夜に鯨
小沢すやの
私と鯨
冬の海が好きだ。
ザザァーンザザン…──と北風にもまれた荒波が、悲しみにささくれ立つ私の心を不思議と静かに落ち着かせる。生臭い潮の匂いも闇がすぐそこまで迫る夕空も、大きな翼を広げて滑空する海鳥さえも、いまは私をやさしく放って置いてくれる。
陽の沈む土曜日、ロング丈の中綿たっぷりコートにもこもこ中敷のブーツ、今日一日をかけて海を眺めようと決めていた私の防寒は完璧だ。
昨日、私は、あまりにも突然に失恋した。別に好きな人ができた。別れよう。
なんて、ドラマみたいな出来事がこの身に降りかかってくるとは思ってもいなくて、頭がもうごちゃごちゃで、くたばりかけながらもなんとか帰宅したのちにたぶん盛大に泣き喚いた。正直、このあたりの記憶はあやふやとしている。
泣き疲れて寝落ちてしまった今日の朝早く、とんでもない顔をした私が鏡の中でぶっさいくに笑っていて、また泣きたくなった。それでもシャワーを軽く浴び、お腹は減っているものの何も食べる気にはなれなくて、ベッドに倒れこんだ私はスマホに保存された写真や動画たちを次々と消していくことに集中した。
何も考えずに粛々と作業を進める。「あっ」 間違えて再生してしまった動画のなかで、やさしく大らかにさざめいていたのが思い出の海だった。
この気持ちも、遠く遠く知らないどこかへ運んでいってくれたら良いのに。
一番星がキラリと光った。頬をざらざらと撫でる潮風が徐々に冷たさを増していく。太陽をチャポンと飲み込んだ水平線に向かって、私は力一杯を尽くして願望を叫んだ。
「どっかいっちゃえ!もういらない!」
ザプリ──! 遠くで何かが跳ねる音がした。次から次へと顎を汚した熱い水はいつのまにかぴたりと止んでいて、驚くほどすっきりとした気分に私は胸の真ん中をさすって人心地ついた。
良かった。さっきまでの衝動が嘘みたいに心が凪いでいる。
あたりを支配するかのように、強く大きく海が鳴る。それなのに、宵のうちの絶対的な静けさに身体も心も包まれていた。
「ねえ」
「?」
突然、歌うような声が耳に届いた。砂浜へとつながる階段に腰掛けていたのは、確かに私一人だけだったはずだ。とはいえ、声をかけてきた人物を探そうと私はあたりを見渡すがしかし、宵闇のなかではうまくいかない。
「ねえ、どうして泣いてたの?」
もしかして不審に思われたのだろうか。こんな時間まで一人で涙しながら海を眺めているなんて、なにか良からぬ勘違いをされてもしょうがない。
私は誤解を解こうと、姿の見えないその人へと話しかけることにした。
「あの……すみません。違うんです」
「? なにが?」
「私失恋してしまって。それで気分転換に来たんです。海を眺めていたら驚くほど楽になりました。もうそろそろ帰ろうと思うので、ご心配頂かなくても大丈夫ですよ」
相手の顔が見えない安堵も手伝ったのか、私は一気に事のあらましを話すことができた。本当はもう少しだけ海を感じていたかったのだが、そろそろタイムリミットのようだ。
私は重い腰をあげて、意味がないとはわかりつつも再び周囲に視線を走らせた。
「だとするとこのハートは君の?」
「…………な、ええ? なに……?」
「最近よくあるんだ。ハートを海に落っことしてしまう人がさ」
「いや、なにを言って……あなたはいったい何者なんですか!?」
しばしの沈黙が落ちる。しかして次の瞬間、私は再度にわかには信じがたい言葉を聞いた。
「えーと、僕は鯨です」
思わず言葉に詰まってしまった。こんなとき冗談に構っていられるほど、私は出来た人間ではない。
「どうされたんですか? 大丈夫? ……ではないよね……」
私以上の不審者はそう言ったきりなぜか落ち込んでしまったけれど、真にこちらの身を案じる響きに、私は持ちあげかけた腰を再び階段へと下ろした。半信半疑の指摘はぐっと飲み込んで、この饒舌な鯨の言動を反芻することにした。
人の言葉を操る鯨が、私が落としたハートを届けにきてくれた。一連の様子を鑑みるに悪い鯨ではなさそうだ。
大好きな海を生きる優しい者が巻き起こすよくわからない茶番にだったら、少し付き合ってみても良いかも知れない。
そう判断した私は、なんだかんだで鯨と話しが出来るこの突飛な状況を楽しみだしていた。
「あなたは鯨さん、なんですね?」
「そうだよ」
「私が落としたハートを届けにきてくれた」
「あ……! 早く受け取ってください。早くしないと溶けて無くなってしまいます! 君のハートはいっとう綺麗だから溶けるスピードも普通のよりあっという間なんだ!」
「ふふ、鯨がこんなにお喋りだなんて……あはは! 思ってもみませんでした」
「真面目に聞いてよぅ!」
姿の見えない鯨がプンプン怒っている様子が活き活きと目に浮かんでくる。自然とこぼれてしまう笑みをなんとか堪えて、私は率直に答えた。
「っ、ごめんなさい。……たぶんそのハートはもう要らないものなんです」
「……いらない……? こんな素敵なのに?」
「ありがとう。よければそのハート、あなたが持っていてくれませんか? 今日、私とあなたが出会った記念です」
今度は相手が黙る番だったようだ。ザザァーンザザンと、胸の真ん中を打つように激しく轟く荒波に、先ほどまでの落ち着きが嘘のごとく次第と私の気分は高揚していく。海岸を吹き荒ぶ冷たい風は、いつのまにか夜の天辺をとっくに過ぎていることを私に教えてくれていた。
わかっている真実がもう一つある。
海へ落としたというそのハートは恐らく、あの人への恋だったものだ。素敵だ、と言ってもらえただけで、私は十分に満たされた。これからの人生、通り過ぎた過去の
私にその恋は必要ない。綺麗とは言いがたいひどい別れ方をしてしまったけれど、だからこそ、素敵だと言ってくれた優しいあなたに持っていて欲しい。私はゆっくりと頷いてみせた。
「本当にいいの」
「条件付きだけど、いいですよ」
「条件?」
「あなたがそのハートを少しでも汚いと感じたら、……そうですね……すぐに海へと返して下さい」
「海へ? いいや、勿体ない。そのときは僕の歌の材料にするよ」
気のせいか、笑ったような気配がした。え? と、私が疑問を投げかけるその前に、無造作な質問が放たれた。
「ねえ、君はどこから来たの?」
警戒心をとっくに忘れた私は、驚きに呆れながらもついおぼろげに答えてしまう。
「えっと、ここから一時間くらい電車に乗った賑やかなところ」
「そっかぁ。僕、都会ってところに憧れてるんだ。いつか行ってみたいと思ってる」
「そう、なの?」
「君とまた会えたらいいなぁ」
ウミネコが鳴いている。見上げた先、水平線をうっすらと彩りはじめた淡い光が目に染みた。
タイムリミットだ。もうじき夜が明けるのだろう。ポチャンザプリ──! くしゃくしゃに緩めた私の顔を、朝日がやんわりと照らしだす。「そうだね」肯定の言葉は、私の唇にそっと消えた。
「じゃあね。鯨さん」
大きく声をかけた私は、振り返らずに海を後にした。私はもう、大丈夫。帰ったらゆっくりと寝よう。きっと夢は見ない。
夜に鯨 小沢すやの @synbunbun
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