第九章
第九章
「やっと顔の腫れが引いてくれた。もう、あんな薬、飲ませるのは可哀想過ぎるわ。」
恵子さんは、眠っている水穂を見て、そうため息をついた。
「俺も、あの小杉という女性医師は、正直、信用できません。あのとき、水穂さん、気絶してしまって、本当に可哀想でしたし。本人もきっと苦しいだろうと思います。」
ブッチャーもそれに同意した。
「そうよ。水穂ちゃんは、天下一の美男子。そうじゃなきゃ、水穂ちゃんでなくなるわ。」
ブッチャーは、俺もそのくらい綺麗なひとなら、いいのになあ。なんて、思いながら、水穂に、もう一枚薄いかけ布団をかけてやった。
「でも、俺、ジョチさんと、話してきたんですけどね。あの医者を動かしたのは、蘭さんなんだそうです。蘭さんがどうしても、水穂さんに生きてほしいからって、つれて来たらしいんですよ。」
「そうなのね。黒幕は蘭ちゃんだったわけね。」
恵子さんは大きなため息をついた。
「でもどうするの。蘭ちゃんとわかっても、それからどうしたらいいのか。」
恵子さんはまた考え込んでしまう。
「そうですよね。あの医者を呼び出したわけですからね。それだけ蘭さんは、思いが強すぎるということですかね。」
ブッチャーもそれに同調した。
「それに、呼び出したのが蘭さんとなれば、彼女もなかなか退散してはくれませんよ。ほら、医者の紹介というのは、通常、医者同士でするもんでしょ。とても身近な人がした場合、かえってややこしくなることも、多いじゃないですか。だから、素人は、医療に加担できないと言われるのでしょうが。」
「そうよねえ、、、。」
恵子さんも、ブッチャーも困った顔をした。本当にこうなってしまった以上、どうすればいいのだろう。
とにかく黒幕であるのは蘭だった。道子を止めるには、まず、蘭を止める必要がある。
二人がぼんやりしていると、またせき込む音がした。ブッチャーはすぐに水穂の体を横向きにして、背中をさすってやった。
次の日、小杉道子がやってきた。ブッチャーも恵子さんも、宣戦布告するようなつもりで身構える。
「先生。お願いがあるのですが!」
まず、これは男であるブッチャーが話を切り出した。
「先生、もうあの薬で実験するのは、やめていただけないでしょうか!先生は絶対安全だと言っていましたけど、あの後、顔がものすごく腫れてしまって、あまりに苦しかったようで気絶してしまいました!あの時は俺達もびっくりしました。本当にかわいそうだと思ったんで、もう、あれを投与するのは、やめてください!」
「あたしからもお願いします!」
恵子さんも、ブッチャーを擁護するように座礼をした。どうかそれではいけない、本当にやめてほしいという気持ちが道子にも感じ取れたのだが、、、。道子はそうしたくないという気持ちが現れてしまう。
なぜなのかわからないけれど、そう思ってしまうのだ。だったら、ほかの手段を使って、どうしても彼を何とかしなければならないような気がする。それはもしかしたら、患者さんを治してやろうという気持ちとは、またちがうかもしれない。
「先生、もう一回言いますが、もう、水穂さんにあんな危険な薬を出すのは、やめていいただきたいんです。あたしたちは、彼に対してよくなってほしいから看病しているんですけれも、その妨げになっているような気がしてなりません。」
恵子さんがお願いすると、道子は、またさらに別の感情がわいた。それはどうしても、このプロジェクトから降りたくないという気持ちだった。
「わかりました。では、もっと作用の穏やかなものに変えてみますか?」
ブッチャーも恵子さんも、どうしてそんなひどいことを平気で言うんだという顔をする。
「だから、俺たちが言いたいのは、もう危ない薬には、手を出さないでほしいという気持ちなんですけどね。」
ブッチャーがそういうと、
「危ないというか、免疫が異常なほど凶暴化しているのですから、そこをなんとかしなければなりませんわ。」
と、道子は反論した。
「そのためには、多少危険な薬を出すことも必要なんですよ。免疫というのはそういうものです。それくらい自己免疫性疾患というのは、原因も治療も何もわかっていないんです。」
「そうですけど、薬に振り回されて、ずっと苦しい思いをし続けるのが治療というものなんでしょうか。俺は違うような気がします。そうじゃなくて、毎日を平和に楽しく過ごせるようにすることじゃないかと。」
「そうですよ。大きな病院に閉じ込められて、年がら年中点滴ばかりっていう生活も、なんだかあたし、かわいそうだなと思ってしまうんです。そんな人生しか、水穂ちゃんには残っていないのでしょうか?」
道子は、まさかこの二人から、こんな文句をいわれるとは思ってもいなかったので、思わず口をぱくんと開けたまま、持っていたペンを落とした。道子にしてみれば、水穂の看病
というものはどうしてもいやなことだから、そこから二人を逃してやるために、薬を出してやっているという、思いもあったのだ。
「決して、皆さんを負担から開放するわけですから、悪いことをしているとは思いません。どうして、わざわざ、飛んで火にいる夏の虫のようなことを望むのですか?」
「生きがいだからです。」
道子の質問に、恵子さんは、強く言った。
「あたしたちにとって、彼の看病するということは、生きがいにほかなりません。あたしも何回もこれは嫌だいやだと思ったことがありました。でも、やっぱり、あたしにとって、彼の看病は、生きがいなんだなと思い直させることが多いです。だから、あたしたちは、そう思って、生きていくことにしています!」
「俺もです!」
ブッチャーがそのあとに続く。
「本当に?私、いろいろ見てきているからわかるけど、表ざたではそういう発言するけれど、裏では、平気でこの人がいるといやねって愚痴を漏らしている人を大勢見ているのよ。そのために、薬の研究に取り組んできたんじゃないの!」
道子は、そういった。それが、道子が医者になり始めたきっかけでもある。介護するとは、そういうことだと結論付けたときに、薬によって、その負担を減らそうと思い、研究医として、活動を開始したのだった。
「でも、俺たちは、多少のことはあっても、基本的に水穂さんのことは、忘れていませんし、俺たちは、水穂さんのことをずっと見続けていきます。」
「あたしも、ご飯を食べさせることしかできないですけど、それだけでも一生懸命やっていこうと思っていますよ。」
まだ、二人の話を半信半疑で聞いてしまうのであるが、、、。
「もう、そんなに俺たちが信用できないなら、水穂さんが目が覚めるまで、みていったらどうですか?」
ブッチャーは、彼女が納得してくれないので、そうでかい声で言った。
「そうですね!」
でも、きっと私のほうが、正しいと思う。この時は道子はそう思っていた。そのことを証明するために、私はいよう。そう思って、道子は製鉄所に残ることにした。
暫く、水穂さんは、眠ったままだった。ブッチャーは庭を掃除して、恵子さんはほかの利用者の食事を作ったりした。そのまま暫くそのままでいた。眠ったままで、咳き込むことも何もなかった。道子はそれでいいなと思った。それがいわゆる症状の取れた状態で、それでいいのではないかと定義し続けた状態だ。静かにしていれば、ほかの人たちだって、一生懸命料理したり掃除したり、それに専念できるのではないか。それで、良いのではないか。でも、なぜ、あの二人は、負担のかかりすぎる介護生活を、生きがいだと言ったのか。その答えが、道子には見つからなかった。
数時間後。
「こんにちは。」
玄関先から声がする。
「おーい、来たぜ!」
もう一人、誰かが来たということが分かった。
恵子さんが玄関先に行くと、杉三と由紀子がやってきたのだった。多分、夕方は、二人が手伝うということなのだろう。
「今日も頼むわね。ご飯食べさせてやってね。」
「はいよ。任せとけ。」
恵子さんにそういわれて、杉三と由紀子が中に入ってくる。それに気が付いて、というより薬が切れたのか、水穂もやっと目を覚ました。
杉三たちは、道子の顔を見たが、挨拶すらしなかった。由紀子などは、嫌そうな顔をして、彼女を見る。
「具合はどう、大丈夫?変わりない?」
由紀子が聞くと、水穂は少しばかりせき込みながら、黙って頷いた。
「そっか。でも、変わりないのが一番だから。まず、体の回復が一番よ。」
「ずっと寝ていて、つまらなくないか?」
杉三が、わざとおどけたように言った。
「そうだね。ある意味つまらないよ。ずっと、眠っているだけだもの。」
と、水穂は正直に答えた。
「そうなのね。まあずっと寝ているんだもんな。うれしくもなければ、悲しくもないよな。つまらないよな。」
「そうだね。でも、其れしかないんだよ。だって、薬を飲まないと、咳き込んだまま止まらないし。それに、眠っていないと、苦しいところから、逃げることもできないからね。」
水穂は、にこやかであったが、それはある意味、自虐的な言い回しであった。
「まあ、そういうことだよ。僕みたいな人は、生きていたって仕方ないもの。時々、思うんだよ。このまま逝くことになるのかなって。」
それを聞いて由紀子が、そんなのは嫌よ!という感じの顔つきしているのがみえる。
「それはね、仕方ないよ。まあいい。由紀子さんには、悪いだろうから、そういう発言は今はやめておいてね。」
杉ちゃんの話で、由紀子はちょっとほっとする。杉ちゃん、ありがとう。と由紀子は思った。
「まあよし。寝たままではいかんな。ちょっと座ろう。」
由紀子が彼のげっそりやせた体を支えて、布団の上に座らせた。そしてその背中に柔らかいうす掛けをかけてやる。そのあとで、数回せき込んだため、由紀子が濡れタオルを渡した。タオルは、すぐに朱に染まった。道子は、これではもう薬が切れてしまったのではないかと思ったが、杉三が、出してはいけないと言って、それを制した。一体どうして?と道子は杉三のほうを見るが、杉三は由紀子を顎で示した。
「ほら、大丈夫?苦しい?ゆっくり出してみて。」
と、由紀子が背中をさすったりたたいたりしているのが見える。咳き込んでいるのは事実であるが、
「ほらあ、薬で止めるより、ずっと楽だ。」
と、杉三が解説する。医学的に言ったら、すぐに薬を出してやったがいいと思うのだが、由紀子にすみませんと言って、咳き込み続けるのである。
「すみませんというのなら、どうして何もしないのでしょうか。」
道子はまだわからなかった。
「水穂ちゃん、ご飯よ。」
恵子さんが、おかゆの入った土鍋をもって、部屋に入ってきた。
「ああ、またやっているか。」
恵子さんは、土鍋を枕元に置いた。
「悪いけど、由紀子ちゃん、食べさせてやって。急いで食べさせる必要はないから、その代わり完食させるようにしてよ。」
「わかりました、じゃあ、一寸時間がかかるかもしれないですけど、少しお待ちください。」
恵子さんに課題をつけられたが由紀子は平気だった。由紀子は、ふたを開けて、中身を匙で取り出し、
「はい。食べて。どうぞ。」
と、水穂の顔の前に突き出した。
水穂は、はい。と言って、匙を受け取り、中身を口にした。
「お、食ってくれたぞ。じゃあ、もう一回食べてみろ。」
と、杉三が言うと、由紀子がもう一度彼の口元に匙を差し出す。
「よし、ゆっくり食べてくれ。」
今度も、口にしてくれたのであるが、
「よし、もう一回行くぞ。よし食べろ。」
と、三度目に、匙を口元に持っていくと、今度は首を振った。
「なんで?」
優しく聞く由紀子だが、返答はない。
「どうしたの?食べないと力が出ないわよ。ほら、食べて。」
由紀子さんに言われて、仕方なく口にした。
「よし、頑張って。それでは、もう一回行こう。」
由紀子はまた再度彼の口元に、匙を持って行った。
水穂は嫌そうな顔をして、首を横に振った。
そんなことを十回くらい繰り返した。
「これじゃあ、食事にもならないわね。思いきって、栄養剤でも投与した方がいいのではないかしら。毎日これでは、気が休まらないでしょう。」
道子は、そう提案したつもりだったが、
「余分なことは言うな。」
と、杉三に、でかい声で言われてしまったので黙った。
「じゃあ、もう一回食べてみよう。」
由紀子は、もう一度、彼の口元へ、匙を持って行ったが、また横に振るだけなのであった。
「そうか。もう何回やれば、気が済むんだ。と言っても、勘定はしていないんだけどよ。」
だったら勘定をすればいいじゃないか、と思うのだが、杉三はそれをしなかったのであった。変な奴、と、道子は思うのだが、、、。
「じゃあ、行くよ。もう一回。もう一回。」
杉三が、今度は匙を出して、水穂の口元へ運んでいく。何とかして、口に入れようとしていた、水穂であったが、かみ砕くことはうまくいかないらしく、咳き込んで吐いてしまうのである。
「もうしっかりしてくれや。食べてくれ。食べないと、何もできなくなってしまうぞ。」
今度は懇願するように杉三が言った。
「杉ちゃんさん、なんだかわざとらしい。」
道子がそうつぶやくと、
「うるさい。こういうことも、必要なんだ。」
と、また言われてしまった。
「どうかお願いします。食べて。」
と、今度はさらに、頼み込むように言う杉三。
もう一回、水穂は口に入れることはできた物の、すぐに、咳き込んではいてしまうのだ。
「あの、すみません。」
と、道子は杉三に話しかける。
「何だよ。」
「杉ちゃんさん、あたし、思うんだけど、本当にこんなに能率が悪いことを平気でして、どうして、またそれを続けるんですか。いつまでもそれを続けては全く、使えないというか、役に立たないというか。」
「役に立ってるのさ。」
杉三は静かに言った。
「立っているの。それで。それでいいのさ。」
そうかしら。
「杉ちゃん、あたし、つくだ煮かなんか持ってくる。味が在れば食べてくれるかもしれない。」
と、由紀子がたち上がり、台所に走っていった。数分後に、彼女は、小さな壺をもって戻ってきた。
「杉ちゃんこれ。恵子さんに昆布もらってきた。急いで食べさせよう。」
壺の蓋を開けて、由紀子はおかゆの中に昆布を入れた。
「さあ、もう一回食べようね。」
由紀子は、味をつけたおかゆをもう一回匙に入れて口もとへもっていく。
今度は、咳き込まずに食べてくれた。
「よし、もう一回頑張ろう。」
と、由紀子はおかゆを食べさせる作業を続けた。水穂も時折咳き込むが、何とかして食べようという、きもちになってくれたらしい。それを何度も繰り返して、どうにかおかゆを完食してくれた。
「大成功。よく食べてくれてありがとう。」
由紀子が、にこやかに言って、水穂の体をそっとなでた。本当は、抱きしめてやりたいくらい、うれしかった。
「眠っても、かまわないわよ。」
と、由紀子は言ったが、
「いえ、寝てしまうのは、ちょっとつまらないです。やっと頭痛が取れて、楽になれましたから。」
と、水穂は言う。
「杉ちゃん、ほんとは、お茶でもしたいね。」
「そうだな。ま、元気になって、お前さんがお外へ出かけるようになれたら、お茶しような。」
杉三が、笑ってそう返した。でも、
「杉ちゃんさん。水穂さんの安全のためには、ご飯をたべおわって、30分以内に、薬飲まなきゃいけないんですよ。わかるでしょ。だから邪魔しないであげて頂戴ね。」
そうなのか。薬というものはそうなってしまうのか。
「へえ、なんだか厳しいな。」
杉三は、また馬鹿笑いするように言った。
「そうか。それだけはしなきゃいけないのか。」
「そうですよね。ほかの人に迷惑かけてはなりませんね。」
水穂は、そっとため息をつく。
「確かに、多少気持ちが落ち込んだり、眠くなったり、頭痛がしたりといろいろあるのですが、咳き込むのを止めることは、確実にできますからね。」
なんだか悲しそうだ。水穂さん。
「さ、これを飲みましょうね。さもないと、またせき込んだらいけませんもの。じゃあ、いいですね。」
道子は、水穂に薬の入った吸い飲みを渡した。
「それでは、どうぞ。」
と、言われて、吸い飲みの中身を飲み干す。
「あーあ。結局、また眠っちゃうんか。つまんねえの。」
杉三は、でかい声でそう朗々と述べると、水穂もそう考えていたようである。まあそれはそうだけど、つまらないことは疑いない。
由紀子が、彼の背をそっと支えて、布団に横にならせてやった。
「水穂さん、やっぱりつまらないよな。飯を食う以外は、ずっと咳をするか、後は眠っているしかねえんだもんな。本当に、つまらないよな。ほんと、せめて眠らないで、ずっと一日過ごしていける日が来てくれると、いいのにな。」
杉三がそういっても水穂は返答しなかった。もう、薬がまわって、眠ってしまったのだ。
由紀子が、静かにかけ布団をかけてやった。でも、これでは、よくなったというわけでは
なく、一時的に症状を止めただけのこと。
「明日、また来るから。あたしたち、また来るから。よく眠ってくださいね。」
「今度は、つくだ煮ではなくて、もうちょっと、生きのいいもんをもってきてやるよ。返答はしなくてもいいからよ。完食はしてくれよ。」
由紀子も杉三もそういうことを言っていた。
「じゃあ、また明日も来るぜ。今度は、もうちょっと、話ができるといいのにな。」
そこでなんだか重大なことをつかんだような気がする。水穂さんは、ひどく能率が悪いやり方で、ご飯を食べているのではなく、ただ、目が覚めている、きっかけが欲しかっただけなのだ。きっと、薬を飲んで、すぐに眠ってしまうしかないのを、非常につまらないと、一番思っているのは、紛れなく、水穂さんだった。
あたしは、その原因をつくっているのだったら、それは、水穂さんの楽しみを奪ってしまうかもしれないということであった。
やっぱり、それでは、いけないということなんだろうな。
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