紙魚の食卓

鈴木亜沙

第一話「月曜日・ライムントの場合」-Diffusibilität-

第一話「月曜日・ライムントの場合」-Diffusibilität-

「鏡の中に人は〈私〉を発見する」――ジャック・ラカン

(弘文堂 ジャック・ラカン 『エクリ』より))



 誰もが集まる集会所に片手を挙げて、これからの用事を告げて駆け出す五分半。泥濘んだ地面に足をとられないよう、注意しながら獣道を走り抜け。その先にあるのは、はみ出し者の魔女の家。ヘクセン・ハウス。一人ぼっちの魔女が、一人密かに暮らす家。

 決まりごとがいつからあったかというのは、もう今や定かではない。ただ、そういう仕組みであるんだよ、と子どもは親に習うし、親は子どもに教える。そんなどうしようもないことを繰り返し繰り返し、誰もはじまりを知らなくなってしまった時代。もはや残っているのは、架空の物語だけである。


 物語を食らうと語られる魔女は、正しく物語を食べることによって生き続けている。だからこうして、一日に一度だけの来客がやってくる。この男もそう。週に六人の創作家がやってくるうちの、月曜日を担う男。町の人々の決めた「魔女の生贄」であり、優秀な創作家であり、何らかの物語を紡ぐことができる男。


 ライムント。ライムント・ゲルト・ヴェルナー。線の細い男。この町には珍しい、よそからやってきた男。黒髪で、いつだって仕立てのいい服を着ている男。愛想がよく、誰もが彼を見れば声を掛ける。彼も、それに当たり前のように返事をする。「ライムントの兄ちゃん、今日はどこに行くんだい!」「やあジョセフ。今日は月曜日だから魔女サンのところさ!」――なんて。

 新聞記者の男は、今日も手帳を片手に町を駆ける。そのさまを嫌う人など誰一人いない。嫌われ者の魔女と正反対の人気者であるところの彼は、つい数年前に初めて魔女と出会った。新聞という新しい文化を持ち込んで、当時は誰もが嫌な顔をしていた。何だそれは、と。だからこそ、文字を書くのであれば物語を書けるだろう、と、魔女の贄に選出された。それにも彼は嫌な顔ひとつせず、「了解しました!」と言ってのけたのだ。

 それ以来、彼は町の中でも一目置かれるよそ者だ。好き勝手に振る舞うことで「しかたないな」という許しを受けた土曜日のストレンジャーとは違う、ひとつひとつを積み上げて地位を得た、似ているようで全く違う、律儀な男。それが、ライムントという新聞屋の話だ。


「やや、どうも魔女サン! ちょっとばかし配達が忙しくってこの時間ですよ。そしてこいつは魔女サンへのお届け物! 今週分のお届けです!」

「ご苦労ご苦労。届けてさえくれるのであれば、僕は時間はいつだって構わないよ。きみ、夜の時間のほうが暇だと言っていなかったっけ。夜でも僕は気にしないし、僕は大体起きるのは昼間だから」

「いいやあ、いいんですよ! 夜だと翌朝に響きますからね。こういう時間のほうが、自分にとってはありがたいんですよ」


 夕焼け空が、じきに夜に飲まれ始める頃。それが、決まって多忙のライムントがこの家に訪れる、唯一の隙間時間であった。ライムントは、付箋紙がいたるところに貼り付けられて分厚くなったノートを差し出す。ライムントは、唯一原稿用紙でないものに物語を書き記す男だ。それに魔女は何を言ったりもしないし、たとえ何に書かれていようが、それが物語である限りは食事に困ることはない。

 ただ、唯一他の人と異なっているのは魔女の万年筆の赤いインクが、そのノートには一滴たりとも含まれていないということ。あくまで下書きだから、と、彼の持ち込んだ付箋紙をノートにぺたぺたと貼り付けながら、重箱の隅を突く魔女は赤を入れる。結果として、かなりの厚さになりはじめたノートが魔女の目の前にある。


「それにしても、きみの書く話はどうにもきみと結びつかないな。ああ、まずいとか、そういうわけではないんだ。出来が悪いとかでもなく、純粋にきみという作者とこの物語が結びつかない、というのが正しいかな。人の書くものっていうのは、大抵は、どこか当人の写し鏡であることが多いんだ。きみだからこれが書けたのか。きみだからこれを書くことになったのか、……ってさ」

「それはどうだか、なぜだか。ただ、あなたがおれのことをよく知らない可能性だってありますよ。人間なんて、見えている部分と見えていない部分くらいいくらでもありますから。だって、自分もそうですから。町の人らの前での立ち振舞いとあなたの前での立ち振舞いは少しずつ違っている」

「それは当然の話さ。だとしても、きみのあり方には疑問が尽きない。きみの選ぶ言葉には、どうにも妙な違和感があるんだ。そうだな。何かを探しているような、どうしてもその手探りさが僕にも見えてしまう。それはどう直す話でもないし、僕ができるアドバイスはないんだけど」


 珍しく、不思議そうな顔をしながら魔女は首を傾げた。それを聞けば、ライムントは困ったような顔をしながら眉を下げる。魔女が感じた奇妙な違和感。その正体に、ちっとも心当たりがなかったのだ。だから、どうしたらいいのかというのがわからなかった。ただ、何かあったのだとしてもそれを自分の手で解き明かすことは、ライムントにはできないことであるということだけが事実であったのだ。彼は、魔女の手元にあるノートをじいっと見遣ってから、重々しい溜息をつく。首を横に振る。わからない、と言外に告げて。


「きみの書いた文章は、ここに書いてあるのが全てなのかい。少なくとも、文章っていうのはきみを写す鏡であると僕は思っていてね。きみみたいな、違和感に気付けていないやつには勧めてるんだ。一度、読み返してみるといい。物語は、これ以上なく人を写す鏡に他ならない」

「そんな自分探しができていないみたいな。自分は別にそこではないと思うんですけどね。多少継ぎ接ぎだな、とは思うけど……それを否定するほどの理由もない。ので、やりますけどもね。でも、この歳になってそんなことを言われるとは思わなかったな」

「その歳だからこそさ。いまわからないことっていうのは、どこかでわからないまま放り出されて、わかったふりをしているだけのものであることが多い。ま、そこではないにしてもさ。そこではなかった、という確信を手に入れられるならば、それはそれで価値があるさ」


悩める若者に道を指し示すかのように、魔女は笑んでみせる。その笑みに、エルネストはひどく複雑そうな顔をして、また重い溜息を一つ落とす。「わかってはいるつもりですけど、年下のお嬢さんに言われてるような気がして複雑だな」と自嘲げに笑って、ノートの角で頭を小突かれる。情けない悲鳴と一緒に、恨めしげな視線が魔女に向けられる。魔女は、フン、と短く鼻を鳴らして不満を表明する。


「きみは僕よりもずっと子どもだ。僕からすれば、きみたちは未だほんの幼子にすぎない。年長の言葉は聞いたほうがきみの益になると思うがね」

「……ええ。魔女サンを可愛らしい少女のようだと思うのはやめま――あいでっ」

「二度も言わないつもりだけれど。僕はきみたちよりも、ずっとずっと長い時間ここにいる。それで偉ぶったりはするつもりはないけど、僕の言葉はあらゆる結果論の先にある。きみたちみたいな創作家を無限にも思える時間の間、ずっとただ見てきたんだ。これは難しい話ではないよ。統計学上、この言葉には意味がある」


 へらりと笑って誤魔化そうとしたライムントのことを、決して魔女は逃しはしなかった。それは別に、彼のためなんかではないのだ。もっと独善的で、自分という大口の消費者のことしか考えていない、ただの女の我儘でしかない。だからその言葉は、本来価値などないはずなのだ。それに価値を見出して、彼の創作に彼らしい色がつくかも、それとも現状そのままでいるのかもライムント次第。彼がこのまま停滞を選ぶのであれば、魔女は別の人間をよこすように「町」に言う。それだけの話。

 魔女は、できればそうしたくない。なぜなら、それはひどく面倒で――彼の記してきた言葉の意味を奪うことにほかならないから。


「きみ、朝起きた時に鏡は見るかい」

「ええ、まあ、そりゃあ。……それとこれにどんな因果関係が?」

「それなら例え話が楽でいい。鏡を見て、きみは何を見ようとしているんだい。その日の体調? それとも、今日も自分は顔がいい、なんて? まあ、そのどちらでもとりあえずはいいさ。必ず、自分を見るだろ。一日に一度だけ。それと同じ」


 ライムントは、眉を寄せて首を傾げる。鏡なんて、そのためにあるものじゃないか、と。なぜ自分がこんな説教をされているのか、と、ほんの少しだけ不満の色も滲ませて。魔女は、ときたまこうした婉曲的な物言いをすることがある。彼は、こういうときの魔女のことが苦手だった。ストレートな言葉で物を書く新聞記者の男にとって、こうした回りくどい言い回しは時間の無駄でしかなく。自分の思考領域をじわじわと蝕んでいくようなこの感覚が、どうしても受け入れがたいものであるのだ。それを知ってか知らずか、魔女は結論を急がない。むしろ、誰と話すときよりも遠回りして結論へと向かうのだ。


「それで、鏡を見ることによってきみは、今日もきみであることを確認する。確かにきみがきみであることを自認する。それができるのであれば、きみは自分の創作物と相対することでも同じことができるはずだ。だけれど、きみ自身もきみ自身の創作は、どこか継ぎ接ぎだと感じている」

「物は言いようですよ。別に継ぎ接ぎっていうのは本当に寄せ集めだと思ってるわけではなく。創作ってそんなものじゃあないですか。自分の好きなものを繋ぎ合わせて、縫い合わせて――それでようやく、一つの作品として世に出る。だから別にそれが悪いわけでもないのは魔女サンだって同じように言うでしょう。……あなたが言いたいのはこういうことでしょう。「それは本当にきみ自身の創作か?」って」

「五十点だな。それで合格はあげられない。きみの創作はきみの創作であることに違いはないよ。僕はそれを否定する気はないからね。……きみのペンだこがなによりの証拠だ。きみの指は、文章を書くやつの指をしているよ」


 魔女の、病的なまでに白い指先がライムントの手に触れる。指先の冷たさに、彼は僅かに瞠目した。魔女は微笑む。彼の、よそ者の黒い瞳を覗き込みながら、まるでおとぎ話の悪い魔女みたいに。その白い指先が、ごつごつとした男の指先に手を伸ばして。


「ライムント。ライムント・ゲルト・ヴェルナー、きみ。きみに聞きたいことがあるんだ。きみは、……創作は、たのしいかい?」




(続)

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