黒曜石

薮柑子 ロウバイ

黒曜石

 人は言います。

不幸だと嘆く人間は幸せに気づかないだけの阿呆だと。

 ええ、私も思いました。

良く考えれば恵まれた生だと思います。

だからこそ、私は自らを不幸だと呼ぶのです。


 如月の風が吹いておりました。

春に嫉妬したようにまだ少し肌寒いその日、私は、よく晴れた午後の海岸をぶらりぶらりと歩いておりました。

どこからやってきたのやら。妙な形をした木の枝や小さなシーグラス等という漂流者達が陽を受けてピカリと光っていました。


 少し歩いていると、遠くにシワになった白い麻のシャツに膝丈まである紺のスカート姿の女性を見つけました。

なんということはありません。女性は海が好きなのです。遠い地平線を見る目が男とは違い、暖かく、どこか物寂しい。それが女性らしい儚さかと、日々私は考えておりました。

しかし、私が近づけば近づくほど、その女性の目がそれとは違うことに気付きました。

いえ、遠くを見ているのには変わりはないのですが、違うのです。眼の中が乾き切っています。

私は直ぐにピンときました。

あぁ、彼女はここで死なぬ気なのだなと。

案外わかるものですね。その時を迎えようとしているあの顔は、絶望より明るく、希望より暗い顔をしていいるのです。


 私は、思わず声をかけてしまいました。


「海が、お嫌いですか。」


 彼女はハッとして、見知らぬ私の顔を訝し気に覗き込みました。

長いまつげから、乾いた黒目が見えました。目の下には隈ができていて、頬はこけ、

肌もどこか青白い。哀愁というにはあまりにも淀んだ雰囲気が彼女にまとわりついていたのです。


「…あなたは海がお好きなのですか?」


彼女はどこか私を嘲たような薄ら笑いを浮かべ、私の問いに問で返しました。

嘲笑われているのに、なんだかその浅ましささえ、美しく見えるくらいに彼女は美しさが内面から滲んでいるのでした。辛気臭さがどうも強すぎましたが。


「どうでしょう。わざわざ足を運ぶくらいですから、嫌いではないのでしょうね。」


私の曖昧な応えに、彼女はまた不機嫌そうな顔をしました。

なんだか、良い気分でした。

思い通りに人を踊らせ、人心掌握で悦に入るような人間は、

皆浅ましく、愛おしいものです。


「小説家みたいな言い回しをなさるんですね、あなたは。」


もう諦めたような顔で彼女は浅くため息を吐きました。

つまらなさそうに、期待などもう何処にもないような顔でした。


「ええ、物書きに憧れていましたから。」


「あら、そうでしたか…。どんな事を書きますの?」


私がすこし目を伏せてそう言いますと、彼女の瞳に初めて針の穴ほどのそれはそれは小さな光が射しました。


 真っ黒な瞳が黒曜石のようでした。

この瞬間だけは、彼女が生きていました。そこに確かにいました。

くっきりと輪郭が見えてきた彼女は、話し始めます。顔にもほんのりと赤みが戻っていました。


「大した作品ではありませんが、私小説を書いていました。」


「まぁ、それは良いですね。苦悩や幸福、それを取り囲むすべてのものが筆者の思う儘に綴られ、そして私たち読者はそれらの有象無象を筆者の主観を借りて疑似体験できる、人の心の繊細さを知れますわ。」


 彼女は饒舌に語りだしました。

聞いちゃいませんでしたが、あまりにも彼女が生きているものですから、私も何も言えず、ただ静かに彼女の自論を聞いていることにしました。


「人の幸せが分からないと言った小説家だって、私小説を書けるぐらいに人と関わっていましたもの。あなたも彼も、繊細な心を持っていらっしゃったんでしょうね。」


 私は、今にも死にそうだった彼女の言葉で喉が焼けるような痛みを覚えました。

喉だけではありません。首が熱くジンジンと痺れています。

腹の底から何かが溢れ出るような感覚に襲われました。


「それは読み手の勝手な空想ですよ。」


 私は我慢が出来なかったのです。

言ってはならぬと解かり切っていた筈なのに、言葉がとめどなく溢れて来るのです。

何を解かり切ったような、貴女だって今まさにこの海に消えようというクセに。

人の生を、苦悶を、絶望を、焦燥を、語るな。


 私が汚らしく言葉を吐く横で、彼女は私を同情の目で見つめていました。

あの二つの黒曜石が酷く愚かでちんけな弱々しい可哀そうな孤児でも見るように、

ただ慈愛の目で私を見つめているのです。


「何も、分かっちゃいない。」


 私は可哀そうではない。

この擦り切れた女よりずっと平凡な幸せの中に生きているはずだ。

やりたいことをやった。誰かを恨み罵った。十分に飯を食った。夜は夢を見た。

金だって、少なくても一人生きていくくらいは持っていた。

夢も希望も追いかけた。絶望だって何度乗り越えてきたか。

幸福だ、私は恵まれている。

平々凡々としたこの日々を不幸せだとほざく阿呆共とは違う。


 女は私から目を逸らし、夕日に染められ赤くなる黒い海を見つめながらゆっくりと口を開きました。


「貴方も本当は海がお嫌いなのね。」


 私は顔を上げ、彼女の顔を見ました。

女は笑っているのです。幼子のようなあどけない笑顔でした。

心底安心したように笑っているのです。こと切れる前のように穏やかに。


 彼女は続けます。


「貴方、最初は私を笑うおつもりでしたでしょう?

心底私を軽蔑したようでしたから、すぐ分かりましたよ。

貴方は貴方に似ていた私が許せませんでしたでしょう?

海を見つめる貴方のお顔がまるっきり私と同じでいるのですもの。」


 私は言葉が出ませんでした。

今すぐこの行き場のない怒りと悲しみを彼女にぶつけたかったのに、私の足はまるで棒切れでした。出来損ないのちゃちな自尊心を持ってしまった木偶の坊です。


 彼女は波打ち際まで歩いて行き、サンダルを赤い砂浜に揃え、波の鼓動に溶け込んでいきます。波打つ音、烏の濡れ羽色の長い髪、黒曜石の目、痩せ細った身体。

彼女は波の中から笑いかけました。


「最期に貴方に会えてよかった。」


そう言って聖母のように私に笑いかけているのです。


 ざぶん。

私も赤黒い砂浜に靴を投げ捨て、波の鼓動へ溶けに行きました。

彼女は未だに私のことをじっと眺めています。

私は力任せに押し寄せる波を踏みつけ、彼女の喉元に手をかけました。


「不幸だった、最期まで。」


 彼女は笑って息の根を掴んでいる私の腕を引きました。

もうすっかり落ち行く夕日は、四つの黒曜石を照らしていました。


 あぁ…__、不幸な人生だ。


____ざぶん。

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