夏の終わりのハナビ

雨瀬くらげ

夏の終わりのハナビ




 彼女が夏休み中に町を出ていくというのは幼馴染としてもちろん知っていた。知っていたのに驚いた。いや、知っていたからこそなのかもしれない。


 月明かりに照らされながら玄関に立つ彼女は日頃見る彼女とは違い、どこか寂しげだった。僕は、真っ白になっている頭からどうにか言葉を見つけ出し、


「どうしたの? こんな真夜中に」


と冷静を装いながら訊いた。彼女はコンビニで売っているような手持ち花火が数本入った袋を僕の前に突き出した。


「どうせまだ眠くないんでしょ?」


 まあね、と答えておいた。特に嘘をつく理由もなかったし、何より、久しぶりにこうして彼女と面と向かって話すことにテンションが上がっている自分がいるからだ。僕は自分の気持ちに従っただけだ。


「じゃあ、一緒に来て」


 僕と同じくジャージ姿の彼女は僕の手を痛いくらいに強く握り、歩き始めた。彼女から引っ張られる形で歩いているため、彼女の顔は見えないが、僕の顔はおそらくタコと間違われるくらいに赤くなっているだろう。女の子に手を繋がれて嫌な男はいないとよく言うけれど、これはそんなものじゃないと僕は思った。


「何年振りだろうね。こうして手を繋ぐの」


 彼女は振り向かずに言ったため、やはり顔を窺うことはできなかった。


 確かに昔はよく手を繋いでは、近くの公園――といっても滑り台とブランコしかないのだが――や、探検ごっこと林へ遊びに出かけたものだ。病院や本屋もなければ、『地域のお祭り』といったものも存在しない小さな町だったので、一日のほとんどを彼女と過ごしていた。


 しかし、それも幼稚園までの話だ。


 小学校では片道二時間をかけ、隣町へ行かなくてはならなかった。入学式当日、人数の多さにびっくりした。初めての人混みに圧倒され、失神しないようにするだけで精いっぱいだった僕に対し、彼女は教室に入る前から女の子たちの会話の中心となっていた。その時からだ。僕と彼女は生きる世界が違うのだと、小学一年生ながら感じ取っていた。休み時間は、僕はただ一人で本を読むだけ。彼女とその友達はおしゃべりで盛り上がる。そんな毎日だった。とはいえ、行きや帰りは一緒なので、僕は毎日その時間を楽しみにいしていた。だが小学生において、地味な僕とクラスのアイドルのような彼女が一緒に帰ることが何を示すのか、当時の僕は知らない。


「なあ、お前ら付き合ってんの?」


 ある日、いわゆるガキ大将という奴に唐突に訊かれた。僕は相手がそいつというだけで怯え、声が出なかった。


 彼女はそんな僕を助けてくれるかのように間に入ってきた。


「私たちは……ただの友達だよ?」

「そっか。でもお前、こんな奴とあんま関わんねーほうがいいぞ。こいつ本ばっか読むオタクだから」

「そんな事ないよ」


 彼女のおかげで助かったのだが、少し傷ついた。ガキ大将の言葉ではなく、彼女の言葉に。彼女と友達として過ごしていた。そう思っていた。でもそう思っていたなら傷つくことなどない。当時の僕からすれば、このなんとも言えない気持ちは何だろうと不思議に思っていた。好きだったんだろう。いや、だったではない。おそらく現在進行形だ。自分と違う世界で過ごす彼女への憧れはいつしか【好き】に変っていた。だが彼女の言葉で、彼女はそんな風に思っていないと知った。


 その日から、僕は彼女と一緒に帰るのをやめた。


 学年が上がるにつれ、あの日の彼女の言葉は嘘だったらしいということが分かった。いや、わかったというのは言い過ぎかもしれない。悟った、の方が正しいだろう。


 彼女は明るく、成績もいいし、運動もでき、見た目も可愛いため、男子からよく告白を受けていた。しかし、すべて断っている。校内一を誇る人でさえ断っている。もちろんそのことから悟ったわけではない。それで、まさかと思う男子はただのバカだと思う。自分で言うのもなんだが、僕だって成績はかなりいい方をとれる頭だったので、彼女の些細なアピールには気が付いていた。嬉しかったし、自分から告白しようかとさえ思った。


 だができなかった。怖かったのだ。例のガキ大将から色々言われるんじゃないか。クラスメイトからも言われるんじゃなかろうか。「……え、あいつが告ったの?」「私だったら吐く」「自分の立場わかってんのかな」「キモ」終いには「死ね」だ。

考えれば考えるほど怖くなり、何もできないまま、中学校生活最後の夏休みを迎えた。


「隣の子たち、夏休み中に引っ越すんだって」


 夕食の時、突然母から告げられた。


「え?」


 箸に挟まっていた豆腐がみそ汁の中に落ち、汁がはねてティーシャツが汚れた。


 僕は気にせずもう一度「え?」と言った。


「お父さんの会社の都合だって。高校もあっちで行くみたい」

「は? 何で?」

「だから、お父さんの……」

「そうじゃなくて」 


 すごく興奮していて、拳でテーブルを叩いた。麦茶を入れていたコップに腕が当たり、中身をぶちまけてしまったが、構わず問い続けた。


「あと何か月かだけなのに、何で残らないの? お父さんだけ先に行けばいいじゃん」


 答えられるはずのない質問に母は眉をハの字にさせた。


「そりゃあ、家庭の事情っていうものがあるんでしょ。私もそんなに詳しくは知らないわよ」


 悲しかった。ただただ悲しかった。涙が出そうになるのを必死で堪え、「もういらない。ごちそうさま」と、麦茶を片付けないまま自分の部屋に駆け込んだ。そしてベッドに顔を埋めて泣いた。声を出さないようにしながら、とにかく泣いた。


 扉越しに母の声が聞こえる。


「お別れの挨拶はいつ行くの?」


 僕は黙って何も答えなかった。すると、


「すぐにとは言わないけれど、ちゃんとするのよ」


と言って階段を下りてゆく足音が聞こえた。


「したくない」


 僕はついに声を上げて、一晩中赤ん坊のように泣きじゃくった。


 そして、夏休みも残り数日となった日の夜。深夜一時を過ぎるころだ。


 彼女が来たのだ。

 手持ち花火を持って。


 昔彼女とよく遊んだ林を抜けると、小さな川が流れていた。ここまで散策したことはなかったなと、あたりを見渡していると、


「懐かしいでしょ」


 と、手を放した彼女がついに顔を見せた。少し、紅潮している。おそらく僕はあれ以上だ。


 懐かしいでしょ? ……ということは、僕たちは一回以上ここに遊びに来たことがあるということだろう。いや、でも記憶にない。僕はフクロウ並みに首を捻った。


「もしかして忘れたの? ひどいなぁ」


 彼女は「夜型なところも含めフクロウだー」とも言いながら、夜中なのにもかかわらず大きな声で笑った。


 急に笑うのをやめたかと思うと、急にしゃがみ込み、急に川に手を突っ込み、何かを捕まえた。


 獲物を高く掲げる彼女はない胸を張り、


「ザリガニハンターの腕、健在!」


と叫んだ。


「あー……よく捕ってたな」

「お、思い出した?」


 よく指挟まれてたっけな。フクロウってザリガニ食べないのかな。


 すごい痛い記憶が蘇って来て、あまり思い出してよかったとは思えなかった。僕は痛みもリアルに思い出し、思わず昔挟まれた指を押さえた。


「大丈夫だよ。挟ませやしないから」


 そういえば、彼女に挟められたんだっけな。もっと思い出したくなかった。


 彼女はザリガニをそっと川へ返すと、手持ち花火の袋を開け始めた。


「なかなかあいさつに来ないから、自分で行くことにしたの。君のことだからこのままじゃずっと来ないだろうなって思ったから」


 彼女は一本手持ち花火を僕に差し出した。僕がそれを受け取ると、彼女は「ライターどこやったけー」と言って、ジャージのポケットを探っていた。


「あったー!」


 カシュっというライター独特の音がし、火が点くと共に月が雲で隠れ、光源はライターの炎のみになった。


「おおー。ナイスタイミング。ロマンチックだね」


 家に来て、すぐは寂しそうだったが、今は明るい。明るいといっても、明るさで寂しさを隠そうとしているようだった。


「はい、先に火、点けていいよ」

「お言葉に甘えて」


 僕は彼女のライターに向かって――日が噴射したときに彼女の手に当たらないような場所から――手持ち花火の先端を向けた。


 燃え移ったかと思うと、轟音を上げながら白い炎が噴き出した。炎の色はだんだんピンクに変化し、やがて黄緑色になった。


「綺麗でしょ」

「そうだね」


 彼女の花火はまだピンクだったが、僕の花火はもう紫色になっていた。


「四段階で色が変わるって珍しいよね」


 僕が純粋な疑問を口にすると、彼女は少しテンションを高めて、


「そうかなー。よくあると思うよ」

「え? 普通三段階くらいじゃない?」

「花火してる回数は私の方が多いから、私の方があってますー! べーだ! べーだ!」

「現実突きつけるのやめてくれない?」


 舌を出し、ふくれっ面をする彼女の顔が見えなくなったと思ったら花火が終わっていた。彼女も終わったようで、あらかじめ、準備していたバケツに捨てる。


 新しい花火を取ろうとすると、彼女は口を開いた。


「何でお別れ言いに来てくれなかったの?」


 花火に伸びた僕の手が止まり、僕は立ち上がる。さっきはさりげなく無視したが、二回目はそうはいかないだろう。


「もう無視はだめだよ」


 やはり。何と言えばいいだろう。怖い? いや違う。悲しくなるから? 間違っていないが、そんな事じゃないと思う。


「……」

「……」


 川の流れる音がやけに大きく感じる。


「新しい花火、しよ」


 僕はこの期におよんでまだ逃げるのか。またもや彼女に気を遣わせるのか。情けない。


「はい」


 彼女が花火を差し出してくると、雲が晴れ、再び月が顔を見せた。すると、光り輝くものが見えた。


 泣いていたのだ。彼女が。


「あー、ばれちゃった」


 彼女は袖で涙を拭った。


——大好きだったから。


 言葉としては出なかったが、自分の中の明確な答えとしてそのセリフは出てきた。


 涙を流す彼女に、それは言うべきだろうか。ここまで振り回して、傷つけているというのに。まだやるか。


 僕は自分を殺したくなるほど怒った。その怒りはどこかへぶつかることもなく、不意に、言葉として口から出た。これを言えば彼女がさらに苦しくなるとわかっていて。


「ごめ……」

「言わないで!」


 彼女の柔らかい手のひらが僕の口を塞ぎ、最後まで言わせなかった。空いている手で、まだ収まっていない涙を拭う。そして、無理やりのような笑顔を見せた。


「大丈夫。わかったよ。でも言わないで。今言わないで。……今言われたら、楽しくお別れできないから。あ、最後に言ってって意味じゃないよ。本当に……わかったから」


 本当に僕は彼女に助けられてばかり。僕なんかが彼女を好きになる資格がないと思ったが、好きという気持ちに搔き消されてしまった。


 僕は、何も言わずに彼女を抱きしめた。彼女も何も言わなかった。


 来たときは頭上にあった月が、若干西の空へ動いている。


「花火大会、君に誘ってほしかったなー」


 彼女が沈黙を破り、口を開く。もう泣いていないようだった。


「まず、その花火大会がないだろ」

「ま、あっても誘ってないでしょ」

「誘えない、ね」

「すぐそういうことを言う!」


 彼女から頬を抓られ、思わず離れた。わりと痛かったが、ずっとこうしていたいと思った。もちろんM的ないみではなく、こうして二人でふざけていたいということだ。


「さ、残りの花火を全部してしまおう!」

「うん。そうだね」


最後の一本をバケツに入れると、彼女は


「線香花火なんで入ってないかなー。こういう雰囲気の時は普通線香花火でしょ」


と、ぶーぶー文句を垂れた。僕は少しでもの彼女に対する感謝の気持ちとして、何か気の利いたことを言おうと思ったが、出た言葉は、


「僕は楽しかったよ」


 だったが、思ったよりも反応がよく、


「お、いいこと言ってくれるねー」


と、少し上機嫌になった。喜んでもらえたのなら本望だと、今回は自分を咎めなかった。もし不機嫌になられていたら、過性自己嫌悪症で死んでいたかもしれない。そんな病気あるのかわからないけれど。


 咎めなかったといったが、もう少し気の利く言葉を言いたかったとは思った。どうやら僕は頭が悪いらしい。さっき頭がよかったと言ったのは撤回にする。


 僕は引っ越すことを知った日から気になっていたことを尋ねてみた。


「大学もあっちの受けるの? 確か、○○大学っていうわりといい大学あったよね」


 すると、彼女はよくぞ訊いてくれたといわんばかりのニンマリとした笑顔を浮かべた。


「やっぱりそこ気になるか。そうだね。そこの予定だよ。ま、高校受かればの話だけど。あ、君もそこ受けたいって言ってたよね」

「え、何で知ってるの」

「二者面談で言ってたじゃん。最終的にはそこの大学に入りたいから、そこに行ける高校がいいって」

「聞いてたの?」

「私、キャッツ・アイになれるかも」

「最低だね……」


 彼女らしいといえば、彼女らしいが……。彼女は話を続ける。


「ま、もともと経済学勉強したかったからねー。ほら、あそこの教授よくテレビ出てるじゃん? 何も君がそこ志望だったからって理由じゃないよ。さすがに大学はそんな決め方できない」


 安心が顔に出てしまったのか、彼女は「よかったねー」と笑いながら、僕の鼻をつついた。さっきから微妙に痛い攻撃はやめてほしい。


「あっちでは、誰にも告白されないように気を付けるよ」

「急に何の宣言?」


 彼女は僕に背を向け、顔を見せないようにした。それにしても随分と上から目線な宣言だ。彼女が可愛いこと以外にもモテる理由があることについては異論はないのが……でも、彼女らしいか。なんだか彼女の奇怪な行動が全部彼女らしいで片付けられる自分に驚く。


「あっちでは、誰にも告白されないように気を付けるよ!」

「僕の質問に答える気ないね」


 これも彼女らしい。昔からやることが変わっていない。


「でもそれは大変でしょ」

「うん、すごく大変だよ。でも私と同じタイミングで入学するある男の子からの告白はオーケーする予定」


 彼女はまだ振り向かない。僕は面白い冗談だと思いながら「どんな子なの?」と訊いてみた。そしてついに彼女が振り向く。十五年間で一番の笑顔で。


「君にそっくりだね。いろいろと」

「そっか。きっといい子なんだろうね」


 やっとそれっぽいことを言えたかな? と心の中で自分を褒めていると、殴られた。

 本当にやめてほしい。


※ ※ ※


 夏の朝はいつだって目覚めが悪い。今日は特に悪い。


 うっすらと目を開くと、十五年間、毎日見ている天井があった。視線を上から下へ移動させると、壁に掛けてあるカレンダーが目に入った。


 本日は夏休み最終日である。


「あ……」


 僕は着替えはおろか、顔も洗わないまま家を飛び出した。彼女の家へ行ってみると、不動産屋が一人いるだけで他に火とはいなかった。


 ただ、遠くに黄色いパンダのトラックだけが見えた。


 何もせずに家に戻ると、母が玄関に立っていた。


「その顔はちゃんとお別れできたって顔だね」


 あの夜のことは母に言っていない。だがさすがは母親。何でもお見通しというようだ。


「母親なめんなよ」


 何かの小説で読んだ気がするセリフを言う母に、「受験頑張るよ」とだけ言い、自分の部屋に戻った。

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