4.診断

 空になったコーヒーカップを手にし、窓辺に立ったままロバートは記録を読んでいた。ときおり吹きこむ雨粒が手の甲に濡れた斑点を作り、風に紙が揺れてかさかさと音を立てる。湿度を喉と鼻の奥で感じながら、印字されたマシューの言葉を目で追い続けた。

 戸口のほうで音がした。顔を上げると、二杯目のコーヒーを手にした娘が立っていた。無言でナンシーはデスクに戻り、溜息を吐く。左足を軽く引きずりながらロバートは窓辺を離れ、ソファに腰を下ろした。空のカップとプリント用紙をローテーブルに置く。

「で?」

 短くナンシーは問いを投げ、コーヒーを啜った。老眼鏡を外し、ロバートは目と目の間を数回揉んだ。

「私がこの部屋に入ったとき」

 老眼鏡をかけなおす。フレームを指先でつまみ、位置を整えた。

「そこのモニターにマシューが映っていた。お前の問いに、マシューはほとんど反応していなかったが、ひとつだけ言葉を発した」

 ――さんじゅうなな。

「三十七。この数字の意味を、知っているか?」

「素数ね」

「そんな数学的なことじゃない。もっと簡単な答えだ」

 ナンシーは頭を左右にふった。

「ポプラだ」顔を起こし、背もたれに深く身を預ける。

「表のポプラ並木の本数だ」

「父さん、なんでも数えちゃう癖、まだ残ってたの?」

 娘の声には呆れたような調子があった。ロバートは胸ポケットからペンをとりだした。

「あの少年もポプラを数えたのか。そういうことがあったとしてもおかしくはない。あの映像で少年は、窓の外を見た瞬間に答えていた。本数を以前数えたことがあって、その数字を思いだしたのか。それも解釈のひとつだ。だが、もうひとつの可能性がある」

 無意味にペンを右手でもてあそぶ。骨張った指が蜘蛛の足のように動き回り、黒く細長い物体が回転する。

「マシューは、外を見たあの一瞬で並木を数えた」

「なにを言ってるの?」

「稀だが、自閉症の患者にそういう能力が備わることがある。大きな数の平方根を一瞬で暗算したり、カレンダーを見ずに特定の日付の曜日を言い当てたりな」

 自閉症は幼児の頃に特徴が現れる。なにか問いかけるとオウム返しに同じ言葉を口にするなど、言語発達に遅れと歪みがある。突飛な行動をとったり、儀式的な行動をくりかえす。他人とコミュニケーションをうまくとることができず、表情に情緒的な反応が見えない。まるで宇宙人を相手にしているような違和感や、理解不能な印象を受けることさえある。

「でも、自閉症とは全然症状が違うじゃない。そもそも十六歳にもなって自閉症なんて」

「まあ待て。私が言いたかったのは、マシューは統合失調症の陰性症状ではないかもしれないということだ。あの少年には病識があった。なにも考えることのできない無の世界にいるのではなく、我々とやりとりできない別の世界に閉ざされているのかもしれん」

 統合失調症は平均して百人に一人はいるという精神病であり、脳の神経伝達物質に関する異常ではないかと推察されている。妄想や幻覚といった陽性症状、感情の鈍麻や意欲減退といった陰性症状がある。近年は薬物療法により症状の軽減あるいは治療が可能だが、かつては外界にまったく反応せず、動くことも考えることさえもない廃人となるケースも少なくなかった。

「投与を中止した後の検査でも、マシューの前頭葉は活動が低下していなかった。仮に、賦活剤で蘇った神経繊維が、増殖をやめなかったとしたら」

「父さんは、マシューの前頭葉が、普通の人以上に活性化していたっていうの?」

「記憶力を向上させる素朴な技法はふたつだ。連想力と集中力。本来無関係なことを語呂合わせやイメージで結びつけるか、集中して刷りこむか。前頭葉に障害が起きると、意志の集中やイメージの連想ができなくなる。その逆が起きているんだ。異常なほどの集中力、イメージ連想、結果としての記憶力増大」

 右手で回転させていたペンの動きを、急にとめる。

「前頭葉の本質的な役割とは、なんだ」

「理性? ううん、客観性かな」

「もう少し具体的に考えよう。理性とはなんだ。客観性とは? 前頭葉が活性化したマシューは、音楽に感情移入できなくなったな」

「部分ではなく、全体を意識できること?」

「そう、それと正確さだな。全体を意識するためには、細部のつまらないことを切り捨てて、関係性を重視しなければならない。自分勝手に歪曲しては理性も客観性もない」

 握りしめたペン先を、ロバートは額に押しあてた。

「つまり、認識の対象について正確な仮想モデルを作ること。それが前頭葉の本質だ。逆説めいた言い方をすれば『正確な幻』を作ることが、高度な意志判断を可能にする」

 熱に浮かされたような目をしている。こんな状態になった父を、これまで何度かナンシーは見かけたことがあった。

「前頭葉が活性化したことで、マシューは常人より優れた集中力、イメージ連想力、記憶力で、より現実に近い仮想モデル、巨大な仮想モデルを構築できるようになった。しかし、そんな大きなモデルは操作がしにくい。人の顔が見分けられなくなったり、長い文章が読めなくなったのは、脳内の仮想モデルがあまりに詳細でありありとしたイメージになったため、全体を見渡すことができなくなったということだろう」

 語調がスローダウンしていく。結論へと近づきつつある。ロバートは、ペンを内ポケットに戻した。

「普通の人間は、簡単な仮想モデルしか構築できない。しかし、それでいいんだ。シンプルなモデルしか作れないからこそ、物事を抽象化する能力が生まれる。しかしマシューは、可能な限り現実そのままの世界を脳内に構築しようとした。そもそも私たちが現実と思っている感覚も、脳の中の幻に過ぎない。手に触れる水の冷たさも、水を冷たいと思う気持ちも、等しく同じ神経繊維上のパルスに過ぎない。恐ろしいことだと思わないか? 現実に限りなく近い仮想モデルを構築できるということは、言い換えれば想像するだけで『現実』を感じるということだ。水の冷たさを想像するだけで、本当に水が触れたのと寸分違わない感覚を脳の中に創ることができる。マシューのみた父親の幻覚が、正にこれだ」

「じゃあ更に活性化が進めば? いまのマシューは、いったいどうなってるの?」

「脳内のイメージが、あるがままの現実に限りなく近づくだろう。水面のきらめき、空に浮かぶ雲の形、あらゆる細部が省略されることなく脳の内側で再現される。これはある意味、究極の理性、究極の意志だ。絶対的な現実把握だ。世界を丸ごと頭の中に入れてしまったんだ。結果どうなったか。現実あるがままという複雑で巨大な仮想モデルは、操作することができない。マシューは、限りなく理性的で論理的な、あるがままの現実に閉じこめられてしまった」

「そんな……」

「普通の人間は、停電で急に明かりが消えたなら、物につまづいたり壁にぶつかったりするだろう? 空間を把握しているつもりで、たやすくイメージが壊れる。普段の生活でそれを意識しないのは、目や耳といった感覚を通して状況の理解を絶えず改めているからだ。現実とは、感覚器官から流入する情報によって脳内の仮想イメージを絶えず刷新し続ける動的平衡状態と云えるな。マシューはそのバランスが崩れてしまった。無論、これは仮説だ。PETで再検査すればいい。この仮説が正しければ、前頭葉はこれまでの検査結果よりもさらに活性化しているはずだ」

 ナンシーはコーヒーを啜った。額に手をあて、考えこむ。

「待って、それならマシューはなぜ父親を殺したの?」

「そんなものは知らんよ。アーウィンとの間に感情的対立は以前からあったのだから、どうとでも説明はつく」

「でも、障害が完治していたなら倫理的判断だって」

「人が人を殺すのに、脳障害である必要などない」

 さっきまで熱を帯びていたロバートの口調が、急に静かなものになった。

「大切なものを傷つけられ、怒る。それは人として当然のことだ。それだけのことなんだ。病んでいるかどうかは関係ない」

「納得できない。調査だってされてるのよ、どうしてあのタイミングなの? どうしてあのときだったの? それまでだってマシューはアーウィンを憎んでた。どうしてあの日に限って父親を手にかけたの?」

「お前は、相変わらずだな。本当に患者と距離をとるのが下手だ。仮説だけなら立てられる。前頭葉の障害が完治して倫理的判断が回復していたはず、お前はそう言ったね」

「ええ、そうよ」

「では、正義についてはどうかね」

「なにを言ってるの?」

「法に従うのも倫理だろう。しかし人間にはより深い掟がある。マシューは二人のクラスメイトを殺してから、ほとんどの時間を病院内で過ごした。その間、あの家には父と娘が残されていた。家族を異常なまでに愛する父と、二人きりだったんだ」

 通路の角でぶつかったときのマリアの表情。泣き濡れて瞼を腫らした顔。

 ――きっと僕は、理性的になる。

 ――どんなにひどいこと聞いても、なにも感じないくらい。

 マリアは告白したのではないか。

 父から受けた仕打ちを、暴力を、それ以上のなにかひどいことを。

 ――思慮深く、慎重で、ちゃんと計画して。

 そしてマシューは、なにも感じなかった。それを聞いて、なんの感情も湧きあがらなかった。兄の冷静さにショックを受けたマリアが病室を飛びだしても。客観的に状況を分析し、すべきことを熟慮し、実行した。

 ――マットは、変わってなんかない。

 断続的な電子音がした。卓上の電話が鳴っている。茫然自失したまま、受話器に手を伸ばす。「ナンシー?」母の声がした。

 父が座るソファの向こう、入口のドアが開く。ジーンズを履いた青年が顔を覗かせたが、ロバートを来客と思ったのか、なにも言わずに顔をひっこめるとドアを閉じた。

「どうしたの」

 椅子から立ちあがり、ナンシーは窓辺へ近づいた。外を眺める。相変わらず小雨が続いている。電話の向こう、ためらうような息づかいと、泣き濡れた声がした。ポプラ並木を見下ろす。傘を差した男が歩いてくる。

「落ち着いて、聞いて。ロブが……」

「父さん? 父さんならこっちに」

「倒れて、病院に運ばれて」

 男の歩き方は妙だった。少し左足を引きずっている。年代物のフォードが通り過ぎ、男は傘を下げた。

「死んだって」

 周囲が急に明るくなった気がした。見上げる。薄い雲の向こう、太陽が輝いている。

 まばゆさに瞼を細めた。傘を手にしているのが誰なのか、ようやくナンシーは悟った。男のほうへ、軽く手をふりながら声をかける。

「父さん」

 窓の外、娘の声に気づいたロバートが、顔を上げた。コーヒーを飲み干す仕草をする。オーケイのサインを返し、窓辺を離れたナンシーが部屋をでていくのを私は見ていた。通話を切り、受話器をデスクへ戻す。空のソファ、ハードカバーの本が積まれたローテーブル。リモコンを手にとり、巻き戻しボタンを押す。

 自分自身に前頭葉賦活剤を注射したのは、いつだったろうか。

 窓の外を見る。青空と曇り空が重なっている。とっくの昔に、雨は止んでたんだ。こんなにも空は明るかったんだ。ビデオテープを巻き戻す音が続いている。

 PETでの検査結果は父の仮説を裏づけた。しかし、世界で唯一の事例であるマシューの病を救うすべなどあるはずがなかった。

 そして父は逝った。ある日、唐突に。残された凡庸な一人の研究者に、生きる目標も望みもなかった。せめて、贖罪しょくざいが必要だった。なにもできなかった自分には罰が必要だった。死ぬことなど許されない。マシューと同じ苦しみを味わうことなくして、誰が自分を許すというのか。

 ――お前は、相変わらずだな。

 ごめんね、父さん。

 ――本当に患者と距離をとるのが下手だ。

 巻き戻しが終わる。再生ボタンを押す。どこからか、スローテンポの曲が聞こえてくる。


   魅せられて駆けてゆく

   銀色に輝やくジャンボジェット

   滑走路よ、さようなら

   ひからびた頃に会いに行く


   僕らは遠くで灰になる

   灰になって帰らない

   壊れたスプリンクラーの撒く水が

   芝生の上でダイヤになる


   死にかけの犬が息をしている

   僕らは波に駆けてゆく

   太陽の下で見失って

   そしてもう二度と帰らない


 僕は小さく身動ぎする。

「マット?」

 指先が、マリアの肌に触れた。

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ミッシング・アンダー・ザ・サン 小田牧央 @longfish801

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