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 すべてが順調だった。定例ミーティングのたびに提出される心理テストの結果は、マシューに感情を理性的に抑える能力が回復しつつあることを示していた。陽電子放出断層撮影(PET)による検査でも、前頭葉での糖代謝量、血液流量が増加していることが確認された。

「どうだい、親父さんはなにか言っていたか?」

 足組みをして座るキルヒャーが、ペン先でミーティング資料を叩きながら言った。

「プロザックに次ぐ新薬だな、と言ってたわ」

 ナンシーの言葉に、メンバー全員が笑った。プロザックは世界全体で一千万人以上が使用している抗鬱剤で、副作用が少なく中毒性もないと云われている。

 もちろん、実際にロバートがそんなことを言うはずもない。仕事の内容を話したことは一度もないのだから。しかしナンシーの父親が有名な脳科学者であることを知らないメンバーはいなかったし、この手のキルヒャーの冗談は過去に何度もくりかえされていた。

 微笑みながらナンシーは手元の資料に目を落とし、胸のむかつきをこらえた。父に憧れて現在の職業を選んだことは確かだが、コンプレックスでもあった。上司も同僚も、ロバート・ウィリアムの娘というだけで過剰に期待し、そして失望する。これまで何度かナンシーは父に困難な問題を相談し、そして目を見張るような回答を得てきた。そのたびに父の素晴らしさを再認識し、同時に自分の無力さ、凡庸さを思い知らされた。

 ミーティング終了後、いつものようにマシューの顔を見に行くことにした。会議室からナンシーの執務室への経路を少し遠回りするだけで、病室に寄ることができる。

 それが言い訳に過ぎないことは、自分でもわかっていた。ナンシーの役目は主観的な変化をマシューから聞きだし、メンタル面での悩みがあれば相談に乗ることだ。週に数回の面談だけでは、どうしても気持ちが通じない。かといって必要以上に患者と接触すると、今度は客観的な評価がしづらくなる。過去の経験からして、ナンシーには被験者との心理的な距離を近くしすぎる傾向があった。

「あ、ごめんなさい」

 通路の角から現れた少女に、ぶつかりそうになり声をあげた。よく見ると、それはマリアだった。睫毛まつげが涙に濡れ、瞼が赤く腫れている。驚いて足を留めたナンシーの横をすりぬけ、マリアは小走りに駆けていった。声をかける余裕もない。

 ――マットは病気なの?

 いつか聞いた、マリアの言葉が蘇る。

 副作用が少ないとされるプロザックだが、服用後に自殺衝動が高まったという事例が数多く報告され、たびたび裁判沙汰になった。プロザックの発売が開始されたのは一九八七年、自殺衝動の副作用について警告表示がされたのは二〇〇四年からだった。

 自殺衝動の副作用については、プロザックだけでなくすべての抗鬱剤が警告表示の対象になった。鬱病患者が自殺するのは鬱がもっともひどい時期ではない。むしろそこから回復して「自殺する意欲」が生じる時期こそが危険だと、精神科医ならば経験的に知っている。仮に、プロザックの劇的な効果により鬱が改善され、それによる不可避な結果として自殺衝動が高まるとすれば、果たしてそれは副作用だろうか。

 プロザックなど抗鬱剤を、ポジティブになれる「ハッピードラッグ」と称して服用する健常者がいるという。精神疾患のための薬の一部は、記憶力や学習能力といった知的能力を向上させてくれる「スマートドラッグ」として学生やビジネスマンに利用されている。一方で、コーヒーなどに含まれるカフェインを、眠気覚ましや集中力向上に用いるのは一般的なことだ。病と健康との間に、必ずしも明確な境界はない。

 ナンシーの胸に、妄想めいた考えが浮かんだ。前頭葉賦活剤が完成したならば、次になにが起こるだろう。この薬は、健常な人々の前頭葉の働きも向上できるかもしれない。これを飲めば集中力が高まり、計画的に物事を考えられるようになります。そんな謳い文句の薬を必要としない人間など、この世にいるだろうか。

 トレバー製薬は喜んで開発を推し進めるだろう。地球上のあらゆる人々が必要とする、巨万の富をもたらしてくれる薬を。そして、なにが起こるのか。すべての人々が社会のルールを守り、穏やかに理性的にふるまう。完全に道徳的な、平和な社会が実現するのだろうか。

 通路を進み、ナンシーはマシューの病室に入った。陽が沈み始める時刻で、部屋は薄暗かった。

「明かり、点ける?」

 マシューはベッドに腰掛けていた。ぼんやり、窓からの光景を眺めていたようだった。ゆっくりとふりかえり、ナンシーの顔をみつめ、首を左右にふった。

「好きなんだ。こういう、薄暗いの」

 そう、と相槌を返しながら、ベッドの傍へ歩み寄る。さっきマリアとすれ違ったけど、とナンシーは続けた。

「うん、ちょっとケンカした」

 はにかむような顔をしていた。深く立ち入ることは避け、いつものように日常的な話題について雑談を交わした。

「ねえ、ナンシー」

 不意に、それまでの会話の流れを断ち切る調子で、マシューが口を開いた。

「僕が治るって、どういうことだろ?」

 その質問はひさしぶりだった。以前はもっと頻繁ひんぱんに、同じことを訊かれた。もっとも気に入っていた答えを、ナンシーはくりかえした。あなたはもうわかってるはずよ。自分でそれを体感してるんだから。答えを教えてほしいのは私たちのほう。

「うん、そうだね」

 顔を斜めにし、宙をみつめながらマシューはうなずく。

「きっと僕は、理性的になる。信じられないくらいクールになる。どんなにひどいこと聞いても、なにも感じないくらい。思慮深く、慎重で、ちゃんと計画して」

 その顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

「父さんが誰かに殺されたって、へえって言えるくらい」

 それが、唯一の徴候だった。

 なぜ「死んだって」ではなく「殺されたって」なのか。ナンシーはその日のうちに、メールで医療チーム全員に周知した。チームリーダーのポールは行き過ぎとも思える懸念を受けとめ、来週前半のミーティングで対策を検討することを約束した。ナンシー自身、その時点では、父親との対立が悪化しているのではないかという程度の危惧に過ぎなかった。

 すべては遅すぎた。マシューがアーウィンを射殺したのは、その翌日のことだった。

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