バスルームにバラの花束

フカイ

掌編(読み切り)





 そのホテルのダイニングルームの南側の、広いバルコニー越しに見える風景は、長く、果てしない海原と、わずかに湾曲した水平線。北側に廊下が走っていて、東側にバスルーム、そして西側にベッドルーム。


 白い柵で囲われたバルコニーから見えるのは、太平洋。此処から先、2000km以上に渡って、陸地はない。

風はなく、濃いブルーで、波がひとつも立たない海面。水平線からいくつも連なる、巨大な入道雲の山脈。雲の影の部分は淡いブルーに、陽の当たっている部分は白い輝いている。赤道にほど近い場所ではあるが、湿度はさほど高くなく、過ごしやすい島だ。


 リビングルームの壁に向かって、クラシカルな木机。上には、ざっと置かれた腕時計やイアリング、リップスティック、それにコンパクト。机の横には、アルミニウムの旅行鞄がひとつ。

 直射光の入らない、白い壁のベッドルーム。が、乱反射する夏の強い陽射しは間接光となり、室内は、さわやかに明るい。

 ツインのベッドのひとつだけには、ふたつに畳まれたブランケット。もう一方は、メイクされたままの状態。そのベッドルームの壁にあるハンガーには、品の良い女物の麻のスーツ。色は、きわめて淡いグリーン。


 隣の時計の針は、朝と昼の、ちょうど中間。

 東側のバスルームの、磨りガラスでできたブラインド越しには、すがすがしく透明な直射日光。バスタブに残っている、水滴。その一粒一粒が日光を乱反射して、白いバスタブに描く七色の万華鏡のような模様。

 陶器の洗面器に、磨き上げられた蛇口。どちらもが、差し込んだ日光のなかだ。

 緑色をしたガラスの一枚板が小さな台となり、その上に歯みがきチューブと歯ブラシ、洗顔フォームのチューブ。


 白い洗面器の底にされている黒いゴム栓と、そこに貯められている、水。一旦、水のなかに入った直射日光は、屈折して、その中で晴れやかに輝く。

 その小さなプールのなかに、ひとかかえのバラの花束。陽射しを受けて生き生きと開いている。ビロードのような優しい表面の、美しい赤いバラの花びらたち。


 ドアにノックの音。

 しばらくの間。

 ドアノブがゆっくりと回転し、ドアが開く。ゆっくりと入ってきたのは、はちきれんばかりに丸々と太った黒人の女性。彼女のつけているストライプのエプロンには、このホテルのマークのプリントが入っている。真っすぐリビングへ入ってゆく彼女は、そこにある電話の受話器をとる。ダイアルをひとつだけまわして、部屋の番号を告げた。

 「何の御用でしょう?」

 と、やや訛りのある英語で、彼女は言う。

 しばらく相手の話すことを聴いた彼女は、いったん受話器をテーブルに置き、バスルームへ。


 入った途端、さわやかな花の薫りに鼻をくすぐられる彼女。見ると、美しいバラの花束が、洗面器のなか。

 感嘆の言葉をひとつ洩らして、彼女は洗面器の栓を抜き、バラの花束を持ち上げる。腰に下げたタオルで、束ねられた茎の部分をざっと拭くと、彼女はもう一度リビングまで戻る。受話器を取り、それを持ってきたことを告げる。

「捨てろ、ということですか?」やや驚いて、そう言う彼女。そして現地の言葉で、勿体ない、とちいさく呟く。

 「頂戴しても、構わないでしょうか?」

 返事をもらった彼女は、ありがとうございます、と、今度はきれいな英語で言った。


 受話器をクレードルに返して、彼女は目を閉じ、その大柄な胸に花束を抱え、深く息を吸い込んだ。

 恋の終わりとはこんな薫りなのだろうか、と彼女は思うのだった。




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