月が溶けた夜
「飲み物、全員持ったかい」
桜海の声に、七人はグラスを掲げる。
「では新たな船員に、乾杯」
新月の夜、海賊船【無名】の甲板で宴会が開かれていた。床に大きなシートを敷き、その上に皿や酒瓶、ジュースなどを並べるのが紺碧流の宴だ。座る順番など関係なく、気が向けばそれぞれ移動し、思い思いに話に花を咲かせる。開始直後はアズの隣にいた黄鈴も一杯呑み終えると、玖乃の元へ行ってしまった。
「玖乃さん、呑んでます?」
「ええ。私のことはお気になさらず」
「あなたのことだけが、気になるんです」
「奇遇ですね。私も雪愛様のことだけを気にかけております」
いつもと寸分変わらない笑顔でグラスを傾ける玖乃の左隣は、雪愛だ。両手で持った若緑のグラスを軽く揺らし、横目で従者を見る。当然のように目と目が合い、紫黒色の瞳が蕩けた。大切にしている宝物を愛でるような目に、眉が寄る。「おれのことはいいから」と言ったところで、玖乃の視線は逸らせない。
「たまにはお前も、羽目を外して呑みなよ」
「充分楽しんでおります。酒はそれほど好きではありませんし」
「あーッ! くーちゃん嘘つきだァ!」
「アンソニー様、口を閉じてください」
酒瓶片手に玖乃の背後から抱き着いたアンソニー。急襲に動揺することなく、玖乃はアンソニーの口に大福を詰め込んだ。
「ふッンン! んぐーッ!」
「無理に話そうとしないで、トニー。大人しく飲み込んでからにしなよ」
「だらしねェな、餅ごときで」
危うく大福を喉に詰まらせかけたアンソニーの背を雪愛が撫で、呆れ顔の黄鈴が水を差し出す。「ちゃんと噛んで」「一気に飲むなよ」窘める口調の割に、手付きは優しい。
「けほっ、はー……! 死ぬかと思った…‥!」
「死因が大福なんて情けないから勘弁してくれよ」
「キャップが冷たーい! つーか、おれ、悪くなくねェ?」
「あはは。玖乃くんを苛つかせるトニーが悪いでしょ」
胡坐をかいた膝に肘をつき、瑠璃橙の万華鏡グラスを傾ける桜海。リノは取り分けた料理をサトリに渡しながら、視線も向けずに笑う。
「別に苛ついておりません」
「そーゆー癖に、次のお餅構えてンぢゃーん!」
先ほどより大きな大福を押し付けようとする玖乃の手から逃れる。いつもと変わらない穏やかな笑顔なのが、余計恐ろしい。
「雪愛様の御手を煩わせないでいただきたい」
「アッ、本音そっち!?」
ぐいぐい、頬に押し付けられる大福。どうやら雪愛に背中を摩られていたのが気に食わないらしい。
「もう。食べ物で遊ばない……ってお前がいつも言っていたことじゃない」
雪愛は玖乃の右手首を掴むと、そのまま大福に齧りついた。
「ゆ、雪愛様ッ……」
「お前が作ったんでしょ? 美味しいよ」
残りの半分も口にすると、柔らかな唇が玖乃の指先に触れた。少し湿った温かい感触に、玖乃の首がじんわり赤く染まる。夜に紛れてしまうような変化だが、黄鈴だけは目敏く気付き、面白くなさそうに舌を打つ。
「生主従……おれ、床に溶けたい」
「えーっと、アズくん? ちゃんとご飯食べてる? お酒は飲めるのかな?」
両手を合わせ、空を仰ぐ。宴の主役だというのに箸が進んでいないどころか、ぶつぶつ呟き続ける怪しい様子のアズ。
「あ、すみません! 酒は嗜む程度しか飲めないんですが……」
「そう。僕もお酒は全然駄目なの」
リノが掲げた緋色のグラスには、アイスティーが入っている。「ノンアルコールもいっぱいあるからね」いくつかの瓶を手繰り寄せてくれたリノに、アズは平伏した。
「……ん」
床に額を擦りつけるアズに慌てていたリノの向こうから、パスタが盛られた皿がずい、差し出される。
「え……っと」
「美味しかったから」
リノの後ろから顔を覗かせたサトリは、夜にも関わらずフードを深く被っている。フードの影と、長い前髪の間から覗く瞳からは、上手く感情が読み取れない。
「サトリくん……! えらい……!」
「あんたはうざい」
口許を両手で抑え、感動で震えるリノに、サトリは舌を打った。ふい、と視線を逸らし、胡坐をかいた膝の上に肘をついて空を見上げる。天気が良いから星が好く見える。月が無いからか、星の光がより一層強い。
「歓迎会日和ぢゃん。幸先好いねェ、アズっち」
「誰かさんの時は途中で雨降りだしたよね」
「おれが悪いわけじゃねーぞ」
サトリは口許だけで意地の悪い笑みを浮かべる。そのフード越しの頭を、黄鈴が左手で掴み、ぐいぐい、揺らした。「痛いよ! 馬鹿力!」「うっせェ、減らず口」気の抜けない仲だと裏付けるようなじゃれあいに、アズは口が緩むのを堪えてオレンジジュースを呑み込んだ。気を付けていないと全て吐き出してしまいそうだ。
「アズ、遠慮はしないで」
「そうだよ。今宵はきみが主役なんだから」
「今のうちに食べておきな。明日からはお前がこの量を作るようになるんだ」
いつの間にか並んでいた雪愛と桜海が、アズの皿へ料理を盛りだした。シーフードグラタンにカプレーゼ、麻婆豆腐と青魚の塩焼き。国境を越えた種類の料理の中には見覚えのないものもある。
「え……これ、タコ?」
「そう。おれたちの国では食べるよ」
「煮て好し、焼いて好し。ボクは生がおすすめ」
薄くスライスされても、あの独特の吸盤の名残を残したままの切り身をフォークで刺し、じっくり見つめる。まさかタコを食べる日が来るとは思っていなかった。アズは写真でしか見たことがない、魔物と大差ない触腕の持ち主を思い描いて、口の中に溜まった唾を呑んだ。
「おい、無理するなよ。姐さんも、タコは嫌いだし」
黄鈴が囁くが、目の前で切り身を三枚纏めて口の中に放る桜海を見てしまっては、食べないわけにはいかない。
「いただきます……!」
「ンな、死地に行くみたいな顔で……」
隣で焼酎の入った黄色のグラスを傾けながら、黄鈴が呆れたように笑った。口の中で転がすだけのくぐもった声を聞きながら、一口。イカや貝類よりも強い弾力の後、一瞬で広がる深い磯の香り。淡泊な見た目からは想像出来ないほど、噛む度に旨味が波の様に押し寄せる。
「美味しいですね!」
「だろ。気に入ってもらえてよかった」
「でも、ドレッシングが少し塩辛いような……元々海の香りが強いので、それほど塩味はいらないかな……」
「あはは。それボクが目分量で作った奴」
「とっっっても、美味しいです!」
まだ口の中に残っていた、噛み切れずにいた欠片を慌てて嚥下し、一瞬で掌を返す。黄鈴が「お前……」目を眇めて、アズの脇腹を突いた。
「アズの思うままに作ってくれて構わないから。楽しみにしてる」
新しい瓶に手を伸ばす桜海の横で、雪愛が箸でタコ摘まみ上げて口に含んだ。自然に色付いた真っ赤な唇を、オリーブオイルがベースのドレッシングがより一層輝きを与える。それを消し去るように、小さな舌が舐めとった。
「おれには、これぐらいが丁度好いので、たまには作ってね」
「勿論。きみが望むなら」
重そうな伽羅色の睫毛をが、蝶の羽ばたきのように瞬く。月を溶かした飴色の目に吸い込まれるように桜海は少し顔を寄せて、吐息で白磁の肌を撫でた。皿やグラスを避けて置かれた、桜海の右手と雪愛の左手が、じり、距離を詰める。あとベリー一つ分だけ開けて、止まる。
「ボクはきみのどんな些細な願いだって、叶えたいと思っているよ、雪愛」
雪愛の細い髪のひと房が鼻先に触れそうになり、桜海は音も無く身体を離した。あと、ほんの少しで直接感じられそうだった温度が離れていくのを、飴色の目が未練を込めて見送った。
「ただ、ね」
雪愛を見下ろす夜の水面色の瞳が、ゆるり、緩む。
「きみがどれだけ望んでも、今更月になんて帰してあげられないよ」
酒の香りが混じった吐息は、雪愛の耳を甘く痺れさせる。どんな酒よりも、毒よりも、雪愛の呼吸を乱すのはこの声だ。
喉の奥でつっかえて出てこない言葉の数々に小さく噎せ、魚の小骨のようにしつこい異物たちを無理矢理呑み込む。目には見えない傷の味がした。
「……
血だらけの喉からようやく引っ張り出せた言葉は、自分でも眉が寄るぐらい捻くれている。
仕方がないじゃないか。真っ直ぐな言葉は、どうしたって自分の心臓に突き刺さってしまうのだから。強引に捻じ曲げても結局自己嫌悪に陥るだけだが、彼女なら正確に意図を察してくれる。桜海に凭れ掛かってしか、雪愛は口をきけない。
夜の水面色に月を溶かした彼女は、何も言わずに微笑むだけ。それで充分だ。
「雪愛様、どちらへ」
腰を浮かした雪愛に目敏く気付いた玖乃の前には、酒瓶がすでに三本転がっているが、彼の顔色は全く変わっていない。紺碧一の酒豪は、涼しげな顔で主の腰に手を回した。
「よいが回った。戻るよ」
「では、酔い醒めのお茶をご用意いたします」
「平気。お前は呑んでいなよ」
支えられながら立ち上がった雪愛は、そっと従者の腕から身体を離し扇で顔を隠す。ひとりになりたいときに無意識に出る仕草だが、玖乃は引き下がらない。
「けれど、」
「いい。醒めたくないの」
鞠が弾む声に、玖乃は唇を噛む。見慣れた鮮やかな扇が、高い壁の如に感じた。翻った羽織に手は伸ばせない。それ以上は赦さない、彼の声がそう言っている。
視界の隅で猪口を傾ける船長の能天気な顔が羨ましい。なによりも雪愛が一番だと、自分のすべてをもって表現するくせに、彼の一挙一動で揺るがない精神が憎い。自分はたった一言に振り回され掻き乱されてしまうが、彼女は彼の呼吸一つで華を選べるのだ。
彼女よりも、長く傍に居るのは自分なのに。どうしたって勝てそうもない。
「あれ、雪愛さんのって葡萄水じゃ・・・」
雪愛お気に入りのグラスを傾け、少し残った中身の匂いを嗅ぐアズの肩にアンソニーの腕が回る。ほんのり頬を赤くしたアンソニーはいつにもまして口許が緩いようだ。けらけら愉しげに笑いながらアズからグラスを奪い取り中身を呑み干す。
「サリュ~、アズっち~! ぷはァ。へへへ、あのねェ。ようのは酒だけぢゃァ、ないんだよ」
いつにもまして舌足らずで拙い喋り方に、一体どれだけ盃を傾けたのかと呆れる。そういえば先ほどまで、玖乃に絡んでいたことを思い出す。同じペースで呑めば、こうなるのも仕方がない。
「今日は月が溶ける夜だから。好い酔いなのも肯けるね」
雪愛と同じく葡萄水を湿らしているリノが、目尻を下げて何かを堪えるように微笑む。慈しみと悲しみが混ざり合った灰色の瞳は、薄い目蓋に隠される。
「そーゆーことっ。まァ、酒も恋も嗜んだことねェアズっちには、縁遠いか」
「え、トニーにも縁がなさそうだけど」
「うぇー。アズっち、ひっでェ!」
恋多き悩める少年なんだぞ! 声を荒げるアンソニーに呆れたのはアズだけではない。
「少年って歳じゃないでしょ。ぼくより歳上のくせに」
「うげ、リノぴ、すーぐそれゆーね?」
「若作りジジイ」
「買うぞ、糞餓鬼」
お互いの目を見ないまま続く言葉の応酬にアズは鳥肌が立った。アンソニーとリノがこうして痴話喧嘩ともとれるじゃれあいをするのは、紺碧
「こんなの今から厭になるほど見ることになるんだから、瞬きぐらいしとけ」
「絶対厭にならないから安心して。推しと推しの絡みで目が潤いすぎて大洪水になるぐらいだよ」
「病気じゃねェか……」
目を半分にした黄鈴が、もう関わりたくないとでも言うように甲板に転がった。その腹を枕にするように、サトリも続く。「ぐえ」漏れた声は、サトリには聞こえないらしい。
「……あの、そもそも、桜海と雪愛さんって」
リノが追加のジュースを注いでくれたグラスを両手で握って尋ねると、アンソニーとリノは全く同じタイミングで顔を見合わせて、それぞれ二度瞬く。
「うーん……恋人、って言っちゃうと軽いような」
「そうね~。人生の道連れ、って感じ? お互いの生命の手綱握っちゃうような関係だよ」
「やっぱり……。でも、あまりそういう情報流れていないですよね」
「まァ。外でイチャラブちゅっちゅするような性格ぢゃねェもん、二人とも」
軽い声の調子の割に、アンソニーの表情は少し硬い。上手く笑えないのを誤魔化すように無理矢理酒を流し込む背中を、リノが窘めるように撫でた。
「アズ」
寝息をたて始めたサトリの身体にフロックコートを掛けながら、桜海が呼ぶ。月の影が失せた深海色の目がアズを貫いた。
「取らないでくれよ」
どこにも入る隙間を見せないくせに、何をそんなに恐れるのか、アズにはまだわからなかった。
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