王思政②不可抗力で高歓と敵対しました
▼王思政、孝武帝の即位をサポートするのこと
まずは生まれ育ちからね。
やる気を見せろ。
▽
『北史』
王思政,太原祁人,
漢司徒允之後也。
自魏太尉凌誅後,
冠冕遂絕。
父祐,州主簿。
思政容貌魁梧,有籌策,
解褐員外散騎侍郎。
屬万俟醜奴、宿勤明達等擾亂關右,
北海王顥討之,
聞思政壯健,
啟與隨軍,
所有謀議,並與參詳。
王思政、太原の祁の人、
漢の司徒の允の後なり。
魏の太尉の凌の誅さるる後より、
冠冕は遂に絶ゆ。
父の祐、州の主簿たり。
思政は容貌魁梧にして籌策あり、
褐を員外散騎侍郎に解く。
万俟醜奴、宿勤明達らの關右を擾亂するに屬し、
北海王の顥は之を討つ。
思政の壯健なるを聞き、
啓して與に軍に隨わしめ、
有る所の謀議、並びて與に參詳せり。
△
ふうん。
太原の王氏は名門です。
『北史』ではご丁寧に後漢の
と述べております。
へええ、有名人。
ちなみにこの一族、
王允の甥の
なお、
罰する/罰さないというお話になり、
モメております。
こちらは、
0516さん『デイリー世説新語』
にも出ております。
司馬懿1 俺の郭淮
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054884994765
涙なしでは語れない夫婦愛の話ですので
ご興味の向きは是非。
いわくつきの一族の出身であった
と言うことです。
ただ、
お父さんの
州の
当時も地元では名士だったのでしょう。
息子の王思政は
つまり、カオがイカツかったわけです。
梶井基次郎とか近藤勇っぽい
ガクガクした感じのお顔を
想像されるとよいかと思います。
正統派の美男からは遠い。
つまり、
計略を考えるのが得意だったようです。
性格はよくなかった、と。
まずは、
無任所の官から官途に就きます。
京官、
つまり、
洛陽に勤める官だったのかなあ。
よく分かりませんが、
無任所なので決まった仕事はないです。
ちょうどその頃、
というあからさまに漢人ではない感じの人々が
叛乱して関中を乱しておりました。
「万俟」がなんで「ぼくき」なんだよ、
というクレームがあるかと思いますが、
なんか特殊な読みをするみたいです。
『
万が「莫北翻」、
俟が「渠之翻」
となっています。
ね、ボクキでしょ?
意味不明ですか、そうですか。
ちょっと解説。
まず「万」ですが、
反切が「莫北翻」の場合、
「莫=バク=baku」と
「北=ホク=hoku」のうちの
「Baku+hOKU」の大文字部分だけを
繋げたのが音になるよ、という意味です。
すなわち「BOKU=ボク」となりますね。
同じく、
「俟」の「渠之翻」は、
「Kyo」と
「sI」なので
「KI=キ」になります。
ざっくり言うとそういう感じ。
「ボクキ」になりますね?
では、そういうことで。
下ネタじゃないのよ。
この叛乱は六鎮の乱が
飛び火したものなのですが、
六鎮の乱の詳しいお話はまた気が向いたら。
で、
北海王の
その際、
「王思政がイイらしい」との評判を聞き、
従軍させたようです。
謀議に必ず出席していたようですから、
得意の計略を買われたのでしょう。
元顥は
王羆さんの雍州刺史着任を阻んだ人です。
「ちっ」
▽
『周書』
時魏孝武在藩,素聞其名,
顥軍還,乃引為賓客,
遇之甚厚。
及登大位,委以心膂,
遷安東將軍。
預定策功,封祁縣侯。
時に魏の孝武は藩に在り、素より其の名を聞く。
顥の軍の還るに、乃ち引きて賓客と為し、
之を遇すること甚だ厚し。
大位に登るに及び、委ねるに心膂を以てし、
安東將軍に遷る。
策を定めるに預るの功あり、祁縣侯に封じらる。
△
洛陽に帰ると、
後の
=当時の
という人に賓客として招かれました。
この後、
元脩という人は田舎に潜んでいました。
その際も王思政とは連絡をとっていたらしい。
しかし、
後に皇帝となる人が都を捨て、
田舎に逃れるとはねえ。
末期症状。
その爾朱氏も
爾朱氏に擁立された帝を
すげ替える必要がありました。
名分大事。
高歓は元脩を擁立しようと思い、
これまた絶対に漢人じゃない名前の
ちなみに高車出身らしい。
斛斯椿は王思政の友人でしたので、
当然のように居場所を聞き出し、
二人して高歓の許に連れて行ったわけです。
この時、王思政は元脩から
「オレを売りやがったな、テメー」
とお上品に罵られており、
説得して高歓の許に連行しています。
気が強い人だったんですね。
悪い予感しかしない。
その後、
元脩が帝位に即くこととなり、
これが孝武帝となります。
つまり、
元脩が帝位に即くきっかけとなったのです。
このことより王思政と斛斯椿は
元脩の腹心と位置づけられますが、
高歓にしてみれば
元脩はお飾り、傀儡です。
大人しい人であればよかったのですが、
元脩はメッチャ気が強い。
当然、皇帝として振舞いたい。
日に日に溝が深まることは避けられません。
上で言われている
「策を定めるに預るの功」は要するに、
元脩を帝位に即けたことを指します。
で、
即位の直後に安東将軍に任じられ、
しばらくして論功が行われた際に
祁縣侯に封じられました。
『北史』ではこの時に合わせて
武衛将軍に進んだとされています。
でも、
爾朱榮の活躍により北魏の官職とか
ほぼ形骸化していますから、
割とどうでもいい。
▼王思政、気づけば反高歓派の星になるのこと
孝武帝の腹心となった王思政ですが、
皇帝権力が磐石ではありませんから
安閑としてはおれません。
斜陽の皇室を支えざるを得なくなりました。
超貧乏くじ。
▽
『北史』
俄而齊神武潛有異圖,
帝以思政可任大事,
拜使持節、中軍大將軍、大都督,
總宿衞兵。
俄にして齊神武は潛かに異圖あり、
帝は思政の大事を任ずべきを以って、
使持節、中軍大將軍、大都督を拜し、
宿衞の兵を總べさしむ。
△
コッ恥ずかしい
いよいよ元脩をすげ替えようかと考えはじめ、
元脩は王思政を
使持節、
中軍大將軍、
大都督
に任じて禁軍の統率を委ねました。
はい、外堀を埋められて逃げられません。
どこから見ても元脩の一派、疑う余地なし。
ということは、
絶対権力者である高歓に
抗わなくてはなりません。
あらあら、うふふ。
▽
『周書』
思政乃言於帝曰:
「高歡之心,行路所共知矣。
洛陽四面受敵,非用武之地。
關中有崤、函之固,一人可禦萬夫。
且士馬精彊,糧儲委積,
進可以討除逆命,
退可以保據關、河。
宇文夏州糾合同盟,
願立功効。
若聞車駕西幸,
必當奔走奉迎。
藉天府之資,
因已成之業,
一二年間,習戰陣,勸耕桑,
修舊京,何慮不克。」
帝深然之。
及齊神武兵至河北,
帝乃西遷。
進爵太原郡公。
思政は乃ち帝に言いて曰わく、
「高歡の心、行路の共に知る所なり。
洛陽は四面に敵を受け、用武の地にあらず。
關中は崤函の固あり、一人にて萬夫を禦ぐべし。
且つ士馬は精彊、糧儲は委積さる。
進みて以て逆命を討ち除くべく、
退きて以て關河を保ち據るべし。
宇文夏州は同盟を糾合し、
功効を立つることを願う。
若し車駕の西幸するを聞かば、
必ずや當に奔走して奉迎すべし。
天府之資を藉り、已成の業に因り、
一二年の間、戰陣を習いて耕桑を勸め、
舊京を修めれば、何ぞ克くせざるを慮らんや」と。
帝は深く之を然りとす。
齊神武の兵の河北に至るに及び、
帝は乃ち西遷せり。
爵を太原郡公に進めらる。
△
孝武帝や王思政あたりが
歯ギシリしたところで、
軍権を握る高歓には
歯向かえようはずもない。
ムリムリ。
しかも、
高歓が孝武帝を快く思っていないことは
一般常識の範疇に入ったようです。
「高歡の心、行路の共に知る所なり」
つまり、
道を行く人は誰でも知っている。
隠す気ゼロ。
それくらい孝武帝は空気。
その空気の腹心と見なされたのですから、
王思政もいい迷惑です。
フツーの人なら
トンズラするところでしょう。
それでも孝武帝を捨てない王思政、
得意の計略を按じ、
=
が拠る
元脩に勧めます。
これより以前、
王思政は関中で独自の勢力を保っていた
密かに接触していたらしいです。
賀抜岳と高歓は
仲がよくなかったのですね。
霊太后と幼い皇帝を黄河にドボンし、
百官を殺しまくった河陰の変で
高歓は主謀者の一人だったらしい。
賀抜岳は親分の爾朱榮に
「高歓を誅殺せんとアカンで」
と勧めています。
仲よくできるはずもありません。
それを利用して孝武帝の逃げ場所を
確保しようとしていた。
そして、
宇文泰は賀抜岳の部下でした、
しかし、
賀抜岳は高歓の差し金で
という
どこまでが姓で
どこからが名か
まったく分からない人に殺されます。
ちなみに、
侯莫陳が姓で、悦が名ね。
これをきっかけに
賀抜岳の腹心であった宇文泰が台頭します。
なんというか、薮蛇ですか?そんな感じ。
その宇文泰が刺史を務める夏州は
長安の遥か北にある僻地ですが、
北方では交通の要衝だったっぽい。
ただし、
行き交う人は
鮮卑族とか
異民族が大半でしょうねえ。
賀抜岳が死んだと聞いては、
夏州でボンヤリしておれません。
南下して賀抜岳の軍勢を吸収、
その跡を継ぎました。
この時、
「宇文泰が賀抜岳の跡を継いだ」
といっても、
賀抜岳に仕えていた
比較級的第一人者だったっぽい。
要するに、
「同僚の中で一番エライ人」
という感じ。
この宇文泰の立ち位置が
死後に色々とムリを生じます。
思うに、
賀抜岳の軍団は爾朱榮軍にあって
武川鎮人を中心とする共同体に
近かったんじゃないかなあ、と。
だから、
賀抜岳も宇文泰も父老みたいなもんで、
調停者ではあって突出した命令権は
なかったかも知れません。
ちゃんと検証してませんけど。
その場合、
信任を基にした関係なわけで、
あまり勝手なことはできません。
結果、宇文泰の死後、
宇文氏が第一人者の地位を確立するには、
禅譲を受けるしかなかったのかな、と。
それが、
簒奪者&弑虐者としてクソ味噌に言われる
を生んだんじゃないかなあ、
と疑っています。
個人的には、
宇文護被害者、
宇文泰イクナイ、
と感じておりますが、
これまた別の話ですね。
王思政と賀抜岳の密約は
宇文泰にも引き継がれ、
高歓と決裂した際には
孝武帝が関中に逃れる、
そういう手筈になっていた、
ということです。
その後、
孝武帝は高歓との間は
予定とおり決定的に決裂、
高歓は
「しゃーないなー」
ということで軍勢を率い、
洛陽に向かいます。
超ダルイ。
孝武帝は超ピンチ。
やむなくというか、予定通りというか、
王思政が企てたように洛陽から西に逃れ、
長安に向かいます。
ちなみにこの時、ほとんどの朝臣は
孝武帝に「従わなかった」のです。
洛陽で高歓の到着を待った人が大半。
人気がないというより、
高歓の権力が圧倒的だったのでしょう。
こういう経緯を経て
孝武帝は長安に入ったわけです。
つまり、
王思政という人は西魏の成立にも
深く関わっていたのです。
この結果、
太原郡公の爵位を授けられ、
『北史』によると加えて
に任じられました。
并州刺史は高歓の支配地域ですから、
気分だけです。
これを
これまたどうでもいい。
実際には、
元脩の警護兵を率いるような
立場だったのでしょう。
なんというか、
ここまでマジメ過ぎて
全然面白くないんですけど。
そんな王思政ですが、
ついに
化けの皮が剥がれる日が参ります。
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