3-4

 検査用紙に印刷された数字を読みあげる。

「8、2、1、9、5、2、4、7、1、3、7」

 一拍おいて、無表情なマシューの唇が開いた。

「8、2、1、9、5、2、4、7、1、3、7」

「逆に」

「7、3、1、7、4、2、5、9、1、2、8」

 ペンを握る手が震えそうになるのをナンシーは感じた。ありえないこと、理解できないことが起きている。

 父親を殺害した後、マシューは警察に自首した。以前から父親を憎んでおり、ずっと機会を伺っていたと供述した。自宅に前回泊まった晩、父親が納戸に護身用のコルトを隠しているのをみつけ、それがきっかけになったという。

 前頭葉賦活剤の投与は中止された。殺人との因果関係は、誰にも答えられなかった。あらゆるデータが、少年は衝動的な感情を抑制する能力を身に着けたことを示していた。マシューは週に一度は自宅に戻っていた。家族三人が仲睦まじい様子で外食している光景を目撃した者もいた。なぜ突然このような事態に陥ったのか、誰にも説明できなかった。警察署と医療チームがやりとりする間に、病院に戻ったマシューは奇妙な症状を訴えるようになった。

 ナンシーは検査用紙の数列をみつめた。そこには紛れもなく、十一個の数字が並んでいる。ほとんどの人間にとって短期記憶で暗唱できるランダムな数字は、七つから多くとも九つまでだ。

「いま、逆唱するの、凄く早かったよね。どうして?」

 ベッド脇に置いた椅子に腰掛けるマシューは、肘掛けに身体を斜めにし、気怠そうに瞼を細めていた。

「……みてるから」

「みてる?」

「頭の中に……数字を書く。紙に字を書くみたいに」

「それが頭の中に残っていて、読みあげるだけでいいってこと?」

 黙ってマシューはうなずいた。注意していなければわからないくらい、小さなうなずきだった。

 異常は記憶力の向上だけではなかった。毎夜のように、マシューはナースコールをした。看護師が駆けつけると、冷凍室に閉じこめられていたかのように全身を震わせ、部屋と通路を確認してほしいと頼みこんだ。父親の幽霊をみたのだという。それは驚くほどリアルで、夢のような感じではなかった。ありありとした実体感、声、そして肌触りがした。ときとしてそれは部屋の入口に立ち「来てやったぞ」と声をあげた。また別のときは、目が覚めた瞬間ベッドの傍らに座っていて、マシューの手を強く握りしめた。

 これだけならば、極度のストレスが原因とも云えただろう。しかし、それだけでは説明のつかない変化があった。人の顔を識別することが困難になった。目鼻といった顔のパーツや肌ばかりが気になり、ときには相手が表情を少し変えただけで誰だかわからなくなった。長い文章を読むと名詞がでるたびにありありとしたイメージが脳裏に浮かび、逆に文章全体の意味合いをつかむことが難しくなった。

 アーウィンの殺害から三週間後、マシューには感情が鈍磨していく兆候が現れていた。いったん会話が始まれば続けられるが、急に声をかけると気づかないことがあった。好きだった音楽になにも感じなくなり、日毎にその瞳から生気が失われていった。

 誰にも原因がわからなかった。幻覚が生じること、感情の平板化が進んでいることなどから、統合失調症を疑う声もあった。しかし向精神薬を投与しても改善はみられなかった。賦活剤の中止により、前頭葉に再び障害が起きているのではという意見もあった。しかし検査結果は、むしろ前頭葉の働きが依然として活発なことを示した。

「今日は、これで終わり」

 立ちあがる。窓辺にいたマリアがふりかえり、ゆったりした足取りで歩み寄る。ベッドに腰掛け、うつむく。マシューがいる椅子の、肘掛けに置かれた兄の腕に、そっと手を触れる。

「マット?」

 ナンシーは、前回のミーティングのことを思いだした。看護師の一人が、妹の胸に触れるマシューを目撃したという。

 それはマシューが能動的に触れたのではないようだった。マリアが、兄の手首をとり、自分のシャツの下へ導いたのだという。看護師が部屋に入ると即座にマリアは兄の手を離し、いつもの沈んだ、暗い表情をしていた。

「じゃあ、また明日」

 兄妹は、どちらもなにも答えなかった。マシューの目は、まるでナンシーがそのまま対面の椅子に座り続けているかのように、なにもない宙をみつめていた。

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