二日月に目隠し
ベッドに潜って、一体どれだけの時間が過ぎただろうか。アズは寝返りを打って、ちっとも眠気が襲ってこない頭に手の甲を当てた。大きく息を吐き出したい衝動を堪えて ――同室の黄鈴が起きてしまうかもしれない―― そうっと身体を起こす。
音を立てないようにハンモックの下をくぐり、部屋を出る前に同室の黄鈴が起きていないかを確認する。静かに上下する胸に安堵し、ドアを開けた。その背中を見送る濁った赤茶色には気付かないまま。
****
アズが甲板へ出ると、丁度月が雲に隠れていた。目が慣れるまで、ドアの傍に身体を預けて目蓋を閉じる。海辺の島に住んでいたというのに、夜の潮風を味わうのは初めてだ。と、アズは胸いっぱいに海の香りを吸い込んだ。少しべたつくけれど、どこか澄んだ冷たい空気。
「はぁ……」
これからはこの風が、アズの日常になるのだ。まだ慣れるには時間が掛かりそうで、眉を下げる。
その瞬間、何故か辺りの温度が一気に下がる。先ほどまで甲板へやってきたアズを歓迎していたかのような柔らかな風に、肌を刺すような鋭さが混じった。それはほんの一瞬のことで、月が顔を出すと同時に止んだ。目蓋の裏を彩る月灯りに誘われ、ゆっくり目を開けた。二日月の柔らかな光が、船を包み込んでいるように見える。その光に一際照らされている背の高い見張り台の上で、影が揺れた。
「眠れないのかい」
上空からの声の筈なのに、低く響く甘い声はアズの耳朶を撫でた。
影が消えた、と思った瞬間、音もなく目の前に桜海が現れた。ひっ、と上げかけた悲鳴は喉の奥を空気が通り抜ける寸前で桜海の手によって遮られる。成人男性特有の節ばった硬くて大きな手。
「起きたら大変だ」
辺りはようやく寝静まった頃。一番星が綺麗に見える時間、不寝番の桜海以外は夢の中のはずだ。ここにいるアズだけが例外で。
首を思いっきり反らさないと見切れる見張り台から、音一つ立てることなく飛び降りた桜海は、アズが何度も頷いているのを認めて、いい子、と唇だけで囁いた。
「きみの気配にはまだ慣れていないから、ごめん」
甲板に出た際に向けられた殺気のことを言われているのだと気付いたアズは、口元を抑えたまま首を横に振る。
目よりも、空気の動きで人を捕らえる。この海の上で名前を轟かせるほど場数を踏み、その分だけ船を沈めてきたものだからできる芸当は、アズには到底出来そうもない。
「声、大きくなければ平気」
声を出さないよう口を抑えていた手を、桜海がつつく。昼間だと深い海の底と同じ色をしている彼女の目は、夜空をそのまま切り取ったような色合いと煌きを併せ持っている。いつまでも見ていたい、と思わせるような魅力的な光。
「おいで」
きっと桜海は、相手がアズでなければ声なんて掛けなかっただろう。こうやっていちいち導くように手をとってもくれなかったはずだ。この船には、自分の頭で考えて決めた道を真っ直ぐに進んでいける人たちが集まっているのだから。
「折角だから、上ってみな」
「いいの?」
「ああ」
見張り台へと続く梯子に手を掛ける。ひんやりと冷えた手摺を一本一本握り締めながら上っていく。やはり夜はまだ冷える。吐く息が白い。他の人よりも倍以上の時間をかけながら上り、ようやく見張り台へ脚を踏み入れたときには、思いのほか息が上がっていて、頬が熱くなっているのが触らなくてもわかった。
「大丈夫かい」
後ろから追っていた桜海はいたっていつも通り。肩で息をしている自分とは大違いだ。
「アズはもう少し体力つけないと」
「充分、理解してます」
見張り台は、アズの腰ほどの高さの手摺で囲まれている。桜海はそこに引っ掛けていた青いフロックコートをアズの肩に羽織らせる。桜海が女性のときに着ているものだ。
「これ、」
「海風に慣れてないだろ」
確かに肌寒いと思っていたが、それでは桜海がワイシャツ一枚になってしまう。流石に釦は胸元までかっているようだが。
「これくらいなら全然問題ないさ。海にも潜れる」
「風邪引いたら怒られるよ」
「それはきみも同じ。アズが風邪引いたら、ボクが怒られるな」
何故上着を貸さなかったのか、そもそも見張り台に乗せるなんて。怒ると声がワントーン下がるトニーが、淡々と桜海に言葉のナイフを刺している姿が容易に想像できて、思わず小さく笑う。
「トニーは怖いから。どうせボクは着ないし、それならきみに使ってもらったほうがいい」
違う? 首を傾げられてしまえば、頷く以外ない。大人しく袖を通すと、本当に着ていなかったのか、布は冷えきっていた。
「そういえば・・・…男のときは、着てないね」
女性に合うよう作られた細身のコートだが、桜海より身体が小さなアズは問題なく着られる。
「サイズがな」
男性の桜海は、元が女性だとは到底思えないほど理想的な体格だ。背も高く、バランスよくついた筋肉、特に腹筋は芸術品の如く見事に割れていて、男であるアズでさえも惚れ惚れするほど。
「男性用も作ったらいいんじゃないの」
真っ青の生地に銀糸で施された見事な狼の刺繍のコートは、一目で
期待で目を輝かせるアズとは打って変わって、桜海の反応は鈍い。困ったように眉を寄せ、小さく唸る。
「うん、まあ、それだと、わかってしまうだろう」
「紺碧だ、って?」
「そう。それは、不味い。この姿のボクは表に出ないほうがいいから」
手摺に腰を預けて桜海が笑うと、また月が雲に浚われた。アズは桜海の言葉を上手く噛み切れず、眉を寄せる。
「言いたいことがあるなら、口に出したほうがいい」
溶け始めたビターチョコによく似た声は、アズの背中に手を添えてくれるような優しさと暖かさがある。出会って間もないというのに、何故か懐かしさを覚える声音に胸がむず痒くなる。
「じゃ、じゃあ・・・…」
聞きたいこと、伝えたいことは沢山ある。溢れすぎて選べないほどに。興奮で頬を染めるアズの横で、桜海は自身が持つ深海を目蓋の裏へ隠した。
「男性のときって、女性のときより、やっぱり、強い?」
結局うまく選ぶことが出来ず、待たせるわけにもいかないと口から飛び出したのは、直近で疑問に思ったことだった。
何故航海を始めたのか。どうしてそんなに強いのか。実はカナヅチって本当なのか。立て続けに投げつけそうになる数多の疑問たちを手で押さえつける。そんなにいっぺんに投げかけても、桜海が困るだけだ。ひとつずつ、知っていきたい。大好きな彼らのことを、彼らの口から。それはどれほど幸せなことだろうか。
抑えた口から笑い声が零れそうになるのを堪えて、桜海を見上げる。
「……桜海さん?」
彼女は曙光煌く目を瞠り、口を小さく開けてアズを見つめていた。目には大きく「驚いた」と書かれている。そんな顔をさせる原因が思いつかず、アズは心臓に冷水を掛けられたような悪寒を感じ、身震いする。
無意識のうちに何か気に障るようなことを言ってしまったか。ここに来て常に興奮状態にあるから、記憶が飛んでいても不思議ではない気がする。
「あ、ははっ」
「うぇ……」
記憶の湖を必死で掻き分けつつ、暫く端正な顔を「いやぁ、やっぱり月にも負けない美形だなぁ」などと眺めていると、急に桜海が破顔した。笑うと彼女は、幼い少女が見せる無邪気さと純真さが溢れ出す。それは男性の姿でも変わらない。
「ごめんよ。アズは本当に、……」
目にかかるほど伸びた前髪を桜海がわける。この船に乗ってからはシエナ色のサングラスに遮られることのなくなったアズの目が、月明かりを反射した。それはあまりにも美しい、星を嵌めこんだ金の瞳。
「本当に、いい子だ」
桜海はアズの前髪が目に入らないように耳へと掛け、夜空より黒い髪をひと撫でする。刀を握る人とは思えない優しい手付きに、胸の奥が温まる。
「単純な力の強さで言ったら男であるときのほうが強い。けれど、刀を振るうとなると、女のほうがいい」
立て掛けてあった太刀を横目に、桜海は勝気な笑みを浮かべる。染み付いた動き、技術は女性の身体で最大限まで磨いてきたものだ。目線も腕、脚の長さもまるで違う男性では、今まで培ってきたものをいまいち発揮しきれないのが現状で、歯痒い思いをすることもある。
「筋肉量が増えた分、身体が重いし、柔軟性にも欠ける。戦士として恵まれた体格なのはわかるのだけれど、まだまだ慣れないな」
男性になるのは数日に一日だけ。規則性もなく、朝目覚めると身体が作り変わっている。感覚を掴むために鍛えようにも、たったの一日ではどうにも上手くいかない。
「こんな厄介な身体とも、もう三年の付き合い。ようやく、日常では困らなくなったよ」
アズにとって女性は、未知の生物といっても過言ではない。身体のつくりもそうだが、思考も男性とはまったく別物のように思える。唯一の友人であるドールも女性だったが、時折別の生き物と話しているような感覚になった。きっとそれは、女性からしても同じこと。根本までは理解しあえないとしても、お互いに歩み寄らなければ喧嘩ばかりだ。
「今朝も思ったのだけれど……ボクのこと、幻滅しないの」
「え、なんで?」
随分と弱々しい声だった。肩と肩が触れ合う距離に居なければ、風に浚われていたかもしれない。
アズは星が煌く瞳を瞬かせ、桜海を見上げる。深海色が波打つ理由が、わからない。
幻滅、する理由なんてどこにも転がっていない。この船には夢にも思っていなかった感動ばかり溢れていて、アズの心を躍らせる。
「
桜海は首下で揺れる華奢なリングを指先で弄る。そのサイズは
「ボク……と雪愛の体質を知るとね、みんな離れていった。『気持ち悪い』『信じられない』『呪われた船』それはもう凄まじい掌返しさ」
性別が変わる呪い。そのせいで苦労しているのは本人たちで、それでも順応しようと努力を続けているのに、彼女たちの全てを受け入れてくれる人は多くない。
「そんな……だって、おれたちは勝手に憧れているのに」
「うん。だから余計、勝手に嫌いになってしまうのさ。でも、それはどこでも同じ。ボクらに限ったことではないよ。世界は平らじゃない。側面も、裏もあるのに、人は自分の主観で判断しがちだ。だから思いどおりにいかないことが多くて、絶えず争い続ける」
つきり、小さな針が心臓に刺さった気がした。アズはかつての故郷に、側面どころか表面さえも見てもらえず、「どうしたら自分を受け入れてくれるだろう」とばかり考えていた。けれど「アズを認めない」という壁の裏には、彼らなりの考えがあったはずで、それを追求しようとしなかったのは自分だ。嫌われている理由なんて知りたくないと逃げていたが、本当にそれでよかったのだろうか。
心のどこかで「自分は悪くないのに」と思っていた。もし自分に非のある理由を見つけてしまったら……その恐怖から目の前の壁をよじ登ることしかしなかった。壁を壊そうと拳を掲げることが出来なかった。
「アズ。別にいいんだよ」
俯くアズの頭を撫でながら、桜海は自嘲する。常に物事を、他人を、立体的に捉えて行動できる人間がいないことぐらい、わかっている。それでも、望んでしまうのだ。
ヒトは我侭で、ひとりでは容易に生きられないから。
「わかっていても完璧になんてなれない。理解しているのに、理不尽なことを言われると、相手の意見なんて聞きたくない。だからボクも、手っ取り早く降ろすよ。そういう子たち」
海賊、狼、なんて呼ばれる彼らだが、本質はただの野蛮人ではない。流れてくる情報の中でもそれはアズにも汲み取れ、紙面の向こう側で彼らを突き動かす『何か』があるのだろうと想像した。
その『何か』が紺碧の側面であり、根底だ。
「ボクがこんな身体だから。たったそれだけの、……女だとか、男だとか、些細な見た目の違いで、紺碧まで悪く思われるのは、本当に、嫌だ、と、思っている。性別なんて、どっちでもいいのに。それでボクがボクで在ることに、変わりはないのに」
振り絞った声は、ほんの少し頼りなく震えていた。
悔しいのか、悲しいのか、辛いのか。アズは彼女の心情を捉え切れなくて、眉を下げる。アズだって桜海と雪愛が両性だと聞いて、かなり驚いた。しかしあまりに憧れの気持ちが大きく、性別は大した問題ではないと思ったのだ。彼が心底惚れ込んだのは、彼女たちの生き様だから。
「アズがボクのことを知っても、普通に接してくれていることが、凄く嬉しいんだ」
「そんな、だって、おれは……たとえ紺碧が自分の思い描いていた理想と違っても、今までおれに希望を与えてくれていたことは変わらないから……その、なんていうか、」
「ははっ。希望、だなんて、大袈裟すぎやしないかい。ボクらは、世間が煩すぎるから、波の音を聞きに
アズは大きく首を振る。
「何かを『好き』だという気持ちは、人を生かす力があります。紙の中で笑うあなたたちの笑顔を見て、おれも笑えた。頑張ろうって思えた。……そういう感情、わかりませんか」
ゆっくり顔を上げ、夜空を見つめる深海色に、月が溶けた。何かを慈しむように弧を描く口元が、全てを語っている。
「……性別のことだけじゃなくて、もっと、厄介なこともあるけれど、そうだね、……あの子のためだと思えば、なんでも出来てしまうね」
「あの子……って」
穏やかな微笑みのまま、桜海はアズの頬をひと撫でする。硬い指先なのに、優しくて温かい。アズは擦り寄り、小さな欠伸をした。
「あ、……すみません」
だらしのない姿を晒してしまい、羞恥で顔が熱くなる。彼女は小さく笑うだけで、咎めはしない。アズの背を軽く叩いてから立ち上がる桜海を見上げると、月を背にした彼女の表情がよく見えなかった。
「そろそろ戻りな。きっと黄鈴も心配している」
「黄鈴が……そうは思わないけど」
「あれで結構面倒見好いから。素直じゃないだけで」
桜海が差し出した手を取り、ふらつきそうになりながら立ち上がる。ふわり、視界が揺れたような気がしたのは、自分で思っているよりも眠気が襲っているからだろう。もう一度欠伸を零し、目を擦る。
「落ちないようにね」
よく見るとかなりの高さだ。上るのにも苦労したが、降りるのもなかなか大変で、アズはなるべく視線を下にしないよう気を付けた。船が風に吹かれ不規則に揺れる中、なんとか甲板へ辿り着く。じっとりと嫌な汗をかいていた。暗闇に慣れてきた目には、見張り台にいる桜海が濃い影に映る。手を振っている彼女に頭を下げ、アズは船内へと入っていく。心地好い疲れのおかげで、漸くよく眠れそうだ。
その小さな背中を見送った桜海は、柵に脚を掛けそのままの勢いで身を投げ出す。音もなく着地すると、マストの裏側へ回り腰に手を当てる。
「盗み聞きかい」
「へぇ。随分人聞きの悪い言い方」
アズがいそいそと見張り台へ上っている間に甲板へ来ていた雪愛は、柱に身体を預けて座っていた。雪愛が視線で隣を示すと、桜海は従うように胡坐をかく。
「これは失礼。……新人を気にするのはみんな一緒だね」
船内へ続く扉を振り返り、桜海が肩を揺らす。起きている気配はアズを含めて四人。心配性な世話焼きが多いのだ。それは、この美麗副船長も同じ。
「寝なくていいのかい」
「朝には戻るよ」
「そう」
桜海は夜の水面色の目を細めて、朝の訪れが少しでも遅くなることを希った。
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