触れない香り

 朝目が覚める度に、桜海はまず自分の腕を確認する。寝起き特有の怠さを押して、右手を天井に向かって伸ばし指を、ぐい、と広げる。

「……はあ」

 節くれ立った硬そうな指。三年経って漸く見慣れてきた『男』の手で、拳を握った。漏れた声も、幾分か低い。

 今日の彼女の身体は『男性』だ。

 波に合わせて船体が揺れる。まるで、早く起きろと促されているようだ。薄手の掛け布団を脚許に追いやり、ベッドから身体を起こす。裸足のまま毛の長いカーペットを踏みしめて、大きく伸びをした。同時に溢れる欠伸。船長室【林檎の間】の隣にある桜海の私室は、きっと他の誰よりも物が少ない。ベッドとソファとワードローブが一つずつ。

 桜海は短くなった髪を無造作に掻き上げ、寝間着替わりの単衣を脱いだ。鍛えられた胸筋の傍で、誓いのシルバーリングが揺れる。徐にその銀を指先で撫でる。まだこれを着けられる日は遠いようだ。

 脱いだ単衣をソファに放ると、くまのぬいぐるみと目が合う。白い革張りの二人掛けのソファの三分の一を占めるサイズの、青いくま。殺風景な桜海の部屋で、異彩を放つ存在だ。ある日雪愛が「桜海に似ている」と言って買ってきた代物で、世界中で人気があるキャラクターのひとつらしい。こういったものに疎い桜海は、もうくまの名前を忘れてしまったが、船員は面白がって ――特にアンソニー―― このぬいぐるみを「キャップ」「桜海」と呼んでいる。ぬいぐるみの癖に、あまり愛嬌を感じられないふてぶてしい顔。これの何処が自分と似ているのかは相変わらずさっぱりわからないが、雪愛が気に入っているようなので飾っている。

 ぬいぐるみの鼻先をつつき「いいね。きみはあの子に容易く抱かれて」少しだけ嫉妬した。情けなくて、決して誰にも言えやしないけれど。

 ワードローブを開けて、下着を履いて、黒シャツを羽織る。面倒で、釦は下の三つだけしか留めない。ブルーグレイのボトムスと適当なベルトを引っ張りだしていると、ドアが開いた。この部屋は廊下と繋がるドアはなく、林檎の間を経由する必要がある。万が一に備えられた抜け道はあるが、知っているのは桜海と雪愛だけ。

「おはよう、桜海」

 ノックをせずにドアを開けるような人は、この船には一人しかいない。

 雪愛は、まだベルトも着け終えていない桜海の様子を気にする素振りもなく、部屋へ一歩。まだ目覚めたばかりだろうに、満開の椿を連想させる華やかさには一切の曇りがない。

「おはよう、雪愛」

「今日からアズが食事作ってるでしょ。気になって早く起きた。廊下、凄く好い香りがするよ」

「へぇ。愉しみだな」

 そう言いつつも、桜海の顔色は晴れない。

「まだ言ってないんだよなぁ……」

 日によって性別が変わる厄介な呪いのことを、未だに言えずにいた桜海は、困ったように秀眉を下げた。男の時にも『峯』と名乗り顔を合わせているが、だからといって受け入れてもらえるとは限らない。折角好い子を見つけたというのに、この体質のせいで船を降りると言われでもしたら……考えるだけで脚が重くなる。

「その時はその時。誰も悪くないよ。あんたも、アズも」

「うん。そうだね」

「きっとお腹が空いているから弱気になってしまうの。早く行こう、ね?」

 雪愛が伸ばした手が触れる前に、桜海は部屋を出てしまう。冷たい空気を撫でるだけで終わってしまった指先を擦り合わせて、小さく息を吐く。いつもより大きな背中を追うのが、ほんの少しだけ遅れてしまったのを、赦して欲しい。


****


 雪愛の言う通り食欲を誘う香りを嗅ぎながら、いつもなら先に甲板へ行く予定を変更して食堂【紫蘭の間】へ向かう。もう何人かは食事を済ませた後なのだろう。アズはひとり食器を洗っていた。カウンターをひと撫でして、雪愛はアズを呼ぶ。

「おはよう、アズ。今日の朝餉はなに」

「雪愛さん、おはようございます! 今日はクロワッサンサンド作ってみました!」

「クロワッサン?」

 差し出された皿の上に並ぶ、片手では収まりきらないほどの大きさのクロワッサン。いつの間に買っていたのだろうか。紺碧の食卓に並ぶ炭水化物は大半が米だ。船員の半数が東の大陸【まるまるエッグ・たまごボール】出身であるのも要因の一つだ。

「ああ、これはおれが焼きました」

「え、クロワッサンて焼けるものなの」

「勿論。ちょっとコツがいるけど、おれ大体のパン焼けますよ」

 すん、鼻を鳴らすと、甘いバターの香りが寝起きの身体に染み渡る。中にはレタス、生ハム、炙ったパンチェッタとスクランブルエッグがサンドされている。カフェのモーニングメニューに並んでいそうな一品に、雪愛は目を輝かせた。

「廊下に漂っていたのは、パンが焼ける香りだったのか。美味しそう、ね、桜海」

「そうだね」

「おはようございます、桜海さ……ん?」

 雪愛との会話に夢中だったアズは、漸く桜海に視線を移し、固まる。金色の目をまんまるに見開き、危うく皿を落としそうになる。

「え、峯さんでは……?」

 島で出会った美丈夫の姿に、アズは混乱した。確かに彼も紺碧だと言っていたが、なにやら理由があるのか、まだ再会できていなかった。

 しかし今、雪愛は『彼』をなんと呼んだ?

「おはよう、アズ。黙っていてごめんな」

 眉を寄せて頬を掻く、桜海。

「ボクは桜海なんだ。ちょーっとカミサマとやらを怒らせてしまって、時々性別が変わってしまう……まあ、呪いってやつ」

「のろい……」

 ゆっくり繰り返された言葉に、雪愛が寄り添う。

「桜海だけじゃないよ。お前は女性になった時のおれにも会っている」

「もしかして……美咲さん?」

「そう」

「本当は船に乗せる前に言うべきだと、わかってはいたんだ。けれど、どうしても伝え難くて……。すまない。呪われているなんて、気味が悪いよな」

 眉を下げたまま笑う桜海に、雪愛は口端を下げた。無理矢理笑う必要が、何処にあるというのだ。誰も悪くない、と思いたいのに。

 視線を手許に向けたまま動かないアズに、桜海は「やはり……」腕を組んだ。ここで降りると言われても仕方がない、その覚悟はある。慣れはしないけれど。

「アズ、その……」

「お二人を呪うなんて……例え神であろうとも赦されないッ!」

「は……」

 ふるふる、肩を震わせながら勢いよく顔を上げ、吠える。あまりの剣幕に、思わず桜海は身体を反らした。雪愛も驚きから、ゆっくり瞬きを一度。

「しかし呪われているとは思えないほどの美貌は神も大誤算なのでは? 寧ろお二人の魅力が倍増していると言っても過言でもない……あ、すみませんご本人たちからしたら厄介な体質ですよね。もし自分が女性になる日があるとしたら憂鬱ですから。や、でも、やっぱり恰好好すぎでは……? 控えめに言って推せます」

「控えめじゃないとしたら」

「五体投地」

 すかさず身を投げ出そうとするアズを、桜海は慌てて止めた。雪愛は耐えきれず笑い出す。華奢な上体を『く』の字に曲げて、静かに肩が揺れる。アズの肩を支えながら桜海は、苦い色を溶かした深海を閉じ込めた目で雪愛を見下ろした。

「きみなぁ……」

「だって、面白いのだもの」

「それはわかるけれど」

「桜海。本当に好い子を見つけてきたよね」

 飴色の目に薄ら滲む涙を、拭う手段が無い桜海はやはり眉を寄せて髪を掻き上げた。

「早く作らないと。何処かへ逃げてしまうかもよ」

 背伸びをした雪愛の言葉は、桜海の耳朶を撫でるだけ。桜海は流れ込んできた甘い琥珀糖のような声を口の中で転がして、ゆっくり唾で流し込んだ。

「……わかっているさ」

「どうだか」

「アズ」

 コーヒーを淹れていたアズは、手を止めて振り返る。眩しい金色の目の中で三対の星が輝いた。

「今日リノには会ったかい」

「いえ、まだですね」

「星の窓に居ると思うから、呼んできて欲しい」

 自分と雪愛愛用のカップを取り出して「飲み物ぐらい自分たちでやるよ」笑う。雪愛は二人分の皿を持って、席へ着いて端末リボンを弄っている。

「わかりました!」

 アズはエプロンを外して二人に見守られながら紫蘭の間を後にした。


****


 初めて展望デッキ【星の窓】に登ったアズは、甲板よりも頬を撫でる風の強さがきつく感じて、少し目を細めた。華奢な背中が揺れる。

「アズくん?」

 色素の薄い髪を両サイドで編みこみ、オレンジの小ぶりなリボンで結んだ愛らしい美少女、に扮装したリノは、一日の大半をここで過ごしている。黒いフレアスカートが時々突風に煽られ、ほどよい張りの太ももが見え隠れするが、計算されているのかそれ以上は捲くり上がることはない。ちらつく白い脚につい目線が行ってしまうのを、真っ赤な顔になりながら心の中で叱咤する。

「初心だね」

 くすくす。春を告げる小鳥の囀りの様な笑い声に、アズは更に顔を赤くする。

「アズくんのお友達、女の子、だったでしょ」

 頷いて答えれば、これぐらい慣れっこじゃないの、と首を傾げられてしまう。結ばれた髪が揺れる。

 ドールは、こんなに短いスカートなんて絶対に履かなかった。教会に勤める彼女が好んだのは、足首まで隠れるようなものばかり。

「こういうの、好き?」

 柔らかそうなスカートを摘まんで持ち上げる、令嬢の気品ある挨拶と同じ仕草なのに、リノがやるとどうもむず痒くなり、火照る顔を冷まそうと彼から視線を外して風を浴びる。

「からかいすぎちゃった」

 横から聞こえる声は喜色一面で、反省などしてなさそうだ。こういうことを、色々な人にもやっているのだろうか。

 色付きシーウルフ『紺碧』のリノといえば、真っ先に思いつくのは『色狂い』。彼に抱かれた、彼を抱いた、という人たちは後を絶たないほど大勢いるらしく、紺碧が訪れた島全てに彼の色がいる。素のままでも十二分に平凡から逸脱した容姿の彼だが、趣味は女装であり、着飾ることが大好き。老若男女問わず好かれる彼は、マニアの中でもかなりの人気であり非公式の写真が一番出回っている。かくいうアズも五枚ほど、特殊なルートで入手したリノの写真を持っていた。

色付きシーウルフ夢人マニア、なんでしょ?」

「え、は、はひっ」

 頭の中を覗き込まれたのだろうか。そう思わずにはいられないタイミングでの質問に声が裏返る。小鳥の囀りが心地好いと思っていたのも束の間、そっと両肩に手が添えられ背筋が伸びる。視線だけで確認した白い手は、手入れが行き届いているのか爪先までキラキラしているように見えた。

「僕のこと、好き?」

 ミルクココアの様な甘い声が耳に溶け込んでくる。屈んだリノが、アズの耳元で吐息を零すおまけみたいに囁いた。

「ね、教えて?」

 彼の声が全身を駆け巡り、膝から崩れ落ちそうなほどの痺れが走る。

 噂は本当だったんだ、とこんなときまでマニア魂が歓喜で震えているのがわかる。

 こんな声で名前を呼ばれ、愛を囁かれて求められたなら、どんな敬虔な聖女や神父でも、容易くベッドに沈むだろう。

 口の中に熱い唾液が溜まるのに、何故か喉は酷く渇いている。どうにかして飲み込もうと喉に力を入れたところで、手が離れていく。

「なーんて。へへ、あまりに可愛いから、意地悪しちゃった」

 ごめんね、なんて露ほども思っていない音を並べられて、この昂ぶった熱を何処に追いやればいいのかわからないアズは目を回す。

 ガンガン痛む頭を抱えてどうにか振り返れば、両手を広げたリノが笑っている。眼鏡の向こうの瞳の中で滲んでいる感情の色を、アズはまだ上手く読み取れない。

「桜海が呼んでるのかな」

「あ、はい、そうです」

「うーん。もっと肩の力抜いて。気を張ってばかりじゃ、すぐ駄目になっちゃうよ」

 軽い力で両肩を叩かれ、一体誰のせいで気を張るはめになったのか、と投げつけられるわけがない言葉を呑み込む。

「桜海が直接迎えに行く、なんて言ってたからどんな子かと思ったら」

 長い指先がアズの前髪を、まるで氷細工に触れるかのような優しさで撫でる。手からも甘い匂いがして、つい鼻が動いてしまう。花の香りだ。風に揺れる花畑が脳裏に蘇る。

「まさか彗星だなんて。強運もここまでくると恐怖だなぁ」

「え、」

 言葉の意味を聞く前に、リノは一本立てた人差し指をアズの唇に当てて、片目を瞑って魅せる。

「さてと、桜が散る前に行かないと。アズくんも来るでしょ」

「うん」

「あー、桜海には、僕がアズくんのことからかったの、内緒、だよ?」

 先ほどまで僅かな熱を感じていた指を、今度は自分の唇の前で立てる仕草に、アズは真っ赤な顔で何度も頷いた。

「きみの作ったご飯、楽しみだなぁ」

 ふわり、スカートが笑う。

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