第八章

第八章

伊能製紙の事務所では、今日も社長の伊能晴が、新人の若い職人に、

「あなたね、いつまでも学生気分でやっているんじゃないわよ!もう、日本の伝統の和紙を作っているという職人なんだから、そんなへらへらしてないで、もっと背筋をまっすぐにして、しっかりやりなさい!いい、日本の和紙というのは、世界にも例がない高級紙なの!ただ、パソコンで印刷する時に使う紙とは偉い違いなのよ!だから、洋紙を作っているのと、同じ気持ちで働いてはいけませんよ!」

と、またパワーハラスメントに近い指導をしていた。

「は、はい。すみません、社長!まだ入ったばかりなので、何もわからないのです!申し訳ありません!」

と言って、敬礼する若い職人。

「だから、謝って済む問題じゃないのよ!職人なんだから、もうちょっとほこりをもってやってと言っているの!」

「社長。まだこの会社に入ったばかりですし、19歳の若い男ですから、和紙の尊さなんてまだ知りませんよ。そういうことは、暫く働いてから思うもんですよ。今日のところは、もう叱らないでもいいんじゃありませんか?」

沼袋さんが、年寄りらしくそういったが、

「ダメ!こういう産業は、大昔から続いてきた日本の伝統を、引き継いでいるとしっかり自覚しないとできないのよ。まず始めたばかりだと言っても、伝統をやっていると意識しているほうが、ずっと職人としての腕も上がるのよ!」

と、相変わらず厳しい晴であった。

「ほら、早く仕事に戻りなさい。ただでさえ、人が足りなくて困っているんだから。紙を漉いてもらわないと、注文が追い付かないわよ!」

「はい。」

若い職人は、パワハラ社長の晴に叱られ、どよーんとした表情で、仕事場に戻っていった。心配になった沼袋さんは、社長室から作業現場に戻っていく彼を追いかけて、

「気にしないでくださいね。社長も女ですから、虫の居所が悪いと、ああして当たり散らす癖がありまして。女と言いますのは、どうしても感情で流されてしまうものですから。」

と、こっそり彼に伝えておくのだった。

沼袋さんが、彼をおいかけて部屋を出て行ってしまったので、社長室には、事実上晴が一人になった。あーあ、まったく、最近の若い人は、なんでこうだらしないことばっかりするのかしら、なんて呟きながら、今日も椅子に座って、注文書を眺めていると、ふいに、わきに置いてある、電話が鳴った。いつもなら、沼袋さんが、電話に出ることがほとんどであったが、今日はその沼袋さんがいないので、

仕方なく、晴自身が電話をとった。

「はい。伊能製紙ですが。」

取引先の社長でも電話をかけてきたのかと思ったが、相手はまるで違う人物であった。

「あ、お母さん。久しぶりだ。僕だよ。蘭だ。」

こんな時期になんで電話をよこすのか、晴もびっくりしてしまう。まあでも、実の息子であるわけなので、特に驚いた様子は見せずに、

「あら、蘭。どうしたの?元気でやってる?」

とだけ言った。

「ああ、そういう話に答えている暇はない。あのね、お金を少し融通してもらえないだろうか?」

電話口の蘭は深刻な様子で、そんなことを言う。

「何言っているの?お金なんてあんたも仕事しているんだったらそれで賄えるでしょ?それとも、詐欺電話でもかかってきた?」

いつもは豪快な晴も、蘭がいきなりこんな発言をするものだから、びっくりしてしまった。

「どうしたの?ちゃんと言いなさい。詐欺電話かどうか、聞いてあげるから。一体どういう内容がかかってきたのよ?」

「いや、詐欺電話じゃないんだ。詐欺じゃなくて、ある人間の命がかかっているから、なるべく早く、こっちへ送ってよ。」

こっちへ送ってなんていう言い方をするもんだから、もしかして晴のほうが、詐欺電話かと思ってしまうのであった。

でも、電話口の声は間違いなく蘭だ。変に風邪で声がかすれたからとか、そういう言い訳も使ってこない。

「蘭もバカね。今は現金を郵便小包とかで送ることは禁止されているのよ。現金書留だって、送れたとしても、五、六万とかそのくらいでしょう。それ以上の金額は送ることはできないわよ。」

「そうか、、、それではとても足りないよ。」

電話口の蘭は泣いていた。

「しっかりしなさい。男なんだから、泣かないでちゃんと要件話してごらんなさいよ。一体何があったのよ。」

「ああ、ごめん。」

蘭は、鼻をかんでから、要件を話し出した。

「お母さんにとっては、もしかしたらにっくき相手なのかもしれないが、僕にとっては、一番の親友だ。磯野、旧姓右城水穂さんだ。あいつが、、、。」

そこから先は、もう言えないらしい。ボロボロ涙をこぼして嗚咽する音しか聞こえてこない。

「蘭。しっかりしなさい。其れも言えないんなんて困るでしょ。何となく言いたいことはわかったけど、それじゃあ、あたしじゃなくて、ほかの人に、その要件伝える場合、相手の人は迷惑するわよ。こういう経験は、一回だけじゃないわ。何回も同じことするんだから。人間である以上そうなるの。だから、しっかりと、一から十まで説明してごらんなさい。」

もし、これを沼袋さんが見ていたら、驚くだろうなと思われるほど、晴の口調は優しかった。

「ほら、しっかりしなさいよ。泣かないでちゃんと言いなさい。」

「わかったよお母さん。」

そういうことをいう蘭も、やっぱり人間の子なのだと、晴もため息をついた。

「ほら、この前、北海道で大きな地震があっただろ。それで、僕たちは、というか杉ちゃんたちが勝手に決めてしまっただけだけど。」

「ああ、あったわね。あの時は、配送が遅れて、注文した方に商品が届かなくて、困っちゃったわ。」

わざと晴は明るく言った。

「だから、その地震のせいで、みんな水穂のことをかまってやれなくなったから、それではいけないので、水穂と杉ちゃんで、フランスまで送りだしたんだ。で、地震の報道が少し落ち着いて、帰って来たのだが、行っている間にものすごく悪くなったらしく、もうめっきり弱ってしまって。いくら薬飲んでもだめになっちゃって、、、。」

「そうなのね。」

晴の口調もだんだん重くなってきた。

「それでお母さん、僕は頼みの綱として、小杉道子という研究医を連れてきたんだ。彼女であれば、何とかしてくれるのではないかと思ってさ。」

「ああ、小杉道子ね。一時、すごくテレビとか雑誌にも出てたわね。まあ、研究としては、たいしたことないのかもしれないけど、ルックスがよかったから、それでよく出演していたんじゃない。」

「え、たいしたことない?それはどういうこと!」

思わず蘭は聞いてしまった。

「もう、鈍いわねえ。だって、ほんの数百人しか罹患者が出ていない病気の研究をして、何になると思っているのかしら。そんなもの研究するなんて、ただの変わり者としか思えないけど?」

「ただの変わり者じゃないぞ!」

蘭は、電話をしながら、思わず電話台をたたいた。

「まあ、落ち着きなさい。あの医者が研究する病気何て、膠原病のわずか一パーセントしかないんですってね。それに、日本人には極めて少ないらしいし。だから、かかる人も、ほとんどいないんじゃないの。外国に行けばいいのかもしれないけど。たまにいるのよね。そういう場違いな研究する人!」

晴の言っていることは、決して間違いではない。テレビや書籍などでは、そう書いてあるからである。

それに、膠原病の専門病院に行っても、混合性結合組織病という病名が付くほど、複雑な症状が出る人は、なかなか見られない。

「お母さん、やつはそれなんだ。こないだ、沖田先生というお医者さんがそういったよ。それに一度診察してくれた、小杉道子先生も、そういったよ!いつも貧乏くじばかり引いている僕よりも、もっとひどいものを引き当てたということになるんだよ!」

「蘭、落ち着きなさい。それと、お金を融通しろということとなんの関係があるの?」

「だからあ、そのやつを治してもらうため、新薬を研究しているそうだが、それが新薬ということもあって保険が利かないから、何十万もかかるんだよ。それで、お母さんにお金を融通してほしいわけ。わかってくれるかな!やつはそこまで病気が進行していて、もうきれいごとばっかり呟いていては、ダメなんだ!」

全く、いつまでたっても、こういうことに関しては、免疫のないというか、本当に頑固な息子だなあと思った晴であったが、彼女自身も、水穂の家を壊滅させてしまった罪悪感は、持っていない訳ではなかった。

「そうね。じゃあ、葬儀代は出してあげるから、それで我慢しなさい。」

「は、ちょっと待て。どういうことなんだよ!」

蘭は、余計に混乱しているようである。

「もうきっと、手の施しようがないと思うわよ。だから、そんな人にお金出しても無意味だと思うから、其れより葬儀のお金を考えたほうがいいと思う。でも、穢多寺と言われていた、あのお寺も、区画整理で廃寺になっているから、そうなるとどっかの自由霊園とか、納骨堂にお願いすることになるかしらね。今ね、市長さんが、あの地区にあった偏見を払拭しようとして、伝法地区に、大きなショッピングモールを立てる計画してるのよ。そのうち、伝法にスラム街があったなんてことは聞かれくなると思うから。」

「ちょっと待ってよ!そういうことではなくて、、、。」

蘭は、それ以上は言えなくなってしまった。なんで年配の大人という人たちは、そうやって、先のことばっかり言えるのだろうか。そうではなくて、水穂のことを本当に思ってはくれないのだろうか。

「たぶんね、そうなると思うから、お母さんが、良心的な葬儀屋さん探してあげる。一般的に言えば、穢多の人間を扱うなんてとんでもないという、葬儀屋さんのほうが多いのよ。納棺師の方だって、あんな革の匂いが充満した人間を触るなんて、嫌だなあという人が多いから。そうなったら、水穂さんもかわいそうだからね。」

「おかあさん、そういうことじゃないんだよ!なんでそういうことになるのさ!僕はそうじゃなくて、あいつが、もうちょっとこっちにいてくれるために、何とかしてくれないかと思って電話したんじゃないか!」

多分、一般的に言えば、晴のほうが先を見越してくれているのだと思う。でも、蘭は、どうしても、それを受け入れられなかった。それに、教えてくれているのが親であるというのも不都合であった。どんなに不都合であっても、或いは非常に良い忠告であっても、親のいうことは、カチンと来てしまって、悲しいけれど、その通りには動けないことがほとんどなのである。だから、親孝行したい時分に親は無し、何ていうのだろう。

「蘭、こういうことは、人間であれば、必ず遭遇する事なんだからね。今はつらいかもしれないけど、

しょうがないと思ってあきらめなさいよ。あきらめるということは、明らかに認めることよ。そういうことなの。しっかり理解しなさい。」

もう蘭は、言うことがなくなったのか、電話はプツンと切れてしまった。知らないうちに、社長室に戻ってきて、二人の電話のやり取りをすべて聞いてしまった沼袋さんは、社長も、そういう理論的なことを言うのではなくて、坊ちゃんの悩んでいること対し、つらかったねとか、受け止めてやるような発言をすればいいのに、と、あたまの中で思った。もちろん、社長に歯向かうような発言をしたら、

すぐに首になってしまうだろうから、それは言えなかったけど。誰か、坊ちゃんの気持ちを受け止めてやれる人物が、現れてくれますように!と、願わずにはいられなかった。社長は、まったく蘭もいつまでも子供で困るわね、なんていいながら、いつもの業務に戻ってしまったけれど、社長、若い人が、成長するというのは、今の時代、やり方を教えるだけでは、ダメなんですよ、と、沼袋さんは、心の中で言った。でも、社長は、そういうことはできないだろうなと思った。そうでなければ、蘭を、ドイツへ養子に出したりはしないはずだ。

坊ちゃん、今は苦しいと思いますが、頑張って乗り越えて下さい!乗り越えられない試練はありませんから。きっと、どこかで助け舟を出してくれる人物がいるはずです!

沼袋さんは合掌し、心の中で祈った。


電話を切って、壁にかかった時計に目をやると、もういしゅめいるらーめんの開店時刻を過ぎていた。

蘭は、お母さんには叱られたが、あのぱくという頭の悪そうな外人であれば、いくらかだしてくれるのではないかと思った。よし、と心に決め、タクシー会社に電話し、ラーメン屋まで連れていってくれるようにお願いした。

タクシーはすぐに来てくれて、蘭は、急いでそれに乗り込み、ラーメン屋へむかった。変な名前のラーメン屋だが、どんなラーメンを作っているんですかね、なんて明るく陽気な顔でいう運転手だったが、蘭が、あまりに深刻な顔をしているので、それ以上質問はしなかった。

店の前に着くと蘭はそこで降ろしてもらった。ちなみに、いしゅめいるというのは、ぱくちゃんの本名である、イスマイールを、ヘブライ語読みしただけのことである。単語としては、「残り物」という意味でもあった。

店に入ると、先客らしく人がいた。その顔を見て、蘭はギクッとする。これは来訪するタイミングを間違えてしまったのだろうか。もう帰った方がいいか!と蘭は引き返そうとするが、

「あ、蘭さん、いらっしゃいませ!」

でかい声でぱくちゃんがそういったため、もうだめだと思い、店にはいった。

「えーと予約してあったんだよね。予約席は向こうの席だよ。一番奥のテーブルよ。」

ぱくちゃんに言われて、蘭は、その通り一番奥の席に着いた。

と、テーブルの上に一枚の茶封筒が置かれているのに気が付いた。

あれ、これは、とおもって、中身を出してみると、40万円の小切手が入っている。

しかも、封筒の表面には何も書いていなかったが、裏面には、曾我正輝と達筆な毛筆でしっかり描かれていた。

「やっとわかってくれましたね。じゃあ、それ、お貸ししますから、それで水穂さんに薬を出してやってください。」

隣のテーブルで、ラーメンを食べていたジョチが、蘭にそういった。その顔には、悪気は全くなさそうだ。

「な、なんでお前が手を出すんだよ!波布の癖に!」

「ご、ごめんなさい。僕には40万円なんていう大金はとても用意できないと言ったら、理事長さんが代わりに出してくれたの。」

ぱくちゃんは、蘭に水を出しながら、そういった。

「いいじゃないですか。誰から借りたって。とにかく40万手に入ったんですから、それを小杉先生にお渡ししたらいかがですか?返済は、忙しくないときで結構ですよ。利息も何もいりませんから、いつでも結構です。」

「お前。今まで水穂の事を、共産党の党員として誘うつもりだったくせに、なんで今更こういうことをするんだ!」

蘭は、でかい声で、怒りを示した。

「当たり前じゃないですか。彼には、そうなってもらいたいですからね。ああいう、人種差別の塊のような人は、ぜひ、なってもらいたいですから。それに、選挙はまた何回も行われるでしょうし。出馬できそうな立候補者も結構増えていますのでね。手始めに、応援演説にも出てもらいたいですしね。」

やっぱり、波布のたくらみはまだ続いているようである。

「ええ、それだけではありませんよ。僕たちは、傷ついた若い人たちを支援することもしたいですから、その手伝いもしてもらいたいです。ですから、彼にはまだ生きていてもらわなければなりませんね。ですから、今回出させてもらいました。40万円。」

今回は、貴様!などと怒鳴る気にはならなかった。なんだかもう、ジョチに負かされている気がした。

「一体どうしたんですか、蘭さん。わざわざそんな大金欲しがるなんて。何かわけでもあるんでしょう?もしよければ、聞かせてもらえますかね。まあ、よく誰かに話せば楽になるとは言いますが、そうと限らないことは知っていますけど。」

「くそ、、、。」

蘭は、涙を流しながら、もうこの波布に任せてしまうしかないかもしれないと思った。

「僕は、あいつに対して、どうしようもない悪いことをして、、、。」

蘭の言葉は続かない。

「ほら、最後まで、しっかり話してくれませんかね。」

「だから、僕が学校でいじめられたときに、母が水穂を犯人にしてしまって。本当はそうではなくて、やつは、うちの母が贈賄したのを目撃しただけの事なんです。子供だったから、何もわかりませんでした。大人になってやっとわかりました。だからどうしても、謝罪したいって思っているんですが、今は、もう、謝罪をするどころか、製鉄所への立ち入りができなくて、、、。」

「わかりましたよ。蘭さん。」

やっと、そこだけは、わかってもらえたらしい。

「ただ、僕は、そうなっても仕方ないと思うんですよ。どうしても、贈賄というものは、資本主義に傾く以上、生じますしね。蘭さんの会社だって、そうしなきゃいけなかったんでしょうし。確かに、贈賄は倫理的に言ったら、悪いことではありますけどね。」

「じゃあ、僕は、どうしたらいいんでしょう。母が、水穂のことを無理やり犯人に仕立て上げたばかりか、やつは、賠償金まで支払う羽目になりました。本人の話を聞くと、ある日突然両親の姿が見えなくなって、それ以来、行方不明になっているそうです。多分きっと自宅を売りにだして、それでもたりなくて、心中でもしたんでしょう。それで結局やつは、暴力団の親分のもとで育って、音楽学校まで行かせてもらったそうですが、それでもまだ支払いしきれてなくて、過酷な演奏活動をしなければならなかったんです。もう体のほうが、参ってしまって、、、。全部の、原因を作ったのはみんな僕なんですよ。一度でいいから、謝罪したいんですけど。だんだんそれどころじゃなくなっていくようで。」

蘭は、本当に悲しそうに言った。

「正直、もう遅すぎます。」

ジョチは静かにいう。

「ただ、僕が見る限りではですが、彼はもう、許しているのではないでしょうか。」

蘭の顔が、また変わった。

「だからね。水穂さんに関しては、静かに逝かせてやるのが、一番いいんですよ。」

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