第22話 ちょっとした悲しみへの雑文

 なんの優劣もなく、すべてが趣味嗜好でしかないなら、技術も感性もなにも意味はなくなり自分しかなくなり、磨くこともなくなり、過去から現在までに積み上げられてきた他者の詩や小説の試みも何もかも意味を失うだろうね。芭蕉も朔太郎も、モーツァルトもショスタコーヴィチも皆んな皆んな、思いつきの呟きと肩を並べて、さぁ、皆んな一番ですよ、と仲良くゴールインするのだ。


 キース・ジャレットのピアノよりピアノを習い始めた我が子の演奏が好きだ、癒されるはわかるが、ジャレットの演奏よりピアノを習い始めた我が子の演奏の方が優れているなんて言われたら、肩も顎も落ちてしまい僕は声も言葉も失って唸るばかりの鯰になるだろう。やがて身体を揺すりだし、自身で地震を起こして死に絶えるだろう。要はまぁ、そんな気分なのです。


 僕は今、谷川俊太郎の"かなしみ"みたいな二連詩がどうしたら書けるだろうか、とずっと考えている。あんな二連詩が書いてみたい。なんだか、うんざりしていたのがどうでも良くなってきた。でも、かなしみの詩の前に立ったら、僕は余計に悲しくなってしまった。

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蔵の中のひと 日々のあれこれ 帆場蔵人 @rocaroca

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