夢現の想い

十一

メッセージ

 世の中には他人を騙すことを生業としているものがおり、彼らは詐欺師と呼ばれる。


 しかし、何も詐欺師ばかりが他人を欺いているわけではない。例えば高校物理の教育課程に量子力学を持ちこみ、生徒を混乱させるような事態は得策とは言えず、教師達は「こういうものだ」とおざなりな説明に留める。それは、ある種の欺瞞だ。同様に、医師はインホームドコンセントの場に於いて、患者にも理解できるよう術語や専門的な内容を簡略化する。情報化した社会であっても、いや情報化した社会だからこそ数多の人々が嘘を方便として用いるのだ。


 そして、その権化たる人種がフィクションの創造主――小説家だ。社会を批判するため、読者に言葉を届けるため、創作意欲を発散させるため、あるいは単純に原稿料や印税のため小説家は物語の糸を紡ぐ。


 読者は物語が虚構であることを判っている。どれほど作品世界に没入し登場人物に感情移入しようと、本を閉じれば以前と変わらない日常が待ち受けている。手に汗握る冒険譚も、胸を焦がすような恋愛劇も、全てはうたかたの夢。シンデレラにかけられた魔法のようにいずれは解けてしまう。


 もし、その幻想が魔法であると知らなければどうだろうか。

 虚構を虚構とも気づかず夢幻に溺れていく。魔術師の見せる蜃気楼の舞台で踊り幸福感に浸る。


 醒めないのであれば問題はない。しかし所詮は夢、いずれ目が開く時が訪れるのだ。零時になれば馬車はカボチャに戻ってしまう。


 魔法が解け現実を目の当たりにすれば、状況を判断することも叶わずただ困惑するばかり。それこそ狸に化かされたような心境になる。


 まさにそんな混乱の最中に私はいた。どうやら、とある小説家に騙されていたらしい。


 彼、芹澤光とは大学のサークルで出会った。私は高校時代から小説を書いていた。とはいうものの、田舎の公立高校に文芸部などなく、自作小説を批評してくれる友人もいなかった。感想に飢えていた私は、大学では迷わず文芸サークルに入部した。そこに所属していた一つ上の先輩が光だった。


 文芸系のサークルは二種類に大別出来る。

 一つは慣れ合いに終始するサークル。彼らは部室で駄弁り、その和気藹々とした雰囲気を創作の場でも崩すことない。

 もう一つは切磋琢磨するサークル。いくら仲の良いメンバーであろうと、歯に衣を着せずそれぞれ作品を批評する。良いところは良い、悪いところは悪いと指摘し合う。


 私たちは後者だった。一番の鑑識眼を有した部長がずけずけと感想を口にするタイプだったことも手伝い、議論が白熱し「文芸部うるさいぞ!」と隣室の落語研究会が怒声をあげることもしばしば。


 どれほど方法論を熱く語ろうと辿り着く先は「面白い小説書いてみんなを唸らせてやる」だった。創作のモチベーションを維持するため意見をぶつけ合っている嫌いもあったのかもしれない。


 私が一回生の夏休み、光とコンビを結成し共作することになった。


 半年もすると、それぞれの作家性とでもいうのだろうか、書き手の傾向や癖が見えてくる。私はプロットの完成度だけを比較すればサークル内随一と部長が太鼓判を押すほどだったが、文章力が伴っていなかった。書きこみが甘い、情景が想像できないといった批判が毎度あった。対して光は文章力で読ませるタイプだった。話自体は使い古されたありきたりなものだが、血の通った描写や文章の美しさで読者を惹きつける。私たちはお互いの欠落した部分を持ち合せていた。二人が組めば欠点を補えるのではないか、と光は語った。


 私が作成したプロットを元に光が文章を。そのアイデアを受け入れたのは、私が一人の書き手である以前に読者、それも彼のファンであったからだ。温かみのある文章から垣間見える優しさ、小説の向こうに窺える光の肖像、ひいては彼自身に惹かれていた。


 それからというもの、私は光のためにプロットを作り続けた。推敲を終えた後、光はラブレターを渡すかのように照れた笑みを浮かべ、私に原稿を預けた。私は、彼の小説を世界で一番に読めた。この頃には完全に彼に心酔していた。


 コンビを組み三作目の長編をエンタメ系の新人賞に応募した。受賞やデビューを視野に入れていたわけではない。光の小説は私にとって最高のものだったが、それを皆が絶賛するほど世の中甘くないと二人とも理解していた。彼が「どれくらい通用するのか試してみたい」と語ったから。「小説で食べていけたらどれだけいいだろう」と少年のように瞳を輝かせたから。だから、原稿を郵送したのだ。


 月日は流れ、私は新人賞のことなど忘れ去って日常に戻っていった。光は就職活動に奔走していたので、私は彩のない日常の中にいた。彼の書く小説に思いを馳せプロットを練っていた。


 そんな中、久方ぶりに光から電話があった。内容は、新人賞は逃したけれども選考委員を務めた女流作家の後押しでデビューが決まったというもの。デビューの契機としてはよくあるものだ。プロからのお墨付きを貰ったとも言える。


 処女作が出版されるまで、就職の忙しさも手伝い光は忙殺されそうなくらい働いた。私に出来ることは、プロット作成と、彼の代わりに家事を済ませることくらい。休日のワンルームで押し掛け女房のようなことをしていた。


 デビューに当たり私たちの間でなされた一つの取り決めがある。人付き合いの苦手な私は完全に裏方に徹するというものだ。私はタイトルとプロットを考えることに専念すれば良かった。光の取り計らいで、人間関係に気を揉むことはなくなった。著者近影は彼の写真になり、インタビューや座談会にも私は参加する必要もない。筆名も彼の本名だったので、プロットを作っている私の存在は編集者と友人くらいにしか知られていなかった。それは私自身が望んだことだ。


 芹澤光という作家の滑り出しはまずまず順調だった。製薬会社に就職した光が、仕事の合間を縫って書き上げた長編二作目『好事家が多すぎる』はユーモアミステリの傑作などと一部の批評家が評した。それは即売上に直結するものではなかったが、固定ファンを掴む効力はあった。


 三作目の『キッチュ・アー・オールライト』を執筆中のことだ。光が製薬会社を退職し専業作家になったのは。彼は利便性を考慮し、上京して一人暮らしを始めた。大学を卒業しOLとなった私とは離ればなれになったが、何も問題はなかった。


 想いをこめた五作分のプロットは既に渡してあったからだ。また、新たに完成した場合はメールに添付でもすれば事足りる。校正は編集者が行い、私の元には出版社からは製本された新刊が送られてくる。会えないことを除き何一つ不満はなかった。


 物理的に距離が開こうと、私たちの関係は変わらない。大学時代から続く二人三脚の足並みが乱れることない。そう信じていた。最良のパートナーであるという自負もあった。


 だが、突如として彼との連絡が途絶えた。メールを送信しても返ってくるのはエラー通知。電話をすれば「現在この番号は使われておりません」という無慈悲なメッセージが響く。

 その時点では騙されたのだとは思い至らなかった。いや、そう考えたくなかったのか。どちらにしろ、しばらくすれば新たな連絡先と共に新刊が届くだろうと楽観していた。私のプロットがあったからこそ芹澤光があるのだと自惚れていた。代替可能な存在に過ぎない、編集者や批評家に揉まれるうち小説家としての腕を上げた彼にとって、私はもはや不要なお荷物でしかない、そういった負の推測が脳裏を過ることすらなかった。


 彼の新刊を駅前の大型書店で見つける段に至り、ようやく事態が私の想像よりもはるかに深刻であると気付いた。平積みされたハードカバーを手に取り呆然と立ち尽くしている私の姿は、他人の目にはさぞ滑稽に映っていただろう。


 新刊コーナーの平台の前でどのくらい自失していただろうか。背中に何かが当たり我に返った。恰幅の良い青年が、肩に提げていたトートバッグを小脇に寄せて謝罪を口にする。その言葉を聞くともなしに、私は覚束ない足取りでレジカウンターへ向い、彼の最新刊を購入して店を後にした。


 帰宅するなり自室のベッドに倒れこんむ。コートを新調しようとショッピングモールへ探しに出たというのに、書店に寄っただけで帰ってきてしまった。本来の目的を果たす余裕など微塵もなかった。


 捨てられたのだ、私は。

 彼の言葉を反芻する。小説で食べていけたらどれだけいいだろう。

 サラリーマンを辞め専業作家になった今、私はもはや用済みなのだろうか。あるいは、私はデビューするための足掛かりでしかなかったのだろうか。利用されただけなのか……。


 鬱々とした感情を断ち切るように立ち上がり、バッグから書店で購入した彼の新刊を取り出した。『スーサイド・アベニュー』。皮肉にも、それは彼が上京する際に渡しておいたプロットの五番目、つまりは最後のものだった。


 紙袋の包装を解いて取り出した単行本を、本棚へと並べる。四作目『デデキントの密室』の隣に置くと、デビュー作から順に五作が並ぶことになる。その光景を眺め、私の胸に去来するのは満足感や達成感とは程遠い灰色の感情だった。ただただ虚しさだけが募る。


 この五作に思いを込めていたというのに、空虚な言葉の羅列へと変貌してしまった。彼は何を思いこれらの作品を書き上げたのだろうか。小説を通じて繋がり合っていたはずが、気が付けば、手は愚か、たった五文字の言葉さえ届かなくなっていた。


 気が塞いで行く一方だった。食事も取らず、アルコールを胃に流しこみ全てを忘れるように眠りについた。

 目を覚ましても現状に変化はなく、暗澹たる感情に押しつぶされそうだった。

 トーストで朝食を済ませた後、私は友人の家へ出かけた。この膿を吐き出したかった。言葉にしてすっきりしたかった。


 大学時代からの友人で、同じ文芸サークルに所属していた薫はひどく心配し私の愚痴にうんうんと頷き耳を傾けてくれた。感情の昂ぶりから内容が支離滅裂になっても「つらかったんだね」と優しく接してくれる。


 ふと、彼女の部屋に置かれた本棚に目をやった。矢継ぎ早に捲し立てていた愚痴が底をつき、沈黙が横たわり、何気なしに視線をやっただけだった。


 そこには、光の著作が揃っていた。当たり前だ。薫もまた光と同じサークルで、当時から彼の作品を愛読していたのだから。だが、私は激しい嫉妬に駆られた。五冊の本が、薫と光の繋がりを示している様に感じられたのだ。私からは連絡を断ったのに何故……


 胸の奥にどす黒い感情が渦巻き、激昂にまかせ、薫の人格を私は否定した。理不尽極まりない理由だとは思ったが、箍が外れたように言葉が溢れ彼女を面罵し続けた。


 気がつけば、私は涙を流ししゃくりあげていた。「大丈夫だよ」そう繰り返し、薫が私を抱きしめた。女性のほっそりとした腕。小さな背中。私よりも低い身長。だというのに、温かく、強く、それでいて優しかった。


 落ち着きを取り戻し私たちは、薫が淹れたコーヒーを飲んだ。わずかに酸味を含む香ばしい匂いが精神を鎮める。


「あのね、朝子」患者に語りかける看護婦のような声で彼女は言う。「こういうのは、ちゃんと専門科の人に相談した方がいいと思うんだよね」


「専門家?」と問うと、薫は肯定した後「ちょっと待ってて」と言い置いてスマートフォンを取り出しどこかへと電話を架けた。相手方に事情を告げているようなやり取りがあり、それから薫は数度「うんわかった」と相槌をうち電話を切る。


「心当たりがあったから連絡取ってみたんだけど、話し訊いてくれるって」


 そう語りかけながら、メモに何かを書きつけて私に手渡した。文庫本ほどのメモ用紙には、どこかの住所と電話番号が書いてあった。完全に事情を把握したわけではなかったが、どうやらそれは専門家とやらの連絡先らしい。


「大丈夫。なんならわたしも一緒についていこうか?」

 専門家と言うくらいだ。弁護士が法知識でもって彼の地位を剥奪してくれるのだろうか。はたまた、私立探偵が彼との邂逅を演出してくれるのだろうか。どちらも私が望むことではない。彼のことなど忘れ、平穏な日常を送れさえすれば良かった。薫に打ち明けたのも、心底に積もった澱を吐き出してしまいたかったからにすぎない。


 けれど、薫の心配を無下にするつもりもなかった。一度メモ用紙に書かれた場所を訪れるくらいはしてみよう。酷い罵倒の言葉を浴びせられたにも関わらず、私を気遣ってくれる心優しい友人のためにも。


「ありがとう。けど、そこまでしてもらったら悪いから」

 こそばゆさを覚えそのまま部屋を経とうと立ち上がり、もう一度「ありがとう」と頭を下げる。

「いいんだって。お互い様だよ。それより、ホント一人で大丈夫?」

「大丈夫だから。今日はなんかごめん」


 薫と別れた一週間後。私はメモ用紙を片手に駅前の雑居ビルにいた。横を向かなければ大人二人がすれ違えないほど狭い階段を上がった三階に、彼女が教えてくれた場所はあった。


 中が窺えるガラス製ドア、そこに書かれた文字が絶望を誘う。専門家。その単語が意味するところをはっきりと理解した。


 全ての情報が一点に収束していく。信じていたものが瓦解していく。眩暈がして咄嗟に壁に手をつき、喘ぐように息を吸いこんだ。冷汗がじっとりと背中を濡らす。


 数分程してやっと荒い息が落ち着いた。今更引き返しても事態は変わらない。現実を受け入れるしかなかった。


 室内に入り、受付にいた女性に名前を告げると番号札を渡され「しばらくお待ちください」と平淡な口調で告げられた。


 ソファーで文庫本を読んでいると私の番号がアナウンスされた。個室へと進むと、スツールに座った中年男性がいた。私が丸椅子に座わると、彼はデスクから顔を上げこちらを見た。

 そして、お決まりの文句を口にする。

「今日はどうされましたか」と。




 診察を終えて帰宅した私は本棚の前に立つ。

 全てが幻であったと断言されたわけではない。あの中年医師は、私の発言を肯定も否定もせず耳を傾けてくれた。私はただ彼との思い出と現状を語っただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。


 しかし、精神科に掛かるよう薫が勧めてくれたその事実が、現実と私の記憶との間に齟齬があると示しているのではないか。彼女がそう判断したというのが、私が妄想にとらやれているなによりの証拠だった。


 どこからどこまでが本当にあったことなのだろうか。あのサークルでの日々も、彼のために奮闘したのも一切合切が嘘だというのか。


 この感情も、彼への思いも。

 何度も何度も、私は本棚に頭を打ちつける。

 本がばらばらと床に零れ散乱していく。

 それは私の頭から記憶が、思い出抜け落ちて行くかのような光景だった。

 けれど、どれだけ忘れようとしても忘れることかできなかった。


 私の目は床に雑多に累積した本の中から、自然に一冊を見つけだしている。

『光と影のモノローグ』

 それは芹澤光のデビュー作だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢現の想い 十一 @prprprp

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ