第21話 短歌
やまと歌は、人の心を種として、
よろづの 言の葉とぞなれりける。 古今和歌集・序文より
縁とは不思議なもので、近々創刊される歌誌に短歌や短文を寄稿することとなった。とは言え短歌について石川啄木と東直己、つまり近代と現代の二人の歌人と寺山修司を読んだ程度の素人である。(古今和歌集、百人一首、万葉集はつまみ食い) 短歌を何度か作ってみたが、客観的に評価される場で他人に読んでもらったこともない。正直、時間もあまりないなかで何故、引き受けたのだあのときの僕よ、とぼやきも出たりする。
さぁ、やるぞ、と気合いを入れてみたが筆が走らないどころか歩きもしない。参った、と煩悶しているときに台湾万葉集という本が書棚にみえた。知人から進められて面白そうだと購入して積読(積んではないが)のままにしていたものだ。そこで冒頭に引用した古今和歌集の序文を思い出した。(万葉集ではないのか、と言われそうだが) 詩歌を作るためにメモしているiPhoneのメモ帳や、創作ノートを開いてみる。あれやこれや日常のなかの気づき、気になったこと、詩歌や小説などの文章の抜き出しなどなど、僕のこころから落ちた種が所狭しと転がっている。よくみると短歌の定型、三十一文字になっているものまである。例えば、
こころはすててきた あるくにはつらすぎて さかをころげてみせたのだ
これそのものが短歌になるかはともかくとして、何やら筆が目的地を定めようとぴくぴくと楽しげに疼き始めるのを感じた。自由詩と同じだ。もちろん定型や短歌のルールはあるだろうが、七五調は馴染んだリズムである。この種たちをどのように育てるのか。まずは水をやり土や天気を観てあとはその周りを毎晩、狂った犬みたいに唸りながらぐるぐると廻る。
もうすこし具体的に言えば散歩したり(水をやり)料理したり本を読んだりと暮らしのなかで、考え(土を肥やす)、ひらめきを待つ。そうして猫の尻尾のゆれるのを観ていてハッ、としたりする。或いは友人が淹れる決して上手くもない珈琲について、真摯に極めて紳士的に話し合っているときに (この辺りは友人の空模様が怪しく雷が落ちたりもするが) 途端にむずむずして、芽が出て花が開いていたりする。
そのように思えばこれは庭や畑のようだ。僕の精神を土壌として種を蒔く。そこには人の営みと自然がある。花だけでなく虫や鳥や他人が訪れ、災害も起こるだろう。でも、とても自由な場所なのだ。言の葉の庭とでも呼ぶことにしようか。そんな庭を僕は裸足で歩き、走りまわり、短歌と向き合っている。
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