長い脚を組み直して、ただ雪愛の言葉を待つ。
「悪い夢……ではなかった筈なのに」
海に出たばかりの頃、雪愛が仕立てたフロックコートを、シャツと共に抱き締める。
「何故だろう。たとえ夢でも、本物のあんた以外に、触れられたくないと思ってしまったみたい」
桜海は顎に手を当てて、空を見つめた。
「きみはいつも、人に赦しすぎていると思うけれど」
雪愛は、船員との距離が近い。元々、気が置けない友人が少なかった反動なのか、桜海が思わず間に入りたくなるような態度を取ることがある。
「意味合いが違う。わかっているくせに」
「ごめんよ。つい、ね」
雪愛の柳眉が寄っても、桜海は軽く手を振って笑うだけ。
「そっか。夢でも厭でいてくれるんだ」
「……桜海は、違うの?」
「どうだろう。ボクはあまり夢を見ないから、考えたこともないよ」
桜海は組んでいた脚を崩して、ソファに背を預けた。視線は雪愛に向けたまま。
「夢の中のボクは、ボクじゃないのかい」
夜の水面色の目が問いかける。雪愛は抱えた膝に頬を預けた。
「うん。違うよ、全然」
名前を呼ぶ声の甘さ。雪愛を見つめる目の色。縋りつきたくなるような香り。それに、朧気に覚えている掌のぬくもり。どれも、夢は越えられない。
「ねえ、桜海」
伽羅色の髪が、頬を滑る。
「おれのこと、どう思ってる?」
ゆっくりと、一度だけ、蝶が羽ばたいた。幾人をも視線だけで魅了してきた蠱惑的な飴色が、桜海を貫く。
「どう、って」
雪愛は動かない。自然と色付いた果実のような小さな唇を、きゅ、と閉じている。桜海は上体を傾けて、膝に肘をついた。
「今のボクでは伝えきれないのが、酷くもどかしいよ。ただ……イキシアを贈りたい、かな」
「……それも、花?」
「ああ。リノにでも聞くといい」
「ふーん……」
桜海はよく花の名前を口にするが、雪愛は西のそれらには精通していない。いつもリノに図鑑を見せてもらうか、次の島で花屋を覗くようにしている。
実は殺風景なこの部屋にも、花の本があるのだが……それは桜海とリノしか知らない。
「今日、ここで寝てもいい?」
「いいよ。ボクはソファで寝るから」
「それじゃあ、意味ないのに」
「知ってるさ」
舌を出した雪愛を、桜海は月を溶かした瞳で見つめた。
リードエンゲージ 水鳥彩花 @mdraaa
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