曲がり角に先には

 原文

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054888344571/episodes/1177354054888344579



 道を歩いていた。

 薄暗い道だ。

 陽の光もなく、かと言って月明りもなく、ただほの暗い灰色が覆う空の下、何処に続くとも知れぬ道を歩き続けている。


 この世界から昼と夜が失われて、もうどれほどの時間が経つだろう。

 私はどこまでも広がるのっぺりとした灰色の空を仰ぎ見て、その虚無感に一瞬眩暈を覚えた。

 僅かに歩調を乱した私を、隣を歩むチームのメンバーが不安そうに覗き込む。

 私は曖昧な笑みを浮かべて、何でもないことをアピールする。

 

 チームの人数も、もう私を含めて10人しかいない。

 一人抜け、二人抜け、いつからかそれを数えることも億劫になっていた。

 私もそろそろ、誰かを誘って抜けようかと思っている。


 道を歩いている。

 先の見えぬ道。

 後には引けぬ道を。


 この前から、とうとう方位磁石も使えなくなった。

 その頃には、最早その程度のことに絶望する気力もなくなっていた私たちは、自分たちが何処に向かっているのかもあやふやなまま、今もこうして模糊たる道のりを歩き続けている。

 やがて、先頭を歩む幾人かの足が止まった。

 数歩分遅れてそれに追いついた私たちの間に、久しぶりに緊張が走る。


 それは、何の変哲もなく、不思議もない、世の中にありふれた場所。


 曲がり角だった。



 ■■■



 切っ掛けは、あの日、授業中に鳴った警報だった。

 教室に生徒が携帯電話を持ち込むことは禁じられている。

 唯一教室内にあった担任の教員の持つ携帯が耳を劈くようなアラートを鳴らし、その通知を見た担任は一瞬で顔を蒼褪めさせると、不安と興奮にざわめく私たちへの指示もそこそこに、教室を飛び出して行った。


 それからしばらくの間、教室に取り残された私たちはそわそわと落ち着かず、一体何が起きたのかと顔を突き合わせて話し込んでいた。

 しかし、その興奮もやがて落ち着き、いつまで経っても担任が戻ってこないことを不審に思い始めた時には、いつしか教室の雰囲気は、とても重たく、息苦しいものに変わっていた。

 みなの口数も少なくなり、不自然な無音の状態が何度か続くようになる。

 その時、不意に私の名前が呼ばれた。


 「メアリー・スーを呼んで頂けませんか」


 声は、教室の後ろのドアから聞こえた。


 声の主は隣のクラスの女生徒で、彼女と私は同じ県営住宅に住んでいる幼馴染だ。

 学校ではクラスが違うため会う機会も多くはないが、学校から帰ってからは、よく遊んだり、時折は一緒に勉強などもしている。


 私はグループの子たちに断りを入れて、彼女の元にぱたぱたと駆け寄った。

「どうしたの」

「このクラス、何をやっているの。『さっさと帰りなさい』って言われなかったの?」

「担任の先生が出て行ったまま帰って来ないの」

「じゃ、私と一緒に帰りましょう」

「ううん……」


 私は、その時なぜ彼女の誘いを断ったのだろう。

 私たちのやり取りを不安そうに見つめるクラスメイトの視線があったからか。

 それとも、自分たちが異常事態に見舞われていることを認めたくない気持ちが、まだ残っていたからか。


 担任は結局、帰って来なかった。やがて別の教諭が回って来て、ここの教室にまだ生徒が残っている事が知れたのだ。

 私達は、この時点で既に『出遅れ組』になっていた。

 もう生徒など殆ど残っていないグラウンドに集められ、急いで帰宅しなさい、との指示を私たちが聞いたのは、最初の『携帯への緊急通報』が発せられたから2時間以上過ぎてからだった。


 残り少ない生徒の中から、比較的住居の近い者が集められ、学年に関係なく臨時のチームが組まれた。

 見知った顔もないではなかったが、特段親しくしているような人は見当たらない。

 こういう場当たり的に決められた集団というのは、コミュニケーション能力の低い私には中々辛いものがある。私はそんな集団の中でも、早速寄り集まってナカヨシグループを形成している幾人かの女生徒たちに恨めし気な視線を向けると、出来るだけそこから離れた位置をキープしつつ、のろのろと歩み始めた。


 私の自宅付近までは、普通に電車に乗れば20分も掛からない距離だ。しかし、当然のようにそれは動いていなかった。

 いや。それどころか――。


 それ・・に気付いたのは、最年長であるというだけで選ばれた無愛想なリーダーではなく、とても人当たりの良い、上級生の女子だった。


「ねぇ、おかしくない?」

「何が」

 彼女の問いかけにぶっきらぼうな声を返す臨時設定のリーダーに、彼女は不安げな表情で辺りを見回して言った。

「この道、幹線道路だよね。他の人達はどうしたのかしら。さっきから、誰にも会っていないような気がするのだけど」

「…………え?」


 リーダーだけでなく、全員が周囲を見渡した。

 私はガードレールから身を乗り出し、その先ある道路を見たが、私達以外には人影が全く見えない。

 そういえばこの道路は、自動車の通行量が多過ぎて問題になっていたはずだ、さっきから全く車に行き合わないのは何故だろう。

 その後、私たちは目を皿のようにして、自分たち以外に何か動くものがないか探しながら歩いたが、ついぞそれを見つけることは叶わなかった。

 私たちの視線は徐々に動くことをやめ、いつしか足元の地面に固定されていった。



 道に迷ってしまった。


 最初は、JRの線路に沿って歩いていたのだが、誰かが「このままじゃ、私の家から離れた場所に行ってしまう」と言ったのが切っ掛けで、そこから離れてしまった。

 私はあの時、なぜ「私の家は線路の近くだから、このまま行くわ」と言えなかったのだろう。

 そうすれば、もっと早くに楽になっていたかも知れないのに。


 住宅地に入り込んだ時のことだった。

 ある四つ辻に差し掛かった時、「俺、この道知ってるから」と、一人の男子生徒が早足で先に進んで行った。彼が角を曲がったのを見て慌てて追いかけた私たちの前から、彼は姿を消した。

 角を曲がった先は、長い一直線の道路だった。

 人っ子一人いない、ただの道路だった。

「どんなスピードで走ったんだよ、あいつは」という誰かからの言葉は、何故か震えと共に発された。


 誰もが、その言葉が見当違いであることを知っていた。

 もちろん私も知っていた。


 彼は、消えたのだ。


 そして角を曲がる度に、先頭にいた生徒が消えていった。1人、2人、3人……。

 先程まで確かに見えていた背中が。

 確かに聞こえていた足音が。

 曲がり角を曲がると、消えてなくなる。


 そんなことが幾度か続いた時、一人の生徒が狂ったように先頭を走り出した。

 耐え切れなくなったのだろう。

 もちろん、彼も消えた。


 また、目の前に四つ辻が見える。


「お前は行かないよな」と、肩に手を置かれて、自分が皆に先んじて足を踏み出そうとしていたことに気付いた。


「うん。大丈夫」

 何が『大丈夫』なんだろう。

 反射的に出た言葉は、思ったより大声だったようで、静まり返った住宅街の中に、いやに大きく響いた。


 その角は、皆で曲がると特に何も起こらなかった。

 全員が小さな溜息を吐いた、それが合わさって不気味なほどはっきりと聞こえた「ふう」という音に、全員がぎょっとして顔を蒼褪めさせた。



 電話が繋がらない。

 呼び出し音すら鳴らない。だが、これなら僅かながらに希望が持てる。通話中の可能性が無くはないのだから。

 そんなことを言い合いながら、乾いた笑みで互いを励まし合う私たちのうちの一体何人が、その可能性が残っていることを信じていただろう。


 我が家には母がいる。日本に働きに来てから色々なことがあって、家から出られなくなったのだ。

 父は会社に出勤している。

 そのどちらとも、連絡が取れない。

 私たちの携帯電話は、いつしか『圏外』になっていた。

 どこかに公衆電話は無いのだろうか。

 両親と連絡が取れるかを、もう一度確認したい。

 二人の声が聞きたい。



 もう、私達は人間として、ちゃんと生きているのかさえ疑問に思う。

 食料は、コンビニやデパ地下などで勝手に取って食べている。

 もちろん店員がいないので、料金など払いようがない。どこへ行っても店のものは自由に使えたが、トイレにだけは難儀した。水の流れない水洗式トイレほど、無意味なものはない。


 これ以上、人数を減らしたくない。

 周囲を調べる時は、必ず複数人で行動する。

 角を曲がるとき、決して一人で曲がってはいけない。

 これは、誰が言ったのでもないが、いつの間にか決まった暗黙のルールだ。

 そしてそのルールを守り続ける限り、それ以上人が減ることはなかった。

 ただし、それを守らない人間も、いなくなることはなかった。

 

 その日は2人で出かけた。もう1人も女子だ。

 デパートの駐輪場の影で見張りを交代しながら用を済ませた後、お菓子売り場に向かった。

 もう、生ものは食べられなくなったからだ。

 昨日、食い意地を張って何かに当ったのか、腹痛を起こして土気色の顔をしていた下級生の男の子は、いつしか姿を消していた。

 適当なスナック菓子を選び、無造作に開封して口に放り込む。サクサクした感触が心地好い。ほとんど味は感じなかったが。


 「ねぇ……」

 私は同行者の女子に声を掛けた。特に用があったわけではない。少し話しをしてみたかっただけだ。


 返事がない。


 振り向いて、さっきまで一緒にいたはずの生徒を探す。

 ここには多くの仕切りがあって、直接は見えない場所がある。通路まで出て左右を伺いながら慎重に進むが、彼女の姿は見えなかった。


 消えた。


 こんな、道路でもない場所で。

 少なくとも今までは、こんな場所で『消えた』事などなかったはずだ。

 これからはそうではないと、そう言う事なのだろうか。このような仕切り程度でも、消えるようになったのだろうか。


 私はしばし、呆然と立ち尽くしていた。

 今、私は一人だ・・・・・

 角の多い建物だ。とてもではないが、それらを全て避けて脱出することなど出来るわけがない。

 他の生徒がここに来る可能性は……極めて低い。可能な限りばらけて調査に出たのだから。


 私達が帰らなかったら、探してもらえるだろうか。

 いや、それは無いだろう。

 せいぜい、二人でグループを抜けた、とでも思うに違いない。

 きっと私が逆の立場でもそう思うだろう。


 私は、足元の床が突然ぐにゃりと形を変えたかのような錯覚を覚え、その場に尻餅をついた。

 ぐわん、ぐわんと、世界が回っていく。

 自分の周りを囲む壁が、不意に厚みを増したような気がする。

 吐いた。

 胃液と共に、先程口にした駄菓子の残骸が床に散らばる。

 その光景が、眼に張った涙の膜で滲んでいく。


 ねえ、おかしくない。お前は行かないよな。大丈夫。俺この道は知ってるから。どんなスピードで走ったんだよあいつは。ねえ。私と一緒に帰りましょう。曲がり角が。灰色の空。消えた。ねえ。大丈夫。ねえ。私は。帰りましょう。私と一緒に。さあ。

 

 その時。

 私の耳が、人の話し声を捉えた。


 どこか懐かしく、心落ち着く笑い声。


 お母さん?


 どろどろと融け始めていた思考がクリアになっていく。

 目の前が明るくなっていく。

 芯を失っていたかのような足に、力が取り戻されていく。


 私は、立ち上がった。

 

 そうだ。

 家に帰らなきゃ。


 ここはお菓子がいっぱいあって、離れるのは名残惜しいけれど。

 家に帰らなくては。

 ほら、心配してお母さんが迎えに来てくれた。


 まるで小さな子供の頃に戻ったみたい。

 少し気恥ずかしい。


 目の前に、曲がり角がある。


 さあ、行こう。

 その先に、きっとお母さんがいる。

 私を待っているはずなんだから。


 さあ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

推敲を遂行しよう lager @lager

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ