終章
終章
今日は道子先生が、経過報告をしてくれる日だ!と蘭は、気合を入れていた。この日だけ、直接本人と会うというわけではないけれど、やつがどうなっているのか聞くことが出来るからである。
いつも通り朝食を食べて、道子先生の来訪を待った。本当に奴はどうしているのだろう。道子先生が投与してくれた薬品で、少しは体も楽になってくれただろうか。いやきっと楽になってくれているさ、40万円の大金を払って、薬を調達することができたんだから!
そんな気持ちで、蘭は、期待を寄せていたが、道子先生が、約束の時間に来訪し、とりあえず形式的な挨拶を交わして、水穂はどうしていますか?と聞いたところ、目の玉を石でブッたたかれたような衝撃を受けた。
「私、今回のことを受けて、今の研究をやめようと思うんです。」
まず、小杉道子が発した第一声は、これであった。
「ど、どういうことですか!」
蘭は、思わずでかい声でそう言い返すのだが、
「ええ、私の気持ちは変わりません。何のために研究していたのか、わからなくなってしまいました。なので、もう一回、研究の目的を考えなおして、それから、再度研究を開始しようと思います。だから、とりあえず、もう、この実験は、おしまいにさせてもらえないでしょうか。」
道子の意思は変わらないようだった。
「ど、どうしてですか!だって、水穂だって、良くなっているはずですよね。あいつをよくしてもらうために研究をするんでしょう!」
「だから言ったでしょう蘭さん。いくら研究しても、良くはなりませんよ。よく考えてください。ただ、眠っているだけなんです。それで、症状を止めただけ。それだけしか効能を現してくれませんでしたし、それに、薬でどうのより、もっと重大なことがあって。」
「其れだって、かまわない。奴が何とか持ってくれればそれでかまわない。それでもいいんです。だから、そのまま続けてください!先生は、以前言ったじゃありませんか。研究医は一度研究が成功したら、多くの人が救えるって。それをいつまでも変わらず持ちつづけていれば、きっと水穂だってすくえるんじゃないですか。だから、どうかそのまま続けてください。お願いします!」
「蘭さん。」
終いには、涙を見せながら懇願する蘭に、道子は静かに言った。
「蘭さん。それは、本当に水穂さんにとっても、周りの人たちにとっても、いいことであるとは言えないわ。あの人は、杉ちゃんさんや由紀子さんと言った、本当に信用できる仲間がいる。その人たちは、水穂さんがいることによって、生きがいというのかしら、それをいただいているのよ。本当は、水穂さんに眠ったままではいてほしくないのよ。これからも薬の投与を続けていたって、ただ、水穂さんは眠っているだけ。それよりも、会話したり、ご飯を食べさたりすることのほうが、本人も、杉ちゃんさんたちも、よほど楽しいんじゃないかしら。薬では、確かに症状は抑えられるかもしれないけど、貴重な楽しみも、みんな奪ってしまうことになる。そこまでする必要は、ないってことよ。」
「だ、だから、そういうことは関係ないのです!」
蘭は、道子が何を言おうとしているのか、何となくわかってしまった気がして、涙を見せながら言った。
「いいえ、これ以上よくしようなんて、医学的に言っても無理かもしれない。蘭さんが言う、水穂さんが治るというのは、再びピアノが弾けるようになってほしいということでしょう。でも、正直あの体では、、、とても、無理よ。」
ど、どうして、そんなこと、、、。
蘭は、ぐっと唇をかむ。
「どうしても、ダメなんですか?水穂。本当にだめ何でしょうか。」
「蘭さん、ごめんなさい。私も、役に立てなくて。」
道子は、そういって、蘭に頭を下げたが、蘭はそれを素直に受け入れるという気にはなれなかった。それよりも、どうして奴を何とかしてやれないのか、其れのほうが、辛くて仕方なかった。
と、なると、蘭が出した金はどうなるのだろか。一応薬を買うために、こんにゃく一つくらいの金を出したような気がする。あの時は、水穂が回復してくれると言われたために、金を出したが、その見込みがないと、はっきり言われてしまった以上、金も意味がないということになった。と、いうことは、あの大金は、もうかえって来ないのか!
蘭は、そこで大損をした、と初めて気が付いた。
でも、医者に対して、あの金をどうしたら?何て汚らしい発言はしてはいけない。だから、大損したことは、感情としてあらわしてはいけないのだが、、、。
「ごめんなさい。あれだけたくさんお金を出してくれたのに。私も、残っていたら、お返ししようとは思っていたけど、もう、薬を入手するのに、全部使ってしまったわ。ごめんなさい。何もお返しできなくて。」
つまり、ジョチから借りた40万も、使ってしまったということであった。ああ、それの金も僕が返さなければならんということか。母から借りないでよかったというのが、せめてもの救いだった。だけど、道子には、金を支払うという義務はない。だって、彼女は、一生懸命やってくれたのだ。ただそれが失敗に終わってしまったというだけで。それに、医者という職業は、偉い人に区分されるわけだから、そういう人に対して、歯向かってはいけないことは、蘭もよく知っていた。
だからつまり、今回蘭が得たものは、40万の借金しかないということである。
ああああ、、、。僕は何をやったんだろう。水穂に対して、よくなってもらいたい、その思いで動いていただけなのに、、、。
「謝ってばっかりで申し訳ないけど、こういうこともあるのよ。人間だもの。私も、医者として、できる限り手を尽くそうとはしているけど、人間ってのは不思議なもので、うまく適応する人と、そうじゃない人と、必ずいて、、、。きっと、医療の手の届かないところって、一つか二つは必ずあるのね。水穂さんも、そうだったんじゃないかしら。」
道子は、そういう倫理的な話を始めた。そういう話が蘭は一番嫌いだった。
「うるさい!僕が、どれだけ頑張ったのかは全く無関心というのかい!僕は、やつによくなってもらいたくて、いろんなところに東奔西走していたんだぞ!いつもなら、宿敵としていた奴にまで金を借りて、あの薬の代金を支払ったんだぞ!それもすべて無駄になるというのかよ!」
「蘭さん、怒らないでよ。こういうことは仕方ないことなの。いくら頑張っても、ダメな人は少なからずいるの!だから、もう仕方ないと思って、あきらめて!」
「うるさい。だって、あの時は、何とかなるかもしれないって言ったじゃないか。僕はそうなってくれると信じて金を出した。それは立派な契約だ。だから、何とかなるまで、やってもらう。それは、契約を完遂するための義務じゃないのか!お前は人間という言葉を使ったが、人間である以上、怒りというものもある。契約を勝手に破棄された時の怒りだ!僕がそのくらい怒っていることくらい分からないのか!」
「本当にごめんなさい。でも、もう水穂さんの体は、、、。」
道子は、せめてそこだけは伝えようと思ったが、蘭の怒りは収まらず、
「うるさい!お前なんか、ただ医療者の仮面をかぶった、ただの詐欺師みたいなもんだ。そんな奴に二度と用なんてないからな!」
これまでにない怒鳴り声で、道子に怒鳴りつけたのであった。道子は、これはもう帰った方がいいなと思いソファーから立ち上がり、失礼します、と言って、玄関先へ出て言った。後ろから、バカ野郎、バカ野郎と叫び続ける声と、ガンガンとテーブルをたたきまくる音が聞こえてきて、道子は、この家が、恐怖の家のように見えた。
玄関を出て、家の外へ出たときは、心からほっとした。
もう二度と、この家の敷居は跨げない。道子は、そう決断したのであった。
蘭さんには、ひどく怒られてしまったけど、もう一人謝りたい人がいる。道子はそう思って、別の場所へ向かうために駅へ向かった。
一方そのころ。製鉄所では。
「あーあ、相変わらずだなあ。よくせき込むなあ。まあ、苦しいかもしれないが、しっかりしてくれい。」
と、いう杉三のセリフにあるように、咳き込んでいる水穂だった。
「これじゃあ、由紀子さんが持ってきてくれた、つくだ煮も食べれないなあ。」
確かに、つくだ煮はそこにあった。由紀子が、静岡市内の百貨店で買ってきてくれた、超高級なつくだ煮だ。そのほうがかえって変な化学物質も入っていないだろうからとおもい、わざわざ静岡まで行って、買ってくれたのである。
「少し寝る?どうする?」
由紀子が持っているタオルに顔をうずめながら、水穂は首を横に振った。由紀子が、あ、と口にすると、咳き込んだのと同時に、タオルが赤く染まった。
「そうだよなあ。やっと薬から解放されたんだもんね。あの時は一日中寝ていて、お前さんもつまんなくてしょうがないと言ったよな。でも、これでは、まずいなあ。」
「横になっているだけでもいいから、安静にしていたほうがいいのでは?」
由紀子は、心配になって、そう提案した。水穂も、それはしたほうがいいと思ったらしい。由紀子に支えてもらって静かに、横向きに寝た。
それと同時に、ごめんください、と言って、道子が四畳半にやってきた。
「あ、先生。すみません、大事な時に。水穂さんちょっと具合がよくなくて。」
「いえ、今日は、お詫びしたくて、こちらに参りました。」
道子は、申し訳なさそうに、水穂の枕元に座った。
「水穂さん、本当にすみませんでした。私、無意味な研究をずっとしてしまって。ただでさえお辛いのに、実験台なんかになってもらって、本当に、お詫びのしようがありません。」
と、改めて座礼をする道子。
「そうだよなあ。一日中寝ている生活なんて、つまんなかったもんねえ。」
杉三が、水穂の代わりに返答した。その間に、水穂は、起き上がって座りたい様子を見せた。道子は無理しなくていいですよ、申し訳ないですから、といっても、伝わらなかったようで、由紀子に支えてもらいながら、何とか布団の上に座った。由紀子にうす掛けを肩にかけてもらい、水穂も静かに道子のほうを見る。
そうなると、道子の目の前に、水穂の顔が真正面に来た。相変わらず、映画俳優にでもなりそうな美形だが、まだ少しばかり、腫れているところもあった。もちろん、容姿のことはあまり医学界では問われないが、この顔を台無しにしてはいけない、という気持ちになったことも確かだった。
「ごめんなさい。顔が腫れたということは、まったく想定外でした。ネズミで実験をした時も、何もなかったものですから。」
まあ確かにそうなのだが、
「ま、ネズミと人間は違うからよ。それに、今のセリフ、不細工な奴にもしっかり言ってやれ。イケメンばかりひいきするな。」
と、杉三にからかわれた。
「そうですよね。本当にごめんなさい。もう、この研究はおしまいにして、もう一回振り出しに戻って、ちゃんと、やり直します。本当に、罹患者が少ない疾病ですから、実験台になってくれる人も少ないですしね。それに、致死率の大きな病気なので、一回失敗したら、周りの人にも、大きな被害を出すわけですし。そんな研究、続けられるはずがありませんから。」
「いえ、続けてください。」
道子がそう謝罪すると、水穂が、きっぱりと言った。
「もちろん、僕では失敗したというのはわかります。ですが、僕意外にも同じ病気の患者さんは少なからずいるわけです。だから、その人たちが、回復してくれることを願っています。」
「バーカ。お前さんが犠牲になってどうするよ。それでかっこいいと思っているのか?」
「そうよ。あたしも少し調べたけど、水穂さんと同じ病気の人は、すべての膠原病の中で立ったの一パーセントしか患者さんがいないのよ。それを考えると、相当、少ない人数だということじゃないの。つまり、実験台になってくれる患者さんが少なすぎるということなの。その人たちに危険な薬を出して、もし、失敗したら、新しい実験台を探すのが大変になるのよ。」
杉三と由紀子がそういって、反対したが、
「いえ、そのくらいの少ない数字であっても、かかる人はかかります。ほかの膠原病の患者さんは助かって、僕たちだけ助からないのであれば、それはかわいそうすぎますから。」
と、主張を変えない水穂だった。
「だけど、人数を考えてみて。もし、実験に失敗したら、その人は犠牲になるの。そして、その人の、周りの人にも重大な悲しみを与えるのよ。それに、お金だってかかるでしょうし。危ない薬を次々に使い続けて、不安な日々をつないでいくなんて、あたしたちはたまらないわ。あなたは、いいのかもしれないけれど、あたしたちのことも考えてよ。」
由紀子は、一生懸命彼に考えを変えてもらおうと、説得を続けた。
「でも、でも、僕ではなく、ほかの患者さんが助かるかもしれない。そのためになら、僕は失敗してもいいですよ。みんなそうだったじゃないですか。華岡青洲も、バチスタ手術を実行した、須磨久義さんも。必ず誰か一人か二人、犠牲者を出しています。だから、僕はそうなってもいいと言っているのです。」
「嫌な人ね。どうして私の気持ち、わかってくれないの。そういう医学界の事ではなくて、私はあなたに逝ってもらいたくないの。」
「そうだよ。犠牲何てなにもかっこよくないぞ。名誉の戦死なんて、他人に言われたって、喜んでくれる奴は誰もおらんだろ。それにお前さんが道鏡の実験に失敗したら、何人の人間が悲しむか、勘定してみろ!一人か二人だけじゃねえぞ。もっともっと、何十人の人間がお前さんの事、見ているんだからな!」
「そうよ。水穂さん。これは、由紀子さんや杉ちゃんさんのほうが正しいわ。何十人の人が悲しむなら実験しても、意味がないのよ。医学というのはね、実験のためにあるんじゃくて、患者さんを救うためにあるんだから。」
杉三と由紀子の説得を、道子はまとめるようにいった。
「でも、、、僕。」
「でもじゃない。とにかく、お前さんには、もうちょっと頑張ってもらわんとな。安易に、犠牲になろうと、思うようでは、ダメだい。」
杉三のその笑った顔が何よりも証拠だった。この人は、みんなに愛されている人だ。だから、実験台になんかしてはいけないんだ。よかった。それを知ることができて。安易に、研究なんかに手を出して、泥沼にはめてしまうようなことは絶対にいけない。
道子はそう決断し、
「今回は本当にごめんなさい。もうちょっと、害の少ない治療を考えるわね。安易に薬くすりと手を出してしまうようでは、いけないわよね。もっとあなたたちが楽になるように、という、一番の目的を忘れないで、これからも、やっていきますから。」
と、吹っ切れた様子で、水穂たちに座礼した。
「いいえ、大丈夫です。何も気にしないでください。気にしないで、そのまま研究を続けてください。」
にこやかに笑って、水穂もそう答える。
「いいえ、もうしません。もう一回、ちゃんと研究の目的をはっきりさせてからにします。ただやみくもに研究するだけでは、成果は現れませんから。」
「ということは、もう危険な薬に頼ることもないんだな。」
杉三はそれをはっきりと言った。
「はい。もうそれはありません。そんな薬、いきなり投与したりはしませんから。」
由紀子も杉三も、良かったという顔をした。
「じゃあ、もうここへは来ないでくれよ。来るとしたら、もうちょっと、良いものをもって来てくれよな。頼むぜ。」
「はい。わかりました!その時に!」
杉三が念を押すと、道子はにこやかに答えた。なんだか、いろんな思いが取れて、すっきりしたのだろう。
「また来ます。もっとしっかりした研究医になって。今回は本当にありがとうございました。」
改めて一人ひとりに向かって座礼し、丁重に礼を言って道子は床から立ち上がった。
「では、ごめんあそばせ。」
そういって、四畳半を去っていく道子。鴬張りの廊下が、応援するようにきゅきゅ、となった。
「やれやれ、道鏡は、改心して去っていったかな。」
杉三たちもやっとほっとしたようである。
「お前さんを、危険な薬で持っていかれるのはやっぱり嫌だからな。」
「本当ね。」
由紀子も杉三も同じ気持ちであった。改めて水穂は大切な人なんだと、語りかけたつもりだったが、皮肉なことに、水穂は、咳き込んで返答するしかできなかったのであった。
その後、蘭のほうは。
「あーあ、どうしよう、、、。」
とりあえず、貯金通帳を開いて、彼の貯金がいくらあるかどうか、調べてみたところ、40万という金額に、あとちょっとでたどり着く、という額だった。あと2万あれば40万にたどり着ける。
それでは、と思って、手帳に書かれた予定表を見てみると、刺青を予約しに頼んだ客は、少なくともあと一週間しないと、やってこない、と、いう予定になっていた。それではどうしても、40万にはたどり着けない。
仕方なく、38万をすべて降ろして、焼き肉屋ジンギスカアンまで、タクシーを走らせてもらった。
「こんにちは。」
店の入り口から中へ入ると、店は、まだ開店しておらず、チャガタイが、店の中を清掃しているところだった。
「あ、蘭さん。どうもです。まだ店は開店していないので、もうちょっと待ってくれますかね。外で待つのも寒いですから、一寸席に座って待っていて下さいね。」
と言って、チャガタイは、蘭をテーブルに着かせ、水を出した。蘭にしてみれば、焼き肉を食べに来たわけではなく、理事長のジョチに会って、金を返すつもりだっただけなのだが。
「チャガタイさん、お兄さんはどこにいるんですかね。いらっしゃったら、ちょっと呼んできてくれないでしょうか?」
「ああ、兄ちゃんなら、さっき出かけたよ。買収の打ち合わせがあるんだって。」
「お帰りは、いつですかね。」
「あ、そうだねえ。今日は一日帰ってこないよ。帰ってくるのは明日の朝。なんとも、共産党のリーダーと、会食があるらしいので。」
ポカン、、、。として蘭は天井を見つめていた。
「さて、店も開店だ。蘭さん、ご注文は?」
そういわれて、蘭は返答に困ってしまったのだった。
本篇18、道鏡、現れる! 増田朋美 @masubuchi4996
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