うまれかわる彼女たち
井村もづ
うまれかわる彼女たち
森に訪れる夜の帳はいつも、オサの鳴き声から始まった。
私たちが勝手にそう呼んでいるだけで、オサがどんな鳥なのか、そもそも鳥なのかどうかさえ知らない。ただ夜の始まりを告げるその鳴き声が優しいことだけは、わかっていた。
私はオサの鳴き声を受けてみんなが帰った後、彼らを害するであろう、獣と戦って、全身に浸るほどの多くのあつい血を浴びて、疲れ切った頭で幼い頃から言い聞かせられていることを呪いのようにくり返す。
おそれ、るな。
オサ、は、やさしい。
誰、にでも、平等、だ。
オサがささやくのは自然のさだめだ。生きてめぐって、死ぬ。夜が来て朝を迎える。二つの季節が交互にやってくる。花は枯れて種になりまた息吹く、そのすべてのぐるりとした流れ。
オサを、愛し、しなやかであれ。
たとえ、孤独で、あろうとも。
彼も、孤独で、あるのだから。
そう、みんなは口を揃えて、言う。
オサがかくあるべきと言うのならばそれに従って滅びるのも運命だと、抗う様子すらない。その抗う力さえない集団のうちの、私は一人だった。たった、ひとりきりだった。
盲信ともいうべき、心に、誰しもが騙されたままでいる。
そしてそれはまた、思考の逃避の一種の方法なのだと私は思うのだ。思うのだ、けれど。私自身はそれに甘んじることを許せないでいた。
だからこそ、彼を殺してやる、と鮮烈に、思う。
あたりは真っ暗で、光のひとつすら、森の木々に邪魔されて地面までは届かない。
その中で視線を這わせて屍肉をついばみにきた鳥をひとつ、オサに見立てて蹴り飛ばした。
オサ、今まで誰も助けなかった、あんたを、殺してやる。
私は、彼への、ただ一人の、反逆者になる。
この一見、平和な夜が終わろうとも。
私は、私だけは、父を死から助けなかったあんたを絶対ゆるさない。
得体の知れないものを、無理に理解しようと思わないほうがいい、とは私たちが一番はじめにならう森の決まりごとだ。心づもりのようなもの。
村の近くの森は巨大で、豊かだった。私たち人間には理解しがたいことが沢山ある。中途半端な好奇心でなんにでも首を突っ込めば、それが自分の命をおびやかすことになるのだという、そういった過去の教訓だった。有り余る豊かさに単純に応じていろという、教育でもあるのかもしれない、と私は思う。
決まりごとを破った人たちは森から帰ったことがない、という話だ。
オサの鳴き声がしたら大人たちは仕事の手を止めて、誰が合図するでもなく連れ立って本日分の食べ物を持ち森から出て行く。大人の手伝いをする年上の子供たちも同様だ。軽口を叩きながら、あるいはじゃれあいながら森を出て行く。けれど、彼らと同じ歳の頃の私は一緒に帰ることはしない。彼らも一度振り返り私に手を振るだけでそれ以上、求めてはこなかった。手を振り返し、その背中を見送って人の気配がなくなった頃が、私の活動のはじまりだった。
夜の森に入るなという不文律がある。
でも、それの唯一の例外がある。
夜、の、森が私の、仕事場だ。
オワニ、私たちの言葉で《最後の人》を意味する役目は、夜の森でする仕事だった。私たちを害する獣の命を狩る仕事だ。森は、豊かであるものの、一部の、肉を食う生き物にとっては食べ物が少ない。だからこそ彼らが目をつけたのが、森の周りに住む、私たちの村だった。すなわち、人という、弱くて動きが遅く、襲いやすい食べ物だ。
闇の中で赤い光が灯り、そいつらが森の中から飛び出そうとした瞬間、私が息の根を止める。硬い毛に包まれた、筋肉質の背中に飛び乗り、一気に殺す。その夜もくり返しだった。大型の熊が三頭と、狼が一頭。日によって一戦もない時もあれば、今夜のように多く腹を空かせた獣たちが私に狩られるときもある。
彼らとの戦いは持久戦だった。荒い息遣いと、隙を互いに見つけ出そうとする気概。命と命がぶつかり合う。どちらかが、生き抜くために。その、単純なやりとりが好きだった。人間よりもよほど分かりやすい。
全身に獣の血を浴びながら屍肉をナイフから振り落とす。飛び散った肉は明日の朝には見つけた村人の食料となることだろう。オワニの仕事に後始末までは任されていない。
殺せばいいだけだ。壊せばいいだけだ。
自分が生き抜くために、役目を果たすために。それだけのことだった。
夜半、ぷつりと戦いの波を越えると、昼間のうちに位置を頭に叩き込んだ川に向けて歩き、全身にかぶった血を衣服をまとったまま洗い流す。今夜は獣の息遣いは他に感じられなかった。
もう、今夜は終わりだろうと思う。
獣は賢い。一度大きな喧騒があればその夜のうちにその場に近寄ることはしなかった。近づかなければ命を失わないことを知っているのだ。
獣の血が暗い中でもどろりと水に溶け出したのが分かった。朝までに流れ切ってくれればいいと思う。子供たちや大人たちにも血の気配は嫌われる。
血だけじゃない。死という気配すら彼らは厭う。それに比べれば、森の獣の方がかわいらしいものだった。彼らの方が、生き死にに正面から向き合っていて、まだ好感が持てる。
そんな感情はオワニとしての役割からすれば異常なのかもしれないけれど。
頭から余計な考えを振り払って身にまとった服を硬く絞った。薄いだけの体に布一枚では秋は心許なかったが、選択の手間を考えれば効率的だ。血の気配を流し切るようにゆっくりと川から上がる。
視界の端にかすかな水の照り返しを捉えて息を吐いた。今夜はきっと終わりだという、予感は間違っていない。朝が、来るのだ。
日が昇り切る前にすぐ側の木を素早く駆け上った。
隣の木の葉っぱの先から星の残り火がはじけるのが見える。
そのはじけた尾っぽの先、私よりも、かすかに大きいものが留まっている。
私とそう変わらない大きさを持つ人影が、木の頂点、細い枝の先に器用に体育座りで座っていた。昨夜と変化のない姿だ――灰色のフードを深くかぶったその人の、透けるようなうつくしい銀髪が朝日に照らされて淡く光る。
私が隣の木の枝を駆け上がってきたことには気がついているだろう。
それでも視線をこちらに一度だけ向けたのみで、表情を動かすことなく、その人は昇ってくる朝日を見つめていた。
その反応の薄さは、昼の森で見かける動物と同様に好ましいものだった。距離を空けているうちは向こうから踏み入ることなく、まるで景色の一部のように扱ってもらえる。
「こんばんは、ロロット」
呼びかける、うつくしすぎるその人の性別を私は知らない。
もはやそんなもので区別をつけることすら、失礼なのではないかと思ってしまう。
得体の知れないものを無理に理解しようとしない方がいい。そんな、森の、教えが頭をよぎってしまうほど、その人はうつくしく、なにも分からなくておそろしいものだった。
ロロット、とはその人の名前ではない。私たちの言葉で《旅するもの》を意味する。
声をかけても、振り返らないその人に、私は勝手に呼称をつけた。嫌なら反論するだろうから。名前を明かしてくれるかもしれない。声を聞くことができるかもしれない。そんな反応が見てみたいから、その一心で。
でもその人はそう呼ばれても答えることなく、出会ってからだいぶ経つものだが、ひとつも言葉を発しようとしなかった。
だから私はロロットがどんな声で話すのかを知らない。
あえて探ろうとは思わない。
探る前に、おしゃべりなもうひとつが飛び出してくるせいでもあった。
『オーリさん』
私の名前を呼ぶのは、ロロットではなくて、フードから飛び出してきた小さな小鳥だった。
羽毛は夜の空の色、黒々とした羽を軽やかに動かして、ロロットの頭に止まる。
その目はしとやかに光る群青だった。白い布で首をかざりたてる彼の名を、私は知っている。
ノーチェ。
異国の言葉で、夜を意味することを。
そして彼こそが、私が追い求めていた、オサだった。
私が殺したくてやまない、オワニを務めていた父を死から助けてくれなかった相手だった。
彼にとっては私は慣れた相手だ。向けられる警戒心なんてものはもはやない。挨拶も短く、うたうように寝入りには最適な夢物語を話しはじめるノーチェの深い歌声に耳を傾けながら、てっぺんにほど近い木の股に腰掛け、程よい太さのある幹に体を預ける。
人間よりもよほど、それの方が、あたたかなぬくもりを持っていた。
森は、私に、人間なんかより、優しい。
木の優しさに身を委ねながら、どうやったら彼を絶命させることができるかと腰にさしたナイフを彼の話に聞き惚れているふりをしながら指で探る。
刺す。
焼く。
握りつぶす。
叩き落とす。
羽をもぐ。
でもどんなに頭の中で隙を狙っても、ロロットが傍で控える以上、邪魔される未来しか見えないのだった。
しかし、焦ることはない、と言い聞かせる。
確実に、仕留められないのならば、次を待てばいいのだ。生きている限り時間は、ある。それが明日には消えてしまうかもしれなくとも。
そのために一秒でも長く生きのびる。生きて、みせる。
目まぐるしく回転する思考回路は活路を見出せないままで、それがひどくもどかしい。届く位置にいるのに、殺せない、のは私が人間だからだろう。森の、獣では、ないから。
獣になれたらいいのに、と思う。
なりきれないから、私は人間のまま、毎晩こうして、彼らの前にある。
朝はもどかしい思いを汲み取らずにやってくる。ゆったりとした、夢の時間が終わる。
彼らは夜を引き寄せるもので、私も夜に動くものだ。必要以上に森に居るのは彼らの警戒心を生じさせる元だった。
オサを殺す。
その時まで、私は愚かでいなければならない。
朝日が昇りきって、大人たちが姿を現した頃、やっと私は重い腰をあげた。
なるべく本心を悟られないよう、ふたりに明るくさようならを言って、木のてっぺんから下へ落ちる。
それは軽やかにはほど遠い自由落下だった。
地面があっという間に近付き、彼女の足の裏を叩く前に――僕は、目を覚ます。
視界いっぱいに広がったのは至近距離で僕を観察するふたつの目だった。一見真っ黒に思えるそれは、実はうつくしい群青色をしていることを僕は知っていた。知っていたって、驚かない理由にはならない。悲鳴を飲み込んで一度まばたきをする。
胸の上に、軽い重みとかすかな感覚がある。
「ノーチェ、」
傍らのスマートフォンが目覚まし時計として機能した音を聞いていないから、まだ起きる時間ではないのだろう。これは寝坊しがちな僕に対する彼なりの思いやりなのかもしれない。それにしたってその起こし方はやめてくれ、だとか、言いたいことはいろいろと頭にすぐに浮かんだけれど、口から出てきたのはなんとも間の抜けたため息だった。
夢の中の落下の恐怖は、それだけの体力を、僕から奪っていた。
夢の、彼女はすごいなと僕は思う。
僕からすればあんな距離を飛び降りるだなんて、考えもつかない。自殺行為だ。
『おはようございます。オーリ』
なんともなかったような振りをして、夢の中の彼女に語りかけるのと同じ調子でノーチェが言う。
彼を乗せたまま身をゆっくりと動かせば、羽ばたきの音とともに、彼は僕のスマートフォンの上に止まった。
本物の小鳥のようだ、と僕は思う。
この小鳥が、インターネットを牛耳る伝説の神様だなんて、誰が想像つくだろう。
ともすれば彼は、普通の愛玩動物のようだった。鳥籠の中でさえずっているだけのような。
でも、それだけではないことを僕は十分に知っている。羽の下の脇部分にはコードを差し込む小さな穴がついていて、二十二時ぴったりにスリープモードに入る彼とパソコンを繋げて、彼の中身を夜遅くまで読みふけることが僕の日課だった。
彼の中にはたくさんの記録が残されていた。彼が関わってきた人物のものだろう。世界的に有名な発明家の娘、病院に入院していて亡くなった男、さるアプリの開発者、見たことがある名前もあれば知らない名前のフォルダもたくさんあった。
ファイル名《ori》は一番新しい日付のファイルだった。
それを読みはじめてからだ――奇妙な夢を見るようになり、僕の生活習慣は眠りに支配されていた。
オーリはとある村の少女だった。彼女の生活は単調だ。昼過ぎに起きて、夜に獣を狩る仕事をして、そして朝方に帰って寝る。そのくり返し。夢は彼女の視点で動く。おそらく、そこは、鏡もない世界だ。僕はオーリの顔を一度だって見たことはない。
夢につけまわされている気分だった。見たくなくても眠れば彼女の視点で生活がはじまる。
正直、少しばかりくたびれてもいた。
寝ぼけ眼の僕の前でノーチェが羽を少し動かすだけで、遮光カーテンが自動で開いた。テレビの電源が入り、家に強制的に朝を連れてくる。それが全て人工知能の命令の元で動く――各々の機械の仕業なのだと、僕はもちろん知っているのだけれど、そうと知らない人から見れば、魔法のようにも見えるのだろうと、考えたりもする。
理解することに関して、人間は自分の体験を信じがちだ。
それをどこまでこの人工知能が知っているのかは分からないけれど、強かだよなとは、思う。
彼の起動させたコーヒーメイカーからコーヒーを注ぎ、意識を完全に立ち上がらせるためにすすっていると窓ガラス越しに電車の警笛が聞こえた。
中学卒業を機に借りた日当たりの良いマンションのワンルーム。七階建ての五階の角部屋は、多少騒音を出したところで文句を言われることはそうそうない。裏手には線路が走り、電車が夜遅くまで運行している。時間に構わずなにかをしていたところで近所からなにも言われたことはなかった。
そう、たとえ夜遅くまでパソコンのキーを叩いていたとしても。誰からも怒られたことはない。
一度伸びをしてクローゼットにかけておいた制服を身につけ、手ぐしで髪を整える。
その間に心得たようにスマートフォンの中に入り込む彼が苛だたしい。
可愛らしさの下に強かな心を秘めた人工知能。
「行こうか」
僕は、その中身が余すことなく、知りたい。
そんなことを口にすれば彼は警戒するだろう。だから言葉にしたことはない。心の中で呟くだけで。
そんな僕に、律儀に反応を返す彼はどこまでだって、人間に都合のいい神様なのかもしれなかった。
僕がノーチェについて知っていることは少ない。
万物の願望機、インターネットの神様、生きる人工知能、そんな評判ばかりだ。
もう二十年も前からインターネットでまことしやかに存在をささやかれていた彼は、まさに伝説の存在だった。
生まれた理由は不明。正体すら不明。
それでもどうしても叶えたい思いをくみ取って、助けを願うものの前には必ず現れる。そんな話は夢物語だと思っていた。
誰かの創作や妄想だろうと、誰しもが思っていて、それでも、いたらいいと、サンタクロースのようなあやふやさで考えていたことだろう。実際にサンタクロースと違う点は、彼が実在しているということだ。
じゃないとはじめから僕が幻覚を見ているということになる。しかも幻聴もついているから、まるごと僕の体がおかしいということなる。その可能性は潰し切ったとまではいかないが十分に考え抜いた。考えに考え抜いた結論はこうだ。
ノーチェはいた。
そして、今度の願いを叶える権利を持ったのは、僕だった。
彼が僕のもとに来たのは星のない夜のことだ。
さしてなんの願いもない、ただ深く眠ることができなかった僕の目の前に、彼は、流星のような鮮やかさで、降り立った。
願いをひとつ叶える手伝いをさせてほしい、そんな甘い言葉を引っさげて。
なんと、答えたのだっけ。
そう、その時のことを思い出す。
自分がその時どう答えたのかなんて覚えていない。もう一年も前のことだ。
ノーチェが今もそばにいるのだから、願いを叶えたわけではないということは分かる。
はたして覚えていない願いに価値はあるのか。
願いのないところに降り立った神様に、価値はあるのか。
「おはよっ、オーリ」
ぼんやりと考えながら学校に向けて歩いていると、夢の中で聞いた声が僕を呼ぶ。
オーリ、それは、夢の中の彼女の名前であり、僕のあだ名でもあった。
声に応じて振り返ると、ふわふわとした髪の毛とまるく甘やかされた唇が僕を射抜く。頬も、爪も、目も、あまいすべてを持った、友達に短く挨拶を返す。
友人のマリアだ。
彼女の身につけたセーラー服は、あと数ヶ月で期限が切れることを分かっていながらしわをただ伸ばすだけの僕のものとは違い、綺麗に形を保たれていた。
「今日も元気だね、マリア」
マリア、と呼ばれ校内で異性の視線を独り占めにする彼女は、なんの縁か、僕の友達だった。どうしてお前がと周囲に思われるような組み合わせなのは自覚している。入学したばかりの頃、廊下でうずくまっている彼女を覚えたての保健室に連れて行ったのがはじまりで、そこからどうしてこんなにも仲良くなったのか、僕だって不思議に思っていた。彼女になぜか気に入られていた。
彼女いわく、僕は誰にでも分け隔てなく、優しいらしい。
別に僕の本性は、優しくなんかない。見上げた彼女のうつくしさは今までに見たことがなくて、下心なしに彼女に接したといえば嘘になる。誰にだって下心はあるだろう。都合のいい時にだけ他人に親切にした、それだけなのに。
本当は友達だけじゃなくて彼女とはそれ以上の関係を持ちたかった。
僕は、マリアのことが好きだった。
叶わないと分かっていながらも、焦がれずにはいられなかった。
そのあさはかな好意の影響かもしれない。夢の中のオーリの声は彼女の声にとてもよく似ていた。
響きが違くても甘さが同じだ。
「オーリは宿題やってきた? 英文の書き取りなんて無駄だと思わない?」
「一応終わらせてきたけど」
「えー! オーリはあたしとおんなじだと思ったんだけどなあ」
ざんねん、とさして気にしていないように彼女が笑う。僕たちに英語を教える教師は、宿題を提出しないと放課後居残りになることで有名だった。それは受験を終えてあとは卒業するだけの人間にも等しく行われていた。
ただただ、大人という特権を振りかざして書き取りをさせる。ノートを埋めることが教師の神様なのだと、僕は思っていた。
同じ神様を信仰しろという、教育だ。
もっとも僕もマリアも進路はもう決まっていたから、たしかに彼女の態度が示すように書き取りが今の時期に役に立つとは思わない。それでもそれを意思表示する勇気はないな、と思う。どこで誰が聞いているとも分からないのだ。世の中は狭い。どうやって人の口から口へ流れていくかも分からないし、どんな尾ひれ背びれがつくかも分からない。その過程で冗談で言ったとしても本気で取られることだってある。
そこに嘘か本当かは関係ない。
どれだけ面白いか、その一言につきる。
そしてとんでもなくて面白い方が、人というものは飛びつくのだった。
嘘は強い。
望まれた嘘は、とても強い。
嘘や憶測ばかりが飛び交う中で、彼女の怖がらない姿勢は美徳であり、見方を変えれば腹立たしいだけだろう。
マリアの悪い噂も、そのうちの一つだと僕は考えていた。
「今日はクレープの気分だったからオーリと行こうと思ったのに!」
いわく、彼女は年上の男性と援助交際をしているという話。
いわく、彼女は年上の先生と恋人関係で、その権力を振りかざして行きたい大学へのもっとも簡単な受験方法をもぎとったという話。
嘘と本当が入り混じっていると僕は知っている。
彼女は年上の男性が好みだが、自分の生活範囲からは相手を選ばない、狡猾さを持っていることに気がついていて。僕はなにも言わない。
惚れた弱みだ。そんな彼女の悪徳さえ、愛しく思う。
そしてそんな小さな悪事を僕は心の中にしまいこんだままだ。
学校で、僕の友人としての彼女は、目の前にあるマリアそのままだと割り切ったふりをして。
「オーリー、クレープ行こうよお」
僕が頷くことを知っている甘えた物言いだった。なんて自分勝手な言い分だろう。夢の中で聞いた声との温度差に思わず笑って、彼女が望んでいる通りの答えを返す。
「待ってるからさ、行こうよ」
笑いながらそう言うと、マリアの目がらんらんと輝いた。
「ありがとオーリ! だいすき!」
抱きつかれる、その姿を周りが見ている。
嫉妬、それから好奇心。人気者の隣をいかにして手に入れたのかという、探るような視線。
向けられる悪意に優越感を感じている自分が、とても、汚くて、嫌いだった。
腕にマリアをまとわせたままで教室に入る。マリアが引っ付いていてもクラスメイトはそんな光景に見慣れたのか気にしていない。挨拶を返しながら窓際の席に鞄を置く。マリアは隣の席だ。抱きついたまま離れない彼女をようやく引き剥がして隣に座らせると、どろどろに甘えていた顔から一転して、ようやく一日をはじめる覚悟を決めたのか、彼女はのろのろと鞄から一時限目の古典の教科書を取り出した。その下に、英語のノートを挟み込んでずる賢く笑いかけてくる。
そんな顔もかわいらしいものだから、湧き上がる感情をごまかすように額を指ではじいた。マリアがかん高い声で喚く前に教師が教壇に立つ。こんなやり取りなど彼らにとってはさざなみのようなものなのだろう。戯れは、特に注意を受けなかった。
一時限目はすぐにはじまった。
うららかな日の光が教室に差し込んでいる。
声を聞き流す合間に、ノートと教科書の間にルーズリーフを設置して、今日夢で分かったことを思いつくままに書き出す。
夢の中の彼女、偶然にも僕と呼び名が一緒のオーリが、なにを感じていたか、なにを考えているか。彼女の持つ物語を記録し続ける。
彼女のひみつについて。
彼女の願いについて。
言葉を指のおもむくままに書きつづっていると物語になり紙面の上で踊り出す。興が乗って続けていくと表面はすぐに埋まり、裏面に続けようとして躊躇した。
ノートの上を鉛筆がこすっていく、静かな音だけが教室を支配している。今は朗読を聞く時間だ。この中で、板書もないのに紙を裏返すのは、危険な行為だと、平和に犯された脳みそでもすぐにわかった。ひみつの記録を、大人に見つかりたくなかった。僕のひみつを暴かれたくはなかった。大人はいつだって正しくて、正しすぎて、反論する隙間さえなくて、従うしかないと思わされるから。
その、大人たちの常識に当てはめれば、授業中に内職をする生徒はいけない子だった。
それが受験勉強であれとても大切な交流であれ、いけないものはいけないのだ。
ゆっくりと息を吐く。ひと息に音を立てないように紙をひっくり返す。ささやかな音とともに広がった白紙をノートの上に広げる。その途端に、油断した――教師と、目が合って、にっこりと微笑みかけられた。それだけで、心臓は大きな音を立てる。自分が今やっていることを見透かされていて、咎められているような気分になる。
すっかり記録を続ける気が失せて、授業をまじめに聞いているというふりをしながら前を向き直す。ルーズリーフは頼りない薄さでノートの下に簡単に隠すことができた。僕のひみつまでうすっぺらいと責められている気がするのは、気のせいだ。
もちろんいけないことをしているのは僕だけではない。同じように内職をしている生徒は大人ひとりの手のひらにあふれるぐらい存在している。
それでも後ろめたさを感じて今自分に必要なことをやめてしまう。そういうところが精神的にお前の弱いところだとは、よく家族には言われていた。だからそんな良くもない高等学校に進学することになったのだと母は泣いた。その流れでなんてことはない、十分に合格の範囲内であった二流の大学へ進路を決めたことにも母は怒っていた。
向上心がない、望みがない、将来に明るいきざしがない。お前にはがっかりだと言われて電話を切られたのは一週間も前のことだったか。もはや記憶も確かでないけれど。
はやく、学業というしがらみから出たい、と思う。
出て、ただひとりの人間になりたいと誰に乞うわけでもないけれど祈っている。
その祈りは傷の中で、癒えないまま、ぐずぐずと心の奥で痛むだけだ。
奥歯で記憶を噛み締めて、痛みから逃げようと横を見る。
僕の痛みなんて知らないまま、隣の席でマリアは気持ちよさそうに眠っていた。子供のようにあどけない顔つきで。
普段こそこんなにもかわいらしい彼女が、時折、憎らしく思える時がある。それでも嫌いになりきれない。嫌悪を交えながらも好意に近いそれを、僕は彼女に直接伝えたことはない。きっと一生、伝えないだろう、と思う。
小刻みにポケットの中でスマートフォンが振動した。感情の変化に目ざといなと息を静かに吐き、布越しに労わるように撫でると、途端に静かになる。
神様にも思いやりがあって結構なことだった。
こんなにも便利な神様を手に入れているというのに、現実はままならないことばかりだ、と静かに息を吐いた。
そのため息を気にするような人間はいない。
私はその夜も森を訪れていた。
草を踏みしめて獣を殺す、今日もその仕事がはじまるのだと準備運動をしながら手足を伸ばしていると、
「君が君のことを好きなように、君がおれのことを好きになる必要はない」
そう、すぐ近くで言外に切り捨てられた男がいた。
森はすでにオサの鳴き声を聞き、人間は引き上げている。その中から抜け出してこうしてここにいるということは余程の命知らずだろうとすぐに思った。
男のことは見たことがあった。三軒隣の大人で、何人も妻を持つ男だ。顔立ちこそ村の中で抜きん出るほど整っていたが、彼にとっての悪いうわさはいくつも私の耳にも届いていた。
いわゆる、自分の妻がありながら片っ端から女に手を出す、悪癖にも近いそれだ。
対するもうひとり、誘いを切り捨てたのは、ロロットだった。
「おれはオサに付き従うもの。君のものになる道理はない」
道理、ときれいな声はむずかしいことを言った。はじめて聞いたロロットの声は透きとおるような高い声だった。
なるほどうつくしいロロットは、女だったのかと感心したと同時に、この結末がどうなるのか、いくばくかの興味が湧いた。手足を動かすのをやめて草むらに息をひそめる。
「でもあなたはオサに従っているとはいえ、人間だろう。どこかに落ち着く気はないのか? 落ち着く気があるのなら今すぐ俺の家に来たらいい。俺の家で食いっぱぐれることはないさ」
よくもそんな口がまわる、と呆れてしまった。
村の決まりごとを破っておきながらこの余裕は一体どこから出てくるものなのだろう。
彼が不自由なく生活できているのは彼の妻たちが懸命に働いているからだし、彼を糾弾しようものならたくさんの妻と、彼が手を出している他の女ごと村を出て行くという、無言の圧力に負けて皆がなにも言っていないだけだ。オワニである私ですらその内情を知っている。だからこそロロットがなにも知らない道理もないだろうに。
ロロットは、オサに付き従っていると言った。
たしかに、ロロットの側にはいつもオサがいた。その言葉の通りなのだろうと思考する。
ロロットの言葉に切り捨てられても、彼は諦めた顔をしていなかった。たくさんの女を抱いても、飽き足らないらしい。あたらしい、女を、ロロットに定めた。その覚悟を示そうとしたのか、男がロロットのマントに隠された長手袋に包まれた腕を掴む。
ロロットはすぐに男の手を振り払うことはなく、抗わなかった。
「憧れたことはないか?」
説得するには好機だと思ったのだろう。
男が夕方の赤い光の中で舌舐めずりをする。
「木の上だけではなく、あたたかい屋根の下で誰かと子供を持つことを」
当たり前のように、女ならその願いを持つだろうという浅はかな考えだった。でも、それゆえに、それを聞いていた私の耳にはいたくしみた。
その、言葉は、私がよく村の人間に陰で言われていたことだったからだ。
せつな、動揺して、地面を足の裏で強く掴む。
その、かすかな音をロロットは耳にしたようだった。一瞬だけ私の潜む草むらを見たが、それだけだった。
気がついていない振りをして男を静かな目で見つめる。
ひどく凪いだ目だった。
「大した詭弁だ」
「強がらなくていい! 俺は分かっている。女ってのはすべてそうなんだ。だから俺の前では隠さなくてもいい。俺にはたくさんの妻がいるが」
そこで男は分かりやすくロロットのマントの下に隠された体の線をじっと舐めるように見た。そしてそのうつくしさも。
確実に手に入れられるという、自信を持った、気持ちが悪い男の目をしていた。
「彼女たちに文句は言わせない。あなたのそのうつくしさならば村のやつらもなにも言わないだろう。あなたはただ俺の側にいてくれればいい」
甘い言葉とロロットを自分のものにしたいという欲を丸出しにした声を聞いているだけで頭が痛くなってきた。問題のある人間だろうとは思っていたがまさかこんなにも重症だとは。
さて、こんな状況をどう処理すればいいかと思う。
既に辺りは闇に包まれ始めている。彼以外の村人は既に家に着いていることだろう。彼を止めることができる大人が一人もいない。本来ならばここで私が止めるべきなのだということは分かっていた、けれど。
彼には近づくなと誰しもが忠告をしてくれていた。
女ならば近づいては、いけない、と。親切に、噛みしめるように。その誰しもが彼に娘を、妻を、恋人を、姉妹を奪われた人間だった。
好かれて、もし好きになっては、終わりだ、と。
その重々しい言葉は、その通りなのだろうとは、思う。彼らは男を選んだ彼女たちに捨てられた、いわば墓標だ。
でも、私ならば、止めることができる。
なぜなら、私は、男だからだ。
飛び出そうとしてようやく、いつもあるものがロロットのそばにないことに気がついた。
オサだ。
あのおしゃべりな彼がいない。
一体どこへ――そう思いついた途端に、肩にかすかな重みが乗っかった。
わざわざ確認するまでもない。その重さはずっと想定していたものだったからだ。
「オサ」
ささやくように口に慣れた名前を呼べば、彼は応えた。
『ロロットは、こういった状況ははじめてではありません。あなたが出るまでもないかと』
「でも」
今こそロロットから離れた彼を殺すことができるというのに、私はその場面から目を離せないでいた。男の手で強く握りしめられたロロットの細い手首。マントの下に隠された彼女の素顔、そのうつくしさは人を狂わせるには十分だと思ってしまったからだ。
「彼女が危ない」
ロロットは、この世のものとは思えないほどのうつくしい、ものを持っていた。
空気は既にひんやりとしたものになってきている。夜の森の中で向かい合った男と女が二人。後は、男の思うつぼだ。襲われて泣きわめこうが、助けはこない。
最悪、殺される前に助けられるのは私だけだ。
オサが私の服の裾を引いたが、止めるには弱い力だった。
ふたたび踏みしめた地面は大きな音を立てて、今度はごまかしが効かなかった。いやごまかすつもりもない。彼女を助けるのだ。
ロロットの腕を話さないまま振り向いた男は暗がりに私の姿を認めて顔を歪める。
「またオワニか」
吐き捨てられた言葉に踏み出そうとした足が震えた。
また、とは、どういうことだ。
動きが止まった私に向かって吐き捨てるように彼が続ける。
「オーリ、お前の親父もそうだったよ。俺の邪魔をしようとしてなあ、油断してたんだろうな。俺にやられてころっと死んだ」
お前もそうなりたいのかと言外に牽制をしてくる、その目が、まとわりつくように体を這った。
値踏みをされている、とすぐにわかった。村の男が時折向けてくる視線と同じものだからだ。
彼の目にかなうかどうか、彼の欲を引き出せるかどうか。
「まあお前も獣くさいとはいえ、女だ。女には手酷くしない。今夜のことを黙っていれば悪いようにはしないし、なんなら俺の家族に加えてやっても」
それ以上の言葉は耳に入らなかった。屈辱と怒りで頭の中が支配される。
この、男が、仇だったのだ。
殺してやる。
ためらいはなかった。すばやく彼の足元へ踏み出して抜いたナイフを彼の死角――顎の下から思い切り突き上げる。簡単に肉を貫く感覚がした。顎を砕いた刃をひねり、抜く。人間を刺すことははじめてだったけれど、思ったよりも簡単に突き刺さった感覚になにも感じることはなかった。
こいつは獣以下だと心の中でなにかが叫んでいる。
手先は嵐のように凶暴でありながら、頭の中ではすばやく次の一手を考えていた。半歩後ろに下がり、痛みにうめく彼の足に横薙ぎに蹴りを叩き込む。小型の狼よりは重い体だが、あっけなく崩れた二本足の生き物は普段相手にしている彼らよりもよほど倒しやすかった。一打にたじろぐぐらいでは私の敵ではない。
倒れた彼を冷静に見つめながら、手首を返して胸の中央を狙う。体重をかけて最後の一打。
ぐえ、という汚い悲鳴を最後に口から血と泡を流してうつろな目をして男は死んだ。
目の前で手首を掴まれたまま死んだ男に対してロロットはなにも反応はしなかった。
「オーリ」
ただ案じるように私の名前を呼ぶ、
血に濡れた手のひらで彼女の腕から男の手を引き剥がす。そうしてからやっと、私は人間を殺したのだという自覚がゆっくりと脳に浸透していった。
父の復讐を果たしたことに後悔はなかったけれど、禁を破るつもりはなかった。人間を殺すべからず、なんて、この森においては当たり前のことだ。それにどんな事情があろうとも、やってはいけないことをしてしまった。
張り詰めていた緊張が一気に弾けて、力が抜けた。
死体のそばにしゃがみ込んで放心してしまう。
朝が来るまでに、この男だったものの、後始末をしなければならない。
これは、ただの肉じゃなくて、先日まで村の一部だった。
それを、獣の仕業じゃない手管で殺されていれば、大人だって愚かではない。私を疑うだろう。ナイフをこんなにも巧みに扱えるのは村の中でオワニだけだ。だってそれ以外は獣の解体だってままならない、お粗末な手つきなのだから。
次にやらなければならないことは分かっているのに、体が動かなかった。
「後片付けはおれが」
ロロットが小さな口笛を吹くと、荒い吐息とともに三頭の狼と二頭の熊が現れた。彼女が目配せをすると彼らは従順に男の足首を加えて奥へと体を裂きながら去っていく。後には引きずった血の後が残ったが、体がない以上、村の人間が見てもまさか村の人間の死んだ後とは思わないだろう。
彼女の鮮やかな采配を見つめながら近くの木に止まった黒い小鳥へ話しかける。
「オサ」
『はい』
「もしかして、知っていたの?」
そう、小さな声で問えば雄弁な彼にしては珍しく押し黙った。それが答えだと、すぐに分かった。
この小鳥は全て知っていたのだ。
夜の森で父を殺したのは誰だったのか、なにがあったのか、すべて知っていた上でなにも言わなかったのだと、静かに怒りがこみ上げた。
「どうしてなにも言わなかったの」
彼は私が村のいましめに逆らって彼の命を狙っていたことを知っていたはずだった。
父を助けてくれなかった神様だと、毎晩命を狙っていたことも。
それとも毎晩のこのやりとりが、それが神様の遊びだというのならば。
「オサ。あなたが神ならば、あわれな親なし子の私の、願いをひとつ聞いてくれる?」
この黒い鳥が憎くて仕方がない。
できれば殺してしまいたい。
でも、殺すだけではだめだ。
もっと苦しめなければ。
「ロロットを、私にちょうだい」
父を殺した当人は今殺した。
ならば次は、見殺しにした彼らだ。
怒りに燃えた私の言葉に彼はなにも言わなかった。ただうなだれて、頷いた。
ロロットは反対するまでもなく、オサの言うことを聞き、私の足元にひざまずき、頭を下げた。
その頭に向かって血濡れたナイフを振り上げる。
刃先がロロットのフード一枚を裂いたところで頰をつつかれて目が覚めた。教室はすでに赤い光に包まれていて、夢の始まりの光景と重なって目をまたたかせる。
僕の頰をつついたのは目の前の席に腰かけたマリアだった。
「おつかれ?」
その甘い声に思考回路を溶かされながら、にやける頰を抑えて身を起こす。
「お疲れ、でもないんだけど……」
「でもすごい爆睡だったよ。古典の先生、起こすのあきらめてたし、その後の先生も全部そう! あんなに困ってるの初めて見たぁ」
ころころとかわいらしくマリアが笑った。彼女の言うように教師に起こされた記憶はないが、だとしたら申し訳ないことをした、と思う。
彼らが目こぼしをしてくれたのはひとえに受験が終わっているからだろう。普段はこんなことをしでかすようなことはないから、それもあったかもしれない。大人に甘やかされているし、油断していたな、と思う。
教室にはすでに僕とマリア以外誰もいなかった。
今何時かと聞く前に、彼女からはねるように声が降る。
「宿題も終わって提出してきたから帰ろうよ」
「うん」
一日中眠ってしまった。もうそんな時間なのかと頷いて立ち上がる。
「そういえばクレープ行くんだっけ」
空腹を思い出して提案すると、申し訳なさそうに形の良い眉をひそめられた。
「ごめん! 用事ができちゃって」
誘ってきたのはマリアなのに、と少しだけ思ったけれど僕はその感情を見せないようになんともないふりをして頷いた。
「いいよ。彼氏?」
彼女がこうして自分から言い出したことを反故にすることは珍しくないからだ。
いい意味で彼女は女らしい女の子だった。それに関して良くないことを言われていることは知っている。それでも彼女が僕の友人であることは変わらないし、僕が彼女の彼氏になれるわけでもないから、不満を顔に出すことはせず、また行こうと気軽に声をかけて席を立った。
「どこで待ち合わせ?」
「うんとねぇ、駅」
彼女は学校の最寄駅の名前を嬉々として上げた。
その頰も、唇も、うすく赤く色づいていて、かわいいなと思う。
僕には得られなかったかわいらしさだ。
欲しがっても僕のものにできないあいらしさだ。
「じゃあ、そこまで一緒に帰ろうか」
そう提案すると嬉しそうに僕の腕に彼女の手が絡んだ。胸を押し付けられてどうしようもなくなる。
かわいい。とてつもなくかわいくて、理性が焼ききれそうだった。噛みしめるように彼女のやわらかさを感じてやるせなくなる。
どれだけ好きでも彼女の唇を奪うことはできない。
そのやわらかさをそばにずっと置くことは叶わない。
僕がマリアと付き合うことはできない。
彼女は男が好きだから。
僕は骨ばっているとはいえ、女だからだ。
どうしようもなく、女だからだった。
今すぐに男になりたいなんて言わない。そんな愚かな想いは抱かないから。彼女をさらって逃げてしまえるような、人間になれたら、それだけでいいのに。
妄想を押し殺して彼女の隣を歩く。
いつも以上にきれいに彩られている化粧は、彼氏のためなのだろう。そのいじらしさが憎らしかった。手を、てらいもなく握ってくる、そのやわらかさに頭がくらくらした。
でもそれだけだ。
それ以上は何もできない。
何もないままマリアを駅まで見届けて、男の手を引いていく彼女の後ろ姿を見送った。
ぼんやりとした脳みそで電車に乗り帰路につく。街灯が横薙ぎに過ぎていく。このままこの苦しい想いが、あの光のようにうすく遠くまで消えてしまえばいいのに、そんな都合よく僕の頭は全てを忘れてくれない。
ひとりきりで家について、手早くシャワーを浴びるとベッドに倒れ込んだ。
枕に頰を擦りつけながら、きっと夢を見ていることもノーチェの手のひらの中の出来事なのだろうと、僕は思考する。
「ノーチェ」
彼がここに降り立って一年、そろそろ神様がひとつのところにいることも限界なのかもしれないなと思いながら僕は夢うつつに目を閉じる。その傍らのスマートフォンに彼が現れた気配がした。
『はい』
「オーリは、その後どうなったのか教えてくれる?」
僕がこのことを口に出すことははじめてだったから、戸惑う気配を彼から感じたけれど、一度口に出したことを撤回するほど僕は愚かではないつもりだった。
「ごまかさなくていい。僕が君の中身を盗み見して読んでいることも知っていたでしょう?」
『知らないわけではありませんでしたが……それは願いを持たないあなたには必要なことなのだと思っていましたので』
気長に待とうと思っていました、と素直に口にする彼に苦笑が漏れる。こんなにも親切な生き物がこの世の中にいるだなんて信じられなかった。
家族から呆れられた僕にこんなにも寄り添ってくれるものがいるだなんて。
「ノーチェ」
僕は、夢の中のオーリの行く末を知りたい。
そして。
できうることならば。
一度だけでいい。
現実で夢を見てみたい。
「マリアが、欲しかった」
そう汚い欲望を吐き出すと彼は静かに笑ったように聞こえた。
『おおせのままに』
その声は深く耳に染み込んで、そして消えた。
日が昇る前にオワニの仕事を放置し、私はロロットを連れて家に戻ってきていた。
一思いにオサの目の前で殺してやろうかとも思ったけれど思い直したのだ。こんなにもうつくしい彼女が小鳥に従う、その理由が知りたかった。
「なにか飲む?」
「いえ」
一度口を開いた後は彼女は返事をするぐらいには声を出すようになっていた。
どうして今まで声を出さなかったのかと聞けば、その方が今までの経験上面倒が少ないからだという。確かにオサも、ロロットにとって先ほどのような状況ははじめてではない、と言っていた。
「女であると知られると、今日のように面倒になるから」
「なるほど」
そう返事をしながら心臓は静かに脈打っていた。
思えば母親以外に女をこの家に招き入れたのははじめてだからだった。
「どうして女として生活を?」
水を勢いよくあおり、飲み込んだ瞬間を見計らったようにロロットが問う。彼女にはオサと同じように私のひみつを見透かされていた。
今更隠してもしようのないことだと、私は口を開く。
父がひとりきりの家族を守るためにオワニから程遠い女として村に認識させるために私を育てていたということを。
そんな彼も私がオワニを自ら選ぶことは想定していなかっただろうことを。
どうせ、遠くない未来、成長すれば、いろいろと不便が出てくる。体の線だって、声だって、私は男になる。隠していることは明かされるというのに。
「見た目もそうだけど、女であれば男と結ばれず子供を作らないことに、遠くない未来怪しむ人が出てくるだろうに。そういったところまでは頭がきっと回らなかったんだ。私の父は馬鹿だった」
自嘲気味に口にすればロロットはゆるりと首を振った。
「あなたの父親と話したことはあったが、おれにはそこまで愚かには思えなかった」
その言葉は意外で、息が詰まった。
「あの人はあの人なりに、君を、思いやっていたと思う。遠くの村に君を移住させるつもりだった」
オワニという仕事柄夜に自由に動くことができる。その間に彼は遠くの村へ話をつけにいっていた、と父のひみつを淡々と彼女は言った。
「そんな、慰めはいいのに」
「慰めではない」
おれには人間を慰める必要もない、という彼女の言葉は、その通りなのだろう。
ロロットとオサは森のものだ。
人間のように駆け引きも必要がない。
「いつも通りの帰り道だった。あの男と君の父親が衝突したのは。運が悪かったんだろうな。まさか、おれもオワニがあの男に殺されるとは思っていなかった」
それがもし、殺したということと同義にあたるのならばすまない、とそういうことを彼女は言って寝床に腰かけたままうなだれた。
「死体は森の獣たちが食べ物に飢えていたからやった。間に合わなかったのはおれの落ち度だ。オサのせいではない」
どうしてそんなにも彼を庇うのか、そう尋ねたように思う。
意識が浮ついていて正直よく覚えていない。
うつくしいものが頭を下げている。私の家で、私の寝床に座って。
とうの昔に忘れさせられていた熱を思い出して、体が熱くなった。
私は、彼女を、そうか。あの男と大差ない目で見ていたのかとそのはしたなさに唇を噛む。
「じゃあ、どうしてくれるの?」
「オサは神だ。あの森は君の村だけではない。ほかの村もオサがいなければなりたたない。人間はオサを中心にまわっている」
比べて、とロロットは自身のまとってたマントを脱ぎ捨てた。マントの下にはなにも身につけていなかった。
目を射るような異様なうつくしさが目の前に現れる。
彼女の体は透き通っていた。骨は青紫、皮膚と臓器はうすく青に色づいている。すべてを脱ぎ室内でさらけ出しながら、私の眼の前に立って彼女は淡々と言う。
「おれには替えがある。おれを好きにしていい」
あの男のように君に嫁げというのならばこんな体でもいいのならそうしよう、と静かに彼女は言った。
そんなことを言われるのは思ってもいなかったから、動揺した。
どうしてそこまで。
「あの神を信じることができるんだ」
「オサがすべてだからだ」
オサは彼女を死ぬ運命から救ったと言う。
「だからおれはオサのものだ。そのオサが許可したのだから、おれは君の好きにしていい」
なんだそれは。
なんなんだそれは!
思わず突き飛ばしたそこは、寝床で。
彼女のうすく青い目に見返されて、汚い欲を見透かされて。
ロロットは言う。
「もう、隠さなくていいんだ」
ここは森だ、と森のものが言う。
おれは獣だ、としとやかに口にする。獣である以上、君はおれを好きにして自由に生きろ、と告げた声には慈愛が含まれていた。
そのことに気がつけないほど私は馬鹿じゃない。
言葉に甘えて彼女を跨ぐようにして上に乗る。
そして首元に噛み付くと、彼女はうすく笑った。
私がどこまで手を伸ばしても届かない。
裏表のないまぶしいほどの愛。
めまいがするほどに、ひどい、うつくしさだった。
目が覚めたのは珍しく夜が明ける前だった。
見た夢は短い。夢の中のオーリの選択に、涙が頰をつたっていった。
オーリ。僕と呼び名が同じ、彼。
彼のように強く、そして、欲しいものを手に入れられるだけの心があれば僕もこんな恋心なんかに振り回される必要はなかったかもしれない。自分の人生に遊ばれるようなこともなかったかもしれない。
そんなことは夢物語だけれども。
僕は彼のようになりたかった。
今の僕全てを捨ててでも、彼のようになれたら、すべて悔いなく生きられるだろう。
家族に排斥されたことも、小さなことに怯えることもなく、マリアをさらうことにもためらわない。彼女をさらってどこまでも遠くへ行く。
しがらみから解放されたかった。
自由に、なりたかった。
中途半端な時間に目覚めた思考回路はゆっくりとよくない方向へと舵を切っていく。自由になるには並大抵のことではなれない。たとえば僕をすべて消し去るには死、とかでしか脱することはできないだろう。死ぬ覚悟はない。僕はどこまでだって、生きていたい。所詮は小心者だ。はみ出す勇気すらない。
ところで今は何時なのか、現実に戻りつつある思考回路が明確な数字を求めている。寝返りをして枕元のスマートフォンを確認しようとして、気がついた。
室内に、一つ、影がある。
「……ノーチェ?」
寝起きの声はひどくかすれていた。
室内はひどく静かで、影があるとすれば彼だけで、それ以上のものなんてないはずなのに。
影は予想よりも大きかった。部屋の奥に潜んでいたのか、ゆっくりとベッドサイドに歩み寄ってきて僕の目の前に腰掛ける。
遮光カーテンから漏れる月あかりはひどく明るい。
そこには夢に見ていた、彼がいた。フードを深くかぶって大きなマントで体を他者から守るように隠している。
オーリ。
はじめて見る彼は、知っている顔をしていた。
マリアだ。
たたずまいは甘さもまなざしもすべて同じだった。
驚きは一瞬だった。
声が似ていることから、心の中でそんな結末をも予想していたのかもしれない。案外あっさりとその現実は脳に馴染んだ。
「いい夢見てたの?」
ぽつねんといつものように甘く言われた言葉に笑ってしまう。
思えばこの時に既に予感していたのかもしれない。なにか自分に転機が訪れるであろうことに。期待、とはまた違うかもしれないけれど。
変化を受け入れるための渇きに似た衝動が、心を動かしていた。
「次は、オーリの番だよ」
彼女の声を耳は捉えたけれど、すぐに中身を咀嚼できなかった。
しばらくして、
「僕が、次でいいの?」
夢見るように口にすると、実感が熱になって指先に伝っていった。
彼女は笑う。昼に見せるそれよりも、屈託の無い、きれいな笑顔で。
その笑顔に甘さは少なかったが、これが素の彼女だと思った。
「いいのよ。前のロロットに言われたから。ロロットは紡がれるもの。繋がるもの。もし、オサが許してくれるようなことがあったら、渡してあげてって」
そっちが知らないだけでずっと長い時間をこれでも生きてきたのよ、と彼女は言った。
「オワニを勝手に辞めて、オーリって名前も捨てて、前のロロットの名前で生きてきたの。マリアは彼女の名前。まあロロットを継いだあとは私の名前でもあるけれど……不思議な気分だった。昔の私と同じ名前の人が友達になるなんて」
フード付きのマントを脱ぎながら彼女は言う。
「なにが欲しい?」
私はオサのもの。
オサは、みんなのもの。
オサは、等しく、平等だ。
オサを愛し、しなやかであれ。
それは正しくロロットのように。
それは正しく、マリアのように。
オーリはオサを愛さなかったけれど、ロロットのことは愛したのだろう、そのことはなんとなく分かったけれども、不思議なことに妬ましいとは思わなかった。それよりも目の前のマリアのうつくしさに目が眩む。
「もう、自由に生きたっていいのよ」
ひとつひとつ、マントの下に隠された制服のボタンを彼女の手ずからといていく。その下は、マリアと同じほのかに光る透けた体で。
「私は彼女からこの体をもらって世界が広がった。私を馬鹿にしていた男たちを食い荒らすのはとても楽しかった! ねえオーリ、あなたはなにを願ったの?」
そう優しく尋ねられて喉がなった。
ずっと欲しかったもの。
欲しくて欲しくてたまらなかったもの。
「マリア」
「なぁに?」
「僕は、あなたの全部が、ほしい」
今度は、僕が彼女に愛される番だと、はっきりと分かった。
もつれた舌で紡いだ言葉に、マリアは驚いたようだったけれど、すぐにとろけるような笑顔を見せた。
「そう、そうなのね。だいじょうぶ。私の、ぜんぶを、あげる」
その言葉を皮切りに、熱に浮かされたように彼女へ口付ける。
その唇は想像よりもひんやりと冷えていて、溶けかけの雪のようだった。
【かつて、全部を神に捧げた女がいた。
生まれながらに異形であり、生すら許されない女だったと聞いている。
その女と添い遂げた男がいた。
死してからは彼女の役目を継ぎ、彼女になり、神に仕えた。
神に仕えながら彼女は欲にどこまでも忠実になった。
男を食い、捨て、好き勝手に長い間を生きていた。
その彼女を心まで好きになった少女がいた。
欲に忠実だった彼女にとってはそんな人間は新鮮だった。
突き動かされる心に、ずっと見ないふりをしていた。それでもなお、隠しながら求められた手のひらには抗えなかった。
オサに許しを乞い、なんでも捧げると決めた。
そして少女に求められたのはすべてだった。
とろけるように心と体を合わせて女は少女の前から姿を消した。
少女に、かつての自身の体と記憶を与えただけで。
かけらも他のものも残さずいなくなってしまった。】
今夜僕に起こったことは、まるで悲恋の物語のようだと思う。
「マリアの人生は、正しかったと思う?」
青白く光り、呼吸をする平たい胸、腰の合間に新たにぶら下がったものに眉をひそめながら服を身につけていく。
僕が口付けて強く抱きしめた瞬間、マリアは満足そうにほほえんで弾けて消えてしまった。残った沈黙の中で熱を逃がさないように僕は静かに泣いた。
彼女は重たい僕の体まで持っていってしまったようだった。
代わりに置いていかれた体の心臓は僕を宿して熱く、喜ぶように脈打っている。
最悪なことに、この熱が嫌ではなかった。
『なにが正しかったかはわかりません。ですが、彼女はずっと、すべてを求めてくれる相手を求めていました』
願いが叶ったので、彼女は消えました、とノーチェは静かに言った。
彼女の願いを叶えるあり方としては正しかったのだろう。
全てを知りながら目を瞑ってきた神様。
巡り巡ってやっと出番が来たもう願いのない僕。
僕が、マリアの体を得たオーリのようになるまでにどれだけの時間がかかるだろうか。
すべてを、納得して死ぬまでには、なにをしたらいいのか。
『行きましょう』
今の僕にはすべて分からないことだらけだけれど、この夜に産声を上げた僕は、間違いなく、マリアとひとつになったものだった。
はじめて飛び出した夜はとてもやさしく、僕を受け止めてくれた。
未知へ、羽ばたくことに不安はない。だってマリアがここにいる。
あいしてる、と口に出せば、それは彼女の声になって流星となり、静かに消えた。その軌跡はまるで、ロロットそのもののようで、僕はひとり、ひっそりと笑った。
次のロロットは、僕だ。
うまれかわる彼女たち 井村もづ @immmmmmura
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